与えられている、すべて
現実に与えてくれる人は人であったり、自然であったりするが、村上先生がおっしゃるサムシンググレートの意思は人間にすべて与えている
チャ子ちゃん先生は与えてくださる人をはっきり「神」と呼ぶ
「神を神とする」
という生き方をしたいと深く強く思う
最近特にそのことが理解出来てきた、やっとだ!この理解のために八十路まで来たのだろうかとも思う
20年前姉から一冊の本が送られてきた
「父の偉大さをいまさらながら感じています、残りの人生をしっかり生きなければと思います」
その本は旧約聖書の中の「エゼキエル書」父が別府集会で講話をしたテープ起こしの本だった
「ありがとう」
といったものの、全く一行も読んでいなくて、引っ越しの本の整理の時、他人の手によって捨てる側に入っていた
「ああこれはダメ」
とあわてて胸に抱えて常に見えやすい書棚に飾った。そうしたら知人から「比佐子さんのお父さんにあずかっていた」という文語訳の分厚い舊新約聖書を届けに来てくださった。預かったのがもう50年も前だというので、その方も恐縮していた。私が持っている聖書は手の平に乗るような大きさで文字が小さく読みにくい、その聖書を見た父が買い置きして、東京に引っ越すというその知人に預けていたらしい
「今がその時期なんですよ、預かっていただいててよかったわ」
その次の朝から朝の日課に聖書と父の講話のエゼキエル書の音読みが始まった
言葉のひとつ一つが肚に落ちる
「我」が少しずつ取れていき、神のなさることにお任せという感覚になったとき「ああすべてが与えられているんだなあ」と心の底から感謝の念が沸き上がった。そうしたら本当にあたえられる
不安も恐れもなくなり、淡々と日々を暮らしていける。生まれる前に自分が計画した人生をとどこうりなく過ごすことの方が大事だと知る
聖書と一二三神事を併せて読むとなおおもしろい