持ち物整理の一環として、40年以上放置していた8mmフィルムを見ようとしたら、懸念していた通り映写機が壊れていた。
リールは10本あり、見れないのであれば捨てようかといったんは思ったが、せっかく保管してきたので、富士フイルムに8mmフィルムのDVDダビングサービスを依頼。
2ヶ月を経て、それがようやく届いた。
画質は粗く、経年劣化で色褪せていた。
それでも、映像を見ていると、すっかり忘れしまった、はるか昔の記憶が蘇ってくる。
東京で就職したが、最初の勤務地は故郷の福岡支店だった。
入ってしまえばあとは辞令一本で日本全国どこでも転勤させられる身となるので、最初は地元に返してやろうという方針だった。
同時に、東京生まれの東京育ちは地方を経験させようと、それも地方勤務となった。
つまり新人は全員地方勤務からスタートした。
そして、8mmフィルムの撮影は、福岡支店勤務時代から始まっている。
最初の映像は昭和50年、つまり50年も前になる。
今はもう多分やってないと思うが、当時は社員旅行が当たり前だった。
一年に一回、支店全員で一泊二日の旅行に出かけた。
支店全体のほか、各セクションごとに旅行やドライブもあった。
今の若い人は休日まで職場の人間とつきあうのは忌避感があると思うが、当時はみんなけっこう楽しんでいた。
夜の宴会では、新人が中心になって寸劇を演じるのが恒例だった。
演じている方も見ている方も大いに盛り上がった。
山登りが好きで、職場で部を作ると人事部から補助金が出ると聞いて、ワンダーフォーゲル部を作った。
登山部とすると本格登山のイメージになるので、参加しやすいイメージのワンダーフォーゲル部にした。
九州の名峰、久住山(1786m)に登った時に8mmフィルムで撮っており、映像を見ていると15人くらいの参加者がいたようだ。
リール10本のうち2本はわが夫婦の結婚式で、1本は僕側の誰か、1本は妻側の誰かが撮ったと思われる。
当時は渋谷支店勤務だったが、妻も福岡であり、式は地元福岡で挙げた。
遥か遠い彼方に去っていた自分の結婚式の記憶が、映像を見ているうちに朧げに蘇ってくる。
渋谷支店からは支店長、直属上司の課長などが出席、ほか勤務先の親しい同期や先輩、大学時代の友人達が東京から出席してくれた。
母は関西出身なので、母の親戚は大阪から来てくれた。
司会は小学校以来の親友K君だったこと、カラオケ大好きな自分が歌ったこと、琴を教える免状を持つ妹が演奏してくれたこと、など薄れつつあった記憶が映像で確認できた。
ちなみに、司会をやってくれたK君は一昨年に癌で急逝した。
ついでに言うと、結婚披露宴の司会を3回やった。
元来大勢の人前で話すのが苦手なのに、何故かどうしてもやってほしいと頼まれて、いやとも言えず引き受けた。
1回目はわけもわからず、2回目はボロボロで終わり、3回目は帝国ホテルという大舞台ながらなんとかつつがなくやり終えた。
横浜市港北区篠原西町に家を借り、東急東横線「白楽」から渋谷支店に通った。
その後、横浜市港北区大倉山にマンションを買い、移住。東急東横線「大倉山」から通勤。
大学時代に住んでいたのは東小金井だったので、横浜方面にあまり縁がなく、休日になると鎌倉や横浜港周辺によく出かけた。
両親が来るとやっぱり鎌倉を案内した。
両親は大倉山から近い「新横浜」から新幹線で帰った。
当時の新幹線。
ホームから見える、まだほとんど建物がない土地には今は建物がたくさん建っているに違いない。
このあとの8mmフィルムは、だんだんお腹が大きくなる妻の姿があり、やがて初めての子、長男誕生。
義父母、義妹が来た時もやっぱり鎌倉へ。
初めてのわが子が可愛くて、8mmフィルムで撮りまくる。もちろん写真も。
長男が歩けるようになったところで、8mmフィルムでの撮影は終わる。
2番目の子、長女の誕生以降は、ビデオテープVHSで撮るようになった。
その後ビデオカメラ用のVHS-Cで撮るようになり、さらにHi8で撮るようになった。
VHS、VHS-Cはかなり前に自分で編集しながらDVDへダビングし、Hi8はビデオカメラが故障して再生できなくなったため数年前に業者に委託してDVDへのダビングが終了。
ということで、持っていても映像が見れない8mmフィルムと、大量のビデオテープを全部捨てよう。