いそがしい
季節の先取りを着ているのだけど、身に付けないまま季節が通り過ぎていくことが多い
立春を過ぎるともう冬の柄はおかしい、そして水仙も梅も自然界にお任せという感覚になって、身に付けるのがはばかられる。こういうことを言ってるので着物が廃れるという意見もある。
たしかにね、その為に一年中きられる着物や帯がたくさん出てきた。四季の花がすべて入っている着物とか、帯。それもいいだろうと思う。華やかだしね、百花繚乱。
縞や格子、無地の織の着物を着ていることの多かった昔に、女たちがせめて帯は季節感を感じたいと思って、季節を先取りする風習が生まれたのだ、いえもっと古いな、枕草子にも書かれている、このころは重ねの色目に季節があり、その季節が終わって、もまだ前の季節の重ねを着ている鈍いい女だ。というような表現がある。
日本人は大いなる昔から、季節をまとうということが最もお洒落だったのだ。季節の移り変わりを感じない女は「鈍い」それはすべてにおいて「鈍(どん)な女」とさげすまれていた。
鈍ナ女は周りの空気をよめない、気働きがない、笑顔がない、お辞儀が出来ない、声が低い小さい、口を開けないでしゃべるから聞き取れない、人をほめることが出来ない、自分をいつも卑下するか、高圧的になるか、と現代語にするとこのような女が「鈍な女」だそうだ。
清少納言は女をよく見ている。
「女専門」という男の作家も結構いるけど、ここまで辛辣ではない。だって男は女にもてたいからね。心の底におんなにおもねっている。そこが気持ち悪い
ある意味清少納言は女にエールを送っているのだ、とチャ子ちゃん先生は思う。イイ女は女に尊敬され憧れられる。清少納言はそこをついてる。
着物の着方や、趣味にかこつけて、女を批判しているが、あくまで理想の女を目指せと応援しているのだ。
最近着物を着る人がふえて、清少納言風に感想を言ってると面白い。そういうゲームを楽しんでいるチャ子ちゃん先生。