毎年見ているが、こんなに白っぽい山は初めて。どうしたのだろう。
公園の入り口にほど近い場所には「ヤマボウシ」↓
毎年見ているが、こんなに白っぽい山は初めて。どうしたのだろう。
公園の入り口にほど近い場所には「ヤマボウシ」↓
私ではなく、主人の弓道の師のことば
【眼は半眼 口は一文字】それが集中のコツだということのようだ。
本日のWBCの大谷氏。まさに眼が半眼 口は一文字
いつもの柔和な顔とは一味違い、かなりの集中モード、ゾーンに入っていた感じがしました!
WBC JAPANチームの皆さん、
そして応援していた皆さん、
世界一♡♡おめでとうございます~~♫
我が家族も、湧きました!
改修中の北海道庁。日頃気が付かないデザインが見える。
チカホ(地下歩道空間)の巨大ポスター
美術館到着。
飛鳥時代の作品に魅了された!
そして聖徳太子はいろいろな時代にブームになって現れていたらしいこともわかってきた。
解説パネルがガラスの中の作品の横に有。
文字が小さめ且つ遠いため何処からともなく「小さくて良く見えない」が聞こえてくる。
学芸員様 どうか解説パネルの文字を大きくはっきりとした文字に、何かはっきりと見える工夫をお願いいたします!
久々に楽しい展覧会~~~後期も行こうと思います。
最近怖い夢を見ていたので「夢違観音様」に悪夢が良い夢となるようにお願いしてきました!
買ってきたグッズも私にしては多い。ツボにはまってしまって‥‥
聖徳太子伝暦. 巻上,下 / 平氏 撰
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/nu02/nu02_04583/index.html
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/nu02/nu02_04612/nu02_04612_0002/nu02_04612_0002.pdf
上記は江戸時代の印刷だが、
国宝法隆寺展では南北朝時代の物であった。読みやすい文字であった。
何故か後半に中大兄皇子のことについて、書かれていた。
大内氏と内藤氏 同じ周防国。
内藤氏は大内氏に仕えていたようなのだ。
鎌倉で知り合ったのだろうか?
この大内氏は本当に平賀氏からの裔では「ない」のだろうか?
では、なぜ内藤氏は大内氏の配下に入ったのだろうか?
などなど調べているうちに【周防久利家文書】を見つけた。
久利も石見国ばかりではなく、周防にも居たのだ。
大内・内藤・久利 一見バラバラに見えるが、周防では密に繋がっているようである。
大内義隆のwikipediaに「第15代当主・大内義興の嫡男。母は正室の内藤弘矩の娘」とある。
では「内藤弘矩」とは?(wikipedia)
内藤 弘矩(ないとう ひろのり)は、日本の室町時代後期の武将で、周防長門の守護大名大内氏の家老として、代々長門守護代を務める内藤氏の当主。
内藤と久利では東大DBには出てこないのだが、大内義興と久利は出てくる。
久利清兵衛尉 宛 大内義興 永正八年 船岡山合戦の感状 とある。
久利の敵方に九里がいたことになる「船岡山合戦」
細川高国・大内義興の方に久利がいて、
細川政元・澄之(聡明丸)の方に九里がいた。
ヤレヤレ…の展開。