湖畔人です。
仕事をしていると実力差と言うものが出て来ますね。
ある人は、より付加価値の高い仕事をし、その方へは評価は高くなり、結果、報酬も多めになりますね。
仕事をしていると実力差と言うものが出て来ますね。
ある人は、より付加価値の高い仕事をし、その方へは評価は高くなり、結果、報酬も多めになりますね。
一方で、能力的に、実力的にそこまで及ぼない方々も多数おられます。なので、それらの方々への評価はそれなりとなり、報酬もそれなりに差が出て来ますね。
でもそれは、致し方ありませんね。実力差があるのに同じ扱い、と言う訳には行きません。
でも、だからと言って、そうした方々も、軽く見られたり、バカにされたり、人格を否定されるような事はあってはなりませんね。
所詮、仕事ですから、その実力差、能力差は、報酬差や役職の差で反映されるべきではありますが、でも、それら能力的に劣ると言うだけでもって、軽んじられたり、人格を否定されるべきではありません。
得手不得手はあるし、別の仕事なら別の結果が出るかもしれないし、または、単にその仕事に合わないだけかもしれない。それだけかもしれない。そんな仕事上の適性でバカにされたり、人格を否定されるようなことがあってはなりませんね。
何故なら、人間は神の子達であるからです。
過去、このブログで何度も書いて来た通り、様々な世界の思想や宗教の最大公約数的な真理として見てみると、人間は、本質的には神の子なんであり、霊的な存在であり、転生輪廻の中、何度もこの世に生を受けては、個人においてはカルマを解消し、良い所を伸ばし、経験を積み、そうした経験を通してより神近き存在になる事が期待されている存在で、一方、修行の場としてのこの世を、より良い場にする為に、この世のユートピア化のお手伝いを各人がする事も期待されている存在でもある、それが我々人間であり、我々が何度もこの世に生まれてくる意味なのだ、この世の存在意義もそこにあるのだ、と、過去何度も述べて来ました。
また、別の言い方では、神の光を分光して出来たのが我々、とも聞く事があります。その意味で我々は神の分け御魂、"神の一部"とも言える存在かとも思いますね。
ただ、神の"一部"とは言え、我々は神そのものではない事も事実なので、その点をしっかりわきまえておく必要がありますね。
例えば、神と言う巨大な体を持つ存在がいるとして、その神の体を構成する60兆個もある細胞の一個が、自分、てなもんです。例えば、右手の甲の、その皮膚細胞の一個が自分、みたいなもんでして、そんな皮膚の細胞一個(自分)としては、神と言う巨体の全貌を認識できるはずもないし、神と言う全体がこれから成さんとする事も、どこに向かおうとしているかも、全く分からないはずなのです。なので我々は神ではありませんね。
それに、神なら知っているであろう、この世界がどう始まったか、とか、いつ始まったか、いつ終わるのか?この世界の存在意義は何か?なんて言う究極の問いに答えられませんし、自分がいつ死ぬかすら知りません。神なら出来るであろう、無から何かを生み出す創造の力もありません。ちょっとした自己実現位はできてもね。宇宙の創造、生命の創造なんて出来る訳がないのです。なので、我々は神の一部であっても、神、そのものではないのです。
なので、我々は、神そのものではない。神の様な力はないけど、神の一部として同じ神の体の一部の構成員であり、同じ血液で生きており、同じ遺伝子を内包している、それは事実。なので、そこに誇りを感じてもいいけど、神そのものではない事も認識し、謙虚でないといけない訳です。
神と話す能力もないので確実に"その考えが絶対に正しい!"と断定はできませんが、多分合っていると思います。と言う事で、我々は人間は神の子であり、神の一部ではありますので、我々は神性、神の性質を内に宿す、尊い存在、と言えるかと思います。
であれば、たかだかその仕事への適正が不十分だからと言って人格まで否定されるようなことがあってはなりませんね。実力の如何にかかわらず、その対象の方への最低限のリスペクトがそこにはあるべきです、ね。なので、仮に人格まで否定されるような場面があれば、その否定自体が否定されるべきですね。
軽くキレても宜しいかと思います。
でも、そうした本質論はあるにしても、一方で、歴然とした実力差、能力差と言うものも、残念ながらありますね。そしてそれに伴い報酬や役職に差が出ざるを得ないですね。でも、それは仕方がありませんね。そこは受け入れざるを得ません。
一度の人生だけで見ると、若くてもとても才能のある人もおり、逆にある程度年を取っていても、実力的に若手に劣る場合もあり、その持って生まれた才能の様な差に、ある種の不公平感を感じる場合があるかもしれません。
でも短い一度の人生の、若年の期間だけを取ってみても、
ある人は目的性を持ったしっかりとした努力を数年掛けて積み重ねており、結果、プロと呼べる領域にまで達しており、何となく生きて来た人達と大きな差が出ている場合はありますね。
一方で、普通の人達は同じ時間を過ごしても、練習や鍛錬に時間を費やしている風でも、目的性が曖昧で、一体何を向上させたいか?というテーマすら曖昧で、何となく時間を過ごしてしまっている場合もありますね。その二人の間には埋められない大きな差が数年間であっても出て来たりします。たった一度の人生の、若い時期だけをとっても、努力の質と量で、大きな差が生まれて来る訳です。
大谷君や井上尚弥選手の様に、何を伸ばしたいか明確な課題を持って鍛錬を積み重ね、一つ一つ課題の能力を身に着けて来て、超人の様な域にまで及ぶ方々もおりますね。
そうした若年の時期だけでも差が出て来るのに、例えば、転生単位で100転生、1000転生とその差を重ねた場合、そこには埋めがたいとてつもなく大きな大きな能力差、実力差が生まれてくるはずです。大谷君など、不公平なほどの才能があり、凡人の我々とは同じ人間とは思えませんが、仮に彼が過去の転生で似たような競技、または武術等に携わって来たとして、彼がそこで正しい努力を数十年もそれぞれの人生で重ね、そうした転生を10回、100回と重ねていたとすれば、現状の彼と我々の実力差は納得がいくかと思うのです。
なので、持って生まれた能力に関して、他者と圧倒的な差を感じる場合には、または"神様は不公平"なんて思えるような場面に出くわしたなら、転生の中での努力の差を疑ってみると良いと思います。高品質な努力を、それぞれの人生で何十年も続け、そうした人生を数百回、数千回重ねて行けば、そこには、埋めがたい差が出て来る事も理解できるはずです。
なので、仮に不公平感を覚えるほどの実力差を見せつけられたとしても、それに余りガッカリなどせず、"転生の中で大変な努力をされて来たんだろう…立派だね。おめでとうございます。"位に思うとなんか気が楽になりますし、その方の転生を超えた努力に対し、素直に称賛する気持ちも沸いてきますね。
もしそうした場面に出くわしたなら、是非そう言う見方で見る事もお試しください。
そして、次の転生でのご自身の活躍に期待を掛けて、今世の残りの人生で来世に繋がる質の高い努力をされる事もお勧めします。LIFE GOES ON。人生は今世だけじゃないしね。
では。
湖畔人
でもそれは、致し方ありませんね。実力差があるのに同じ扱い、と言う訳には行きません。
でも、だからと言って、そうした方々も、軽く見られたり、バカにされたり、人格を否定されるような事はあってはなりませんね。
所詮、仕事ですから、その実力差、能力差は、報酬差や役職の差で反映されるべきではありますが、でも、それら能力的に劣ると言うだけでもって、軽んじられたり、人格を否定されるべきではありません。
得手不得手はあるし、別の仕事なら別の結果が出るかもしれないし、または、単にその仕事に合わないだけかもしれない。それだけかもしれない。そんな仕事上の適性でバカにされたり、人格を否定されるようなことがあってはなりませんね。
何故なら、人間は神の子達であるからです。
過去、このブログで何度も書いて来た通り、様々な世界の思想や宗教の最大公約数的な真理として見てみると、人間は、本質的には神の子なんであり、霊的な存在であり、転生輪廻の中、何度もこの世に生を受けては、個人においてはカルマを解消し、良い所を伸ばし、経験を積み、そうした経験を通してより神近き存在になる事が期待されている存在で、一方、修行の場としてのこの世を、より良い場にする為に、この世のユートピア化のお手伝いを各人がする事も期待されている存在でもある、それが我々人間であり、我々が何度もこの世に生まれてくる意味なのだ、この世の存在意義もそこにあるのだ、と、過去何度も述べて来ました。
また、別の言い方では、神の光を分光して出来たのが我々、とも聞く事があります。その意味で我々は神の分け御魂、"神の一部"とも言える存在かとも思いますね。
ただ、神の"一部"とは言え、我々は神そのものではない事も事実なので、その点をしっかりわきまえておく必要がありますね。
例えば、神と言う巨大な体を持つ存在がいるとして、その神の体を構成する60兆個もある細胞の一個が、自分、てなもんです。例えば、右手の甲の、その皮膚細胞の一個が自分、みたいなもんでして、そんな皮膚の細胞一個(自分)としては、神と言う巨体の全貌を認識できるはずもないし、神と言う全体がこれから成さんとする事も、どこに向かおうとしているかも、全く分からないはずなのです。なので我々は神ではありませんね。
それに、神なら知っているであろう、この世界がどう始まったか、とか、いつ始まったか、いつ終わるのか?この世界の存在意義は何か?なんて言う究極の問いに答えられませんし、自分がいつ死ぬかすら知りません。神なら出来るであろう、無から何かを生み出す創造の力もありません。ちょっとした自己実現位はできてもね。宇宙の創造、生命の創造なんて出来る訳がないのです。なので、我々は神の一部であっても、神、そのものではないのです。
なので、我々は、神そのものではない。神の様な力はないけど、神の一部として同じ神の体の一部の構成員であり、同じ血液で生きており、同じ遺伝子を内包している、それは事実。なので、そこに誇りを感じてもいいけど、神そのものではない事も認識し、謙虚でないといけない訳です。
神と話す能力もないので確実に"その考えが絶対に正しい!"と断定はできませんが、多分合っていると思います。と言う事で、我々は人間は神の子であり、神の一部ではありますので、我々は神性、神の性質を内に宿す、尊い存在、と言えるかと思います。
であれば、たかだかその仕事への適正が不十分だからと言って人格まで否定されるようなことがあってはなりませんね。実力の如何にかかわらず、その対象の方への最低限のリスペクトがそこにはあるべきです、ね。なので、仮に人格まで否定されるような場面があれば、その否定自体が否定されるべきですね。
軽くキレても宜しいかと思います。
でも、そうした本質論はあるにしても、一方で、歴然とした実力差、能力差と言うものも、残念ながらありますね。そしてそれに伴い報酬や役職に差が出ざるを得ないですね。でも、それは仕方がありませんね。そこは受け入れざるを得ません。
一度の人生だけで見ると、若くてもとても才能のある人もおり、逆にある程度年を取っていても、実力的に若手に劣る場合もあり、その持って生まれた才能の様な差に、ある種の不公平感を感じる場合があるかもしれません。
でも短い一度の人生の、若年の期間だけを取ってみても、
ある人は目的性を持ったしっかりとした努力を数年掛けて積み重ねており、結果、プロと呼べる領域にまで達しており、何となく生きて来た人達と大きな差が出ている場合はありますね。
一方で、普通の人達は同じ時間を過ごしても、練習や鍛錬に時間を費やしている風でも、目的性が曖昧で、一体何を向上させたいか?というテーマすら曖昧で、何となく時間を過ごしてしまっている場合もありますね。その二人の間には埋められない大きな差が数年間であっても出て来たりします。たった一度の人生の、若い時期だけをとっても、努力の質と量で、大きな差が生まれて来る訳です。
大谷君や井上尚弥選手の様に、何を伸ばしたいか明確な課題を持って鍛錬を積み重ね、一つ一つ課題の能力を身に着けて来て、超人の様な域にまで及ぶ方々もおりますね。
そうした若年の時期だけでも差が出て来るのに、例えば、転生単位で100転生、1000転生とその差を重ねた場合、そこには埋めがたいとてつもなく大きな大きな能力差、実力差が生まれてくるはずです。大谷君など、不公平なほどの才能があり、凡人の我々とは同じ人間とは思えませんが、仮に彼が過去の転生で似たような競技、または武術等に携わって来たとして、彼がそこで正しい努力を数十年もそれぞれの人生で重ね、そうした転生を10回、100回と重ねていたとすれば、現状の彼と我々の実力差は納得がいくかと思うのです。
なので、持って生まれた能力に関して、他者と圧倒的な差を感じる場合には、または"神様は不公平"なんて思えるような場面に出くわしたなら、転生の中での努力の差を疑ってみると良いと思います。高品質な努力を、それぞれの人生で何十年も続け、そうした人生を数百回、数千回重ねて行けば、そこには、埋めがたい差が出て来る事も理解できるはずです。
なので、仮に不公平感を覚えるほどの実力差を見せつけられたとしても、それに余りガッカリなどせず、"転生の中で大変な努力をされて来たんだろう…立派だね。おめでとうございます。"位に思うとなんか気が楽になりますし、その方の転生を超えた努力に対し、素直に称賛する気持ちも沸いてきますね。
もしそうした場面に出くわしたなら、是非そう言う見方で見る事もお試しください。
そして、次の転生でのご自身の活躍に期待を掛けて、今世の残りの人生で来世に繋がる質の高い努力をされる事もお勧めします。LIFE GOES ON。人生は今世だけじゃないしね。
では。
湖畔人