九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

ジローラモ・デ・アンジェリス 6. 古地図ページ紹介!

2021-02-06 | コラム

Ho posto che in Iezo , ciascuno e Signore della sua sulla casa o al piu di alcuni pochi seruitori,senza che alcuno riconosca altro padrone, ne sappia che in altro Regno sia tal Signore,
蝦夷地では、それぞれが家の主が彼自身であるか、せいぜい数人いる使用人の主人かです、 誰も別の主人を認識せずに、誰も
別の国の主人がいることも知らせずに。

appresso di me e evidente,che il Regno di Iezo sia separato da tutti gl'altro Regni,e non ha commercio con alounodi essi.
私にとって明らかなのは、蝦夷の国は他のすべての王国から分離されており、それらのいずれとも取引がないことです。


Una obiettone mi occorre intorno alle uscite di mare,o correnti su dette. 
私にとって必要な事の一つが 海の出口の周辺 または 言っていた流れにあります。

Puo essere che quel mare,quel dicono trovarsi in Tessoi,
彼らが言うには、その海はテッソイにあるのかもしれません。

e nella terra d'incontro, sia solamente un gran braccio di mare,
出会う大地は、海の大きな入り江に過ぎないのかもしれません。

che'entri detro terra per molte leghe come si vede in altri luighi,
(che entri dentro terra per molte lungo come si vede in altri luoghi,)
他の場所で見られるように、それはとても長い大地に入り、

al capo di esso entri poi qualche fiume principale della Tartaria,
その先頭にタルタリアの主要な川が流れ込み

il quale con la sua gran piena sia cagione di correnti tanto furiole.
このたっぷりの ,猛烈な流れの原因になります。

Dico quello perche in l'ero pur si veggono fiumi grandi come un mare, e tanto profoudi ,
私が言ったのは、海のようにそしてとても深い川を彼らも見て、

e vasti,che in essi entorano talhora delle balene, e li Iezi ne hannno alle volte prefre alcune,e portatele a vendere in Matzumai;
そして大きな、時々クジラがそこに入るので、蝦夷も時々いくつかを取り、松前で売るためにそれらを持ってきました。

onde puo essere che Iezo dalla parte di Tramontana habbia qualche fiume grande,che lo divida dalla Tartaria,
トラモンタン側の蝦夷地には、タルタリアと分断する大きな川があるのか​​もしれません。

quantunque non habbia mare, come dicono accadere ad Inghilterra,e Scotia, che restano divise solamente da un fiume
海は有りませんが、それがイングランド、そしてスコシアのように、川だけで分断されているだけだと彼らは言うのです。

Ma sia come si sia la cagione delle dette correnti non puo effer altra,
そのままでいいとするなら、この流れの原因は他には考えられません。

se non che Iezo dalla banda di Tramontana habbia il mare, o qualche fiume grande,
トラモンタンバンドの蝦夷地には海か大きな川があることを除けば、

che communichi col mare d'Oriente, anche Occidente,e sia origine delle dette occuenti
(che comunica col mare d'Oriente, anche Occidente,e sua origine delle dette occuenti)
東の海、西の海、元からの居住者は、コミュニケーション(雇用関係?)をとっているのです。

Per tanto io adesso in chino piu a dire, che Iezo sia Isola,e non terre continuata con altro Paese.
このため、私は今、蝦夷地は島であり、他の国に続く土地ではないと言いたくなりました。

Favorisce questa opinione il parere commune di tutta Europa,
ヨーロッパ全体共通して、この意見を好む(支持する)ことでしょう。

perche tutti chiamano Izola il Regno di Iezo,
なぜなら、誰もがこの島を蝦夷国と呼んでいて

e li Mappamondi antichi, che io viddi in Sicilia, dipingono Iezo attorniato dal mare per ogni parte.
そして、私がシチリア島で見た古代の地球儀(世界地図)は、四方を海に囲まれた蝦夷を描いています。


===*===

https://lib.ouj.ac.jp/gallery/virtual/kochizu/index_1600.html


https://lib.ouj.ac.jp/gallery/virtual/kochizu/index.html

1600年代のたくさんの地図に出会える頁!!


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1622・1623年頃 蝦夷地 

2021-02-05 | コラム


同じ個所の翻訳が! これは、わかりやすいデス。
明日の翻訳するか所も、ありますが、そのままコピーさせていただきました。

http://m-ac.jp/ainu/person/girolamo_de_angelis/index_j.phtml

蝦夷には将軍のようなその国全体を治め、かつ万民が服従する総統治者もいないし,また日本の国にあるような,その国を分轄して所有している特種な大名といったものもない。
もし蝦夷が韃靼に合併されていたり,あるいはこれに隣接していたとすれば,このような総統治者というものについて,たとえ隷属しないとしても,少なくとも幾分かは知るところがあったであろう。

ところが蝦夷では各人が単に自己の家の主人であるか,せいぜい小人数の使用人の主人でしかなく,しかも誰もが他に支配者のいることなどは認めもしないし,また他の国にそうした統治者がいることも知らないのである。
それでこれらのことを考えると、蝦夷という国はあらゆる他国から分離されており,これらとは何等の関係をもっていないことが自分には明らかになった。

北大にある地図。

https://www2.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/contents/map/l/0D000140000000000.jpg


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ジローラモ・デ・アンジェリス 5.

2021-02-05 | コラム

da tutto questo argomento,
che Iezo, eziandio dalle bande di Tramontana ,
e terminato dal mare、che lo divide dalla Tartaria;
このすべてのトピックから、
その蝦夷地は、トラモンタナのサイドからでも、
そして、タルタリアからでも、それを分断する海によって終わりました。

タルタリア=タタールで、分断する海は間宮海峡である、と思う。

原文ではetiandioなのだが、eziandioのことだろうと思う。「または」「でも」 という意味。

;perche d'altra maniera non farebbe posibile,che vi fossero correnti tanto impetuose
;そうでなければ、そのような激しい流れが存在することは不可能だからです。

:avvenga che se il mare,che sta tra la terra di Telsoi,
テルソイの地の間にある海が

e quella, che le sia a fronte, solamente, un Iriumi ,cioe un braccio di mare,
それに直面しているのは、入り海、つまり海の腕だけです

non dovrebbe havete contenti tanto furiose;
あなたはそのような猛烈な満足を持つべきではありません。

resta che Iezo l’abbia pure il mare dalla parte di Tramontana ,che va scorrendo,
蝦夷地もトラモンタナ側に海が流れており、

dall'Oriente all'Occidente, o all'incontro dall'Occidente all'Oriente,
e col suo empirsi, e scemarsi cagioni le dette correnti.
東から西へ、または西から東へ出会い、
そして、その満ち引きにより、前述の流れが発生します。

La seconda ragione e,perche Iezo non ha Tencadono,cuie Signore univerfale, il quale lo governi tutto,e a chi tutti obbediscono,
ne meno Signori,
第二の理由は、蝦夷地には普遍的な主ですべてを統治する人,そして誰もが従う人であるテンカドノ(将軍の事)がいないからです。それほど主でもないのですが。(この訳も迷う。né meno Signori)

particolari grandi, che abbiano diviso fra loro il Regno,come aqua il Giappone prima che fusse soggetto ad un Tencadono:

素晴らしい詳細としては、テンカドノの対象となる前の 水のように?彼らの間で分けた王国。
(come haucug と読めるがそのような言葉が見つからず、ha aqua かもしれないと思うがわからない)

e se fosse unito con la Tartaria ,o parte contigna con essa ,si saprebbe e al manco qualche cosa dital Signore universale,
そしてそれがもしタルタリア、また、隣接した部分が統一されていた場合、普遍的な主がいないことはわかるでしょう。
quantunque non si stesse cose soggetto a lui, e nella Tartaria e cosa evidente、
たとえ彼の支配下にはなかったとしても、このことはタルタリアではそれは明らかなはずです。(知っているはずです)

che vi ha un Signore universale, il quale si chiama il Gran Cane,a cui tutti sono soggetti.
偉大な犬と呼ばれる普遍的な主がいて、誰もが従っていることを。

===*===

皆様に、意味が通じるだろうか。
戦国時代・安土桃山時代にやってきたキリシタン宣教師の手紙である。

どうも、人の国の様子をうかがっているスパイのようにも思えて、このデ・アンジェリスは本当に苦しい人々、困っている人々を助けに来たのであろうか?と、私は今疑っている。

この手紙がヨーロッパに届いてしまったことで、この後、蝦夷地はヨーロッパ(特にロシア)に狙われるきっかけになってしまったのではないだろうか?

神の御前に正しくあるべき宣教師殿。
きっと、困った人々にも希望の光を与えてくれていたのだと信じよう。

それでなくては、殉教者たちが哀れだ。
宣教師たちに教えてもらった教えを胸に亡くなっていったのだから。


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肥前国の波佐見出身と言われている 【原マルティノ】

2021-02-05 | コラム

ヴァリニャーノが日本(口ノ津港)にたどり着いたのは1579年(天正7年)7月25日のことであった。
この最初の滞在は1582年(天正10年)まで続く。

彼は日本各地を訪れ、大友宗麟・高山右近・織田信長らと謁見している。
1581年、織田信長に謁見。
従者として連れていた黒人を信長が召抱えたいと所望したため、『弥助』と名づけられて信長の直臣になっている。

ヴァリニャーノは日本での司祭育成のために教育機関を創設し、

1580年(天正8年)の肥前有馬(現:長崎県南島原市)小神学校(セミナリヨ)を始めに、豊後臼杵に設置されたイエズス会入会の第1段階である修練期のための施設、修練院(ノビシャド)・豊後府内(現:大分県大分市)大神学校(コレジオ)さらに、信長に謁見した後と思われるが、近江安土(現・滋賀県近江八幡市安土町)小神学校(セミナリヨ)を始めている。

また、ヴァリニャーノが天正遣欧少年使節の企画を発案し、
日本人の司祭育成の「セミナリヨ」で学んでいたマルティノを含む4人の少年たちに『天正遣欧少年使節』としてローマへ行くことを提案し、実行。


【原マルティノ】

肥前国(現在の長崎県東彼杵郡波佐見町)出身といわれ、戦国時代の大村純忠(キリシタン大名)家臣 原中務大輔純一の息、家政の兄弟ではないかと言われている、原マルティノ。両親共にキリスト教徒であり、司祭を志して、セミナリヨに入った。


…という事は、もしかすると鎌倉後期に九州に渡った「千葉宗胤」に追随していった「原氏」の裔かもしれない。

とすると『ヨハネ原主水胤信』と同じ系である可能性もある。父親の「純」の字は主君から賜わった「純」であろうと思う。
前期原の系図を見ると時折「家」の字がついている。マルティノの兄弟であった可能性のある「家政」にも通じる。

===*===

肥前原氏(memo)(記事とは直接関係なし)
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/1223905100/1223905100100010/ht010640
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/1223905100/1223905100100010/ht010670
http://chibasi.net/hara2.htm

===*===

マルティノは当時の司祭の必須教養であったラテン語にすぐれ、語学の才能があった。彼は宣教活動のかたわら、洋書の翻訳と出版活動にも携わり、信心書『イミタチオ・クリスティ』(Imitatio Christi, 『キリストにならう』)の日本語訳「こんてんつすむんぢ」などを出版している。(wikipedia)

語学の才に長けていた『原マルティノ』
マカオでその生涯を閉じるのだが‥‥(1629年)

ヨハネ原主水胤信とほぼ同時代に生きた人物であることがわかる。

家族の少なかったと思われる「ヨハネ原胤信」がもしも宣教師からこのような人物(原マルティノ)がいると聞き及んだ時に、会ってみたいと思ったのではないだろうか。

この二人の原、気になっている。

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ジローラモ・デ・アンジェリス 4.

2021-02-04 | コラム

続きです。
おかしな表現もあるかもしれませんし、原文の文字が潰れており、読みずらいため間違いも多発しているかもしれません。
特に、旧い活字の、sとtとf vとu  判別しにくいデス。
一文も長いため、意味がなかなかつかめていません。ご了承を…

===*===

La ragione,che mi muoveva era quella,che mi dicevano li Iezosi, cioe che da Matsumai,dove ,stanno li Giapponesi, andando per terra verso L'Oriente, che qui chiamano Figaxi, si fanno novanta giornate di viaggio prima di giungere al mare di Oriente ; e che dal medesimo luogo di Matsumai facendo viaggio verso I'Occidente,che qui si chiama Nixi, vi si mettono sessanta giorni di camino avanti di arrivare e al mare dell'Occidente.
確かな理由で私を感動させたのは、彼らが私に「蝦夷」(えみし)と言った者でした。つまり、日本人がいる松前から、東の海に到着するのに陸路で90日間 東に移動し、(ここでは「ひがし」と呼ばれています。); そして、松前の同じ場所から、西に向かって移動して(ここでは「にし」と呼ばれます)、西の海に到達するまでに60日歩く必要があります。

google翻訳では
「そして、松前が西に向かって移動するのと同じ場所(ここではニクシと呼ばれます)から、西の海に到達するまでに60日歩く必要があります。」

===*===

どちらにせよ、上記の説明は、今の地図を知っていると?ハテナなのだが…






デ・アンジェリスの描いた地図


===*===

Da questo raccoglievo, che Iezo non fusse isola: ma l'ultima parte della Tartaria: perche sin hora in tutto il parte scoperto non si e trovata mai Isola si grande, che per scorrerla da Oriente verso Occidente si debbiano porre cinque mesi nel viaggio.
このため、私は蝦夷が島ではないことを知りました:しかしタタール(韃靼)の最後の部分:これまで発見された部分全体で、これほど大きな島(岬?)(東から西に向かうのに5ヶ月かかります)はなかったので。

===*===

島というには大きい!という事を言いたかったのかもしれない?
韃靼とつながっているとも?

しかし、彼の描いた地図では分かれていて、大きな島になっているので、第一回目は島ではない、と思い、第二回目の報告書では大きな島である‥‥となったのかもしれない。

===*===

onde s'e vero cio ,che dicono li Iezeli della loro terra,giudicano molto probabilmente,che Iezo non dusse Isola; ma una punta,come ho detto della Tartaria.
したがって、彼らの土地である蝦夷(えみし)が言っていることが真実であるならば、彼らはおそらく蝦夷(えぞ)が島ではなかったと判断します。 私が韃靼の岬の一つであると云っていたように。


Dall' altra parte trovo adesso ,che pure ha la sua probabilita l'opinion e consiaria ,che Iezo veramente sia Isola.
一方、私は今、意見にはその可能性がありますが、蝦夷(えぞ)は本当に島であることがわかりました。


Le ragioni ,che mi muovono ,funo le feguenti .
私を感動させる理由は、次のようになります。


La prima ,che Iezo dalla parte di Oriente e terminato dal mare, come pure dalla banda di Minami ,che noi diciamo Mezzo giorno.
一つ目は、蝦夷地(えぞ)の東側は海で終わり、及び 南側の部分には(海へは)半日と彼らは言っているのです。


Parimente verso l'Occidente nella terra di Telsoi,ch'e l'ultima punta di Iezo,vi sono uscite di mare impetuoso lissime,
同様に、蝦夷(えぞ)の最後の地点であるテルソイの土地の西に向かって、急な海への出口 とても滑らかな出口があります、


a fronte di essa si vede un'altra terra tanto vicina,che si scorgono pero di farlo per cagione delle dette uscite, e perche in mezzo di esse li veggono molte canne assai glosse,e forti,
その前には別の土地がとても近くにあり、その出口のおかげでそうしているのを見ることができます。そしてそれらの真ん中には非常に光沢のある強い葦がたくさんあります。


come si veggono nel Giappone ,le quali con la forza e empito della corrente si piegano , e si mettono sotto l'acqua,
日本で見られるように、流れの力と突進で曲がり、水面下にあります。


e poi ad un tratto si trovano acirizzare con pericolo grande
そして突然彼らは大きな危険にさらされていることに気づきます。


di dare la volta alle barche de Iezesi ,che sono molto piccole per ordinario.
普段の非常に小さい蝦夷のボートに機会を与えることにです。

===*===

むずかしい。。。

これから行こうと思っても其れは危険という事を見つけた…ということか?

この翻訳いまだ一頁にも満たないのだが、これが13頁にも及ぶ。できるのだろうか、私…

面白いこともあった。
google翻訳で、入力していると「コルシカ語」と出てくる時がある。
つまり、デ・アンジェリスはシチリア島の出身なので、この文書には地中海の方言が入っているのかもしれない。
コルシカ島の言葉、と思うと、なんだか楽しい!!
ナポレオンも話していたはず!

===*===

da tutto questo argomento,
このすべてのトピックから、

che Iezo, eziandio dalle bande di Tramontana ,e terminato dal mare、
che lo divide dalla Tartaria;
その蝦夷地は、トラモンタナのサイドからでも、
そして、タルタリア(韃靼)からでも、それを分割する海によって終っています。





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ジローラモ・デ・アンジェリス 3. 蝦夷地 上ノ国 【円空】の像たち

2021-02-04 | コラム

足早に足跡を追ってきたが、ココからはゆっくりとなる。

なんせ、イタリア語(ポルトガル語なのだろうか?)のよくわからない文を読みつつ…なのだ。
一度は先生と一緒に訳したので、何とか わかりそうではあるが、其の時のノートが行方不明になってしまっている。
イタリア語の先生はこれはイタリア語の古語だ…とおっしゃっていたが、怪しいかもしれない。笑

今回はgoogle翻訳とともに訳していこうと思う。



saranno da cinque,o sei anni
5年か6年になります

che io da ma dai la relatione del Regno di Iezo,al Girolamo Rodrigez,
私が宣教師のジローラモ・ロドリゲスにイエーゾの報告を出すことも

chi era nostro Viceprouinciale nel Giappone.
彼は日本における副長官でした。

un altra cred, che glien mando il Padre Diego Caruaglio
他には、ディエゴ・カルアリオ神父が彼に送った別の親書

fu a Iezo nel 1620
1620年に蝦夷地にいた 時の

con tutto cio perche il Padre Francesco Paceco nostro Rettore mi serisse,che li supreriori desiderauano grandemente di hauerne una piu essatta informatione fuiin quel Regno nel 1621

フランチェスコ・パチェーコ神父が私たちの長官に尋ねるように、上司はもっと正確な情報を知りたいと強く望んでいました。
私は1621年にその国(蝦夷地)にいましたので。

per sentire le confessioni deChristiani che vi facessimo ne gli anni passari,e con quella occasione mi informai deligentemente da alcuni Giapponesi

過去数年間に私たちが行ったクリスチャンの告白を聞くために、そしてその機会に私は何人かの日本人から慎重に情報を得ました。

li quasi sono di stanza in Matsumai,e da certi naturali di Iezo stesso,
彼らはほぼ松前におり、蝦夷地自体のように自然そのもので(?)

li quali parlano in lingua Giapponese
彼らは日本語で話しています。

e per quanto causi da essi, mi pare di poter dire le cose feguenti.
そして、それが彼らによると、私は次のことを言うことができるように思えます。

era ccio che il tutto si intenda meglio,mando con questa un piccolo mappa del detto Regno di Iezo,del Giappone, e di Corai,con qualche ancora della Tartaria,e della nuova Spagna ma come che io non sono Dissgnatore,ne Pittore, ne ho qui Mappamundi,da'quali io possa ricauare cio, che si ha a porte in carta, ben veggo che tutti si rideranno del mappa, che mando pure perche senza esso con difficolta si potrebbe intendere,se Iezo sia isora,o no ho giudicato di mandarlo per ogni modo tale,quale ho potuto farlo da me.

すべてがよりよく理解されていることは明らかでした。私はこれ(周囲から聞いたこと)を使って、蝦夷、日本、高麗、韃靼、そして新しいスペインの小さな地図を送りますが、私は荷送人でも画家でもありませんし、世界地図も持っていません。そこならあなたは紙の地図を手に入れることができます、私はそれなしでは蝦夷地が島であるかどうかを理解するのが難しいかもしれないので、私が送る地図をみんなが笑うでしょう、または私が自分でできるような方法でそれを送るように言ったかどうか。


Primieramente nell'altra Relatione,che mandai ero di parere,che Iezo non fusse Izola; ma una estremita,o,punta della Tarraria,a dirimpetto di cui stesse un' altra punta delle nuove Spagna,che chiamano Chiuira,

私が送った他の報告書では、最初、蝦夷地は島ではないとの意見でした。 しかし、その終端の部分には、韃靼の先端、その反対側には新しいスペインの別の先端 (Chiuiraとよばれている)が立っていました 。 


e per cio supponevo, come turtisuppongono,e si pinge ne Mappamondi, che lo stretto di Anian fusse fra queste due punte di Tarraria,e di Chiuira.

そしてこのために、私は多くの人が推測しているように、そして世界地図では、アニアン海峡が韃靼(タルタリア)とキウイラのこれらの2つの地点の間にあると仮定しました。

(続)

===*===

新しいスペイン? アジアのどこか(北海道の近く)をそのように呼んでいたことになる。
何処か、占領されていたのだろうか?
北海道の北の樺太島?

中国?(Chaina)にスペルが似ている。Chiuira…

徳川家康が憂慮していたように、スペインは我が国をも占領しに来ていたのだろうか?
この【新しいスペイン】は、とても気になり、後で調べる必要があると思う。

===*===

下記のアドレスは福島町(北海道)のHPより関係する部分を抜粋させていただいた。 

「このアンジェリス神父の第一回蝦夷地訪問は、秋田から乗船出帆したが、風向が悪く蝦夷地には向かえず、深浦(青森県西津軽郡)に着き、ここで松前行の順風を風待ちした。八〇人もの乗客は浜に小屋を建て、二十二日も風待ちした上、ようやく出帆し、六月松前に向かったが、海上が荒れ、船は目的地には着かず、ツガという港に着いた。このツガという地名は、アンジェリス神父の蝦夷国地図の説明から上ノ国付近と推定される。」

「これによれば、同年八月藩は家老蠣崎主殿、下国宮内等を検司(死)役人としてキリシタン宗徒の弾劾をはじめ、先ず、大沢金山の宗徒五十人の男女を刎(ふん)首処刑したというが、刎首とは即ち首を剥(は)ぐことで斬首したものである。さらに大沢金山から逃れたと思われる六人を西部石崎(上ノ国町字石崎)で捕え処刑をした。その後藩の処刑役人達は蝦夷キリシタンの本拠ともいうべき千軒の金山を襲い、ここでキリシタン宗徒を探し出し、ここでも五十人の宗徒を刎首処刑し、この年の弾劾で、一〇六人もの大量 のキリシタン宗徒を処刑したものである。 」


「 この処刑を考察すると、元和三年(一六一七)開削された大沢金山で働く金掘のうちのキリシタン宗徒の男女五十人を刎首処刑しているが、この処刑地は大沢としているので、宗徒弾劾を効果 的に領民に見せ付けるために、大沢村か、村に近い処で処刑したのではないかと考えられる。また、その餘党六人も西部石崎(上ノ国村)で逮捕して処刑したといわれるが、この人達も石崎川流域砂金採取に当っていた金掘であったのではないかと思われる。

 この二ヵ所の処刑を終えた松前藩は、キリシタン達の最後の砦ともいうべき金山を急襲した。この金山というのはD・アンジェリス、カルワ-リュ神父の報告書にも明確なように、大千軒岳直下の知内川上流の金山番所付近に展開する千軒金山のことである。ここでは五十人の男女のキリシタン宗徒を捕え、刎首処刑をした。この処刑地については前記の報告書にあるとおり、金山番所のあるこの地域の中心集落のあった地域が、その場所であると考えられる。これらを推考すると千軒金山を急襲した松前藩兵は、ここの金掘り中のキリシタン宗徒を捕え、このなかの男女五十人をその中心地に集め、数個の大きな穴を掘り、その縁に莚(むしろ)を敷き、そこで打首で処刑し、遺骸はその穴に埋め塚状にしたと思われるが、現在までにその跡地と目され付近の調査が行われてきたが、その跡地を特定することはできない。」


毎年この大千軒岳では神父様が赴いて慰霊祭が行われている。
ここが「上ノ国」であった。

そして、同じHPの中に「円空」が書かれているのである。
その始まり
「近世の我が国を代表する仏教彫刻家に円空がある。この円空の作像は近世の蝦夷地の神道および仏教の展開に大きな役割を果 たした。

 円空は寛永九年(一六三二)美濃国(現在の岐阜県羽島市上中島)に生れた。若年のころ洪水で母を失い、その供養のため十八歳で仏門に入り天台宗の僧となり、伊吹山山内の平等岩で修業をし、同宗寺門派に属した。円空は宗祖行基菩薩の行願を慕い、修験道の優婆塞聖(うはそくひじり)として諸国を巡って作像行脚(あんぎゃ)することを志した。

 円空の作像は寛文三年(一六六三)ころからといわれ、翌四年には白山神社に参籠(さんろう)作像し、同五年には蝦夷地に向って発足したと思われ、秋田県内にはその際の作製と思われる作像が残されている。その後津軽地方を経て寛文六年蝦夷地に渡航したと考えられていたが、最近になってそれを裏付けする史料が発見された。この史料は市立弘前図書館所蔵の『津軽藩庁日記 寛文六年正月』の項に次のように記されている。」

「此の年円空は三十五歳である。その前年秋田から北上して津軽西沿岸部に作品を残して弘前入りをしたが、勿論入国鑑札を持たず、破れ衣に彫刻道具のみを持った行脚僧(あんぎゃ)の姿は津軽藩の役人にとっては胡乱(うろん)(怪(あや)しい者)な者としか見られなかったのであろう。七町という町に滞在していた円空に対し、正月二十六日退去するよう命じたところ、これから青森に向い、そこからさらに松前に渡海することを申し出ている。

 したがって松前に渡海したのは、寛文六年四月か五月である。松前に入国する場合各藩発行の出切手と、松前での身元引受人が必要であったが、このような遊行僧であるのにどうして入国が出来たか不明である。しかし、広尾郡広尾町禅林寺に一体の観世音菩薩像が残されており、その背面 には墨書で、「願主松前蠣崎内蔵(くろうど) 武田氏源広林(ひろしげ)敬白 寛文六丙午夏六月吉日」と記されている。松前内蔵広林は松前藩主の同族で、幼年の藩主の続くなかで事実上藩政を切り廻していた筆頭家老である。この広林が自分の知行地である広尾禅林寺に納める像を、円空に彫らせているところを見ると、恐らく何らかの形で広林が円空とかかわり合をもっていたと思われる。この像は六月に完成しているので、二、三か月間は松前に滞在していたと考えられ、その間に、松前馬形神社の六尺余(一・八二メ-トル余)の観音像を刻んだと思われるが、この像は明治六年の福山枝ケ崎町出火の大火で焼失している。

 六月から七月初旬にかけて蝦夷地内の作仏行脚(あんぎゃ)のため、松前を出発した円空は、礼髭村観音堂、吉岡村観音堂の来迎(らいごう)観世音菩薩像等を刻んだ後、木古内、札刈、泉沢、茂辺地、富川、戸切地、大中山、汐首、砂原、山越内、礼文華岩屋等で彫像して、最終目的地である有珠善光寺に至った。ここでは善光寺奥の院である洞爺湖観音島(虻田町)に参籠して観音像を製作したが、その像の背後には陰刻で、「うすおくのいん小島 江州伊吹山平等岩像内 寛文六年丙午七月廿八日 始登山 円空 花押」と記されている。従って七月末には、この奥の院で、菅江真澄の『蝦夷之手布利(えぞのてぶり)』に記されている「のほりへつゆのこんけん」、「しりへつのたけこんげん」、「うちうらたけこんげん」の三体の像を刻んで善光寺に納めてもらうように頼んで南下し、その途中寿都海神社の像を八月十一日に完成させ、八月末には松前に帰着したものと考えられる。九月には桧山地方の西海岸を北上し上ノ国石崎村上ノ国、江差、乙部、熊石村を経て太田岬岩上の岩屋に参籠して、多くの作品を残した。」

「蝦夷地で寛文六年から七年にかけて作像奉斉された像以外に、明治以降本州から持ち込まれた円空像は六体あり計四十三体以上の円空仏が存在する。」


何故、上ノ国も訪れたのか。 
それはこの何十人ものキリシタンが虐殺されたことに因るものと思うのだ。



デ・アンジェリスと上ノ国
http://www.town.fukushima.hokkaido.jp/%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E7%94%BA%E5%8F%B2%E3%80%80%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%B7%BB%E3%80%80%E9%80%9A%E8%AA%AC%E7%B7%A8%E4%B8%8A%E5%B7%BB/%E7%9B%AE%E6%AC%A1/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%B7%A8%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E7%AB%A0%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AF%80/


円空
http://www.town.fukushima.hokkaido.jp/%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E7%94%BA%E5%8F%B2%E3%80%80%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%B7%BB%E3%80%80%E9%80%9A%E8%AA%AC%E7%B7%A8%E4%B8%8A%E5%B7%BB/%E7%9B%AE%E6%AC%A1/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%B7%A8%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E7%AB%A0%E7%AC%AC%E5%85%AD%E7%AF%80/


『円空とキリシタン』と検索して、ひとつ同じ視点から書かれた紀要があったので、ココにご紹介しておきたい。

【円空造仏の動機について】 著者:青山 玄  雑誌名日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要


円空が訪れた場所はキリシタン迫害のあった場所とは限らないと思う。思うのだが、この上ノ国に関しては、昔そのようなことがあった…と聞き及んで、その慰霊のために彫ってくれたように思えてならない。

毎年テレビで、この大千軒岳の祈りの様子が映される。
いつも気になっていた。なぜ、ココなのか。

しらべてみて、金堀となっていた人々の中にかなりの確率でキリシタン(迫害を逃れてきた人々)がいて、そこにジローラモ・デ・アンジェリとディエゴ・カルヴァリョがいて、祈りを共に捧げていた、という事。

そして、そこにもまた迫害の手が伸び、とうとう捕まって処罰されてしまったこと、その哀しい現場であった事が、私にもよく理解できた。

その関りがあった人々、その子孫の悲しみを少しでも慰めよう…と思ったに違いない。

1666年(寛文六年)円空がその周辺で彫った三十七体がその証であったと思う。




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ジローラモ・デ・アンジェリス 2.

2021-02-03 | コラム

この1614年以前にヨハネ原主水とジローラモ・デ・アンジェリスは出会っている可能性がある事がわかった。

「家康の殿中にも一群の熱心なキリシタンがいて、その中心人物が家康の旗本 原主水(ジョアン)であった。
彼らは駿府にも神父常駐の布教所を置くことを求め、伏見にいたイエズス会神父ジェロニモ・デ・アンジェリスが命を受けて、
駿府に布教所を開設したばかりであった。

家康は自身の周辺のキリシタンを追放することからはじめ、駿府居住の家臣団を10人1組に分けてキリシタンか否かを検問し、
3月11日頃15名ほどを検挙した。」

http://www7b.biglobe.ne.jp/~aki141/nanbannjin.pdf

1612年3月21日、天領の駿府、江戸、京都に禁教令を布告して、キリシタン教会の破壊を命じ、以後教えを説くことを禁止した。

ヨハネ原主水もこの時は逃げたのだが、デ・アンジェリスも逃れることができたようだ。

1614年1月27日、駿府にいたデ・アンジェリスは、長崎に逃れた。
目立たぬように宣教師の服を捨て、日本人と同様の服をまとって生活していたという。

1615年、上司の命令で青森の津軽に移動し布教活動を行なった。(1621年までは北日本にいたそうである。)

では、津軽ではどのような活動を行っていたのだろう。

「大追放の際に京都や大坂にいた日本人キリシタンたちは、津軽地方に流罪に処せられることになった。
京都から47人、大坂から24人、計71人の、多くは身分ある武士や町人とその家族が集められ、慶長19年(1614年)3月に京都を発ち、琵琶湖を船で渡って敦賀で乗船し、1カ月の船旅の後に津軽に到着した。

時の津軽藩主信牧(2代藩主)は、少年のころ父為信(初代)とともに京都に滞在していた時入信しヨハネの教名を受けていた。家康の時代に入って信仰を捨ててはいたが、キリスト教に対する理解があり、流刑者らに土地を与えて開墾に従事させた。彼らは流刑地での苦しい生活に耐えながら信仰を守ったが、宣教師との接触を断たれ、聖体拝受の機会を失ったことがそれ以上に苦しかった。
パードレの来訪を待ちわびていた彼らキリシタンの要望に応えて密かに東北地方に下ったのが、イエズス会の宣教師ジローラモ・デ・アンジェリスやディエゴ・カルヴァリョらで、とくにこの二人は東北から蝦夷地(北海道)にまで渡ったことで知られている。」
彼らは待ちわびていた宣教師から話を聞き、共に祈るという生活に充実を感じることができたのではないだろうか。

http://www7b.biglobe.ne.jp/~aki141/nanbannjin.pdf

そして、津軽からとうとう 1618年、蝦夷に到着した。
初めて蝦夷に渡った欧米人となった。

ヨーロッパでは、当時、蝦夷は(本州と?)樺太島・大陸につながっている土地と考えられていた。
しかし、デ・アンジェリスは蝦夷が海を隔てて存在するということを、北海道の地図を作成し欧米にその存在を知らせた。
二回に及ぶ蝦夷報告書は北海道に関する地理を描いた最も古い文献の一つであった。

以下のアドレスの資料には、その当時の地図がたくさん載っている。
北海道が変わった形になっていて、その時の認識の様子がわかって面白い。
https://core.ac.uk/download/pdf/223208332.pdf


1623年、江戸でデ・アンジェリスから布教を受けた人物が、その存在を密告された。
デ・アンジェリスは、その人物を解放してもらおうと、代わりに名乗り出た。

1623年12月4日、行動を共にしていたシモーネ・イエンポと共に火刑に処された。
その中にヨハネ原主水もいて、同じく刑に処されたという事である。

次回は、蝦夷地での活動を調べつつ進めてみたい。




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ヨハネ原主水胤信 1.

2021-02-03 | コラム

不思議な偶然なのだが、原主水の「主水」は主の水(聖水)であり、「主水」の音である「モンド」はイタリア語で「mondo 」=世界 となる。

つまり【ヨハネの世界】である。ここでの深読みは禁物であろう。

===*===

原胤信は下総国(現在の千葉県)臼井城主の子に生まれた。
この胤信の父は胤義のことと思う。(胤栄と同一人物ではないか…という。)
この胤栄の父は胤貞で、母が高城上総守胤辰の娘。
この高城氏の家臣に「粟飯原氏」がいる。
また、高城氏は遡ると二階堂氏でもあり、工藤氏でもある

このことを考えるにやはりこの「原氏」は「良峯姓 原氏」と関係があるかもしれない。
そして胤信の叔父である勝胤は、土岐 原長頼と同一人物かもしれない。 同じ隠岐守で、長頼はたくさんの名前を持っていたのだが、その中の一つに「勝胤」が入っているのだ。本巣郡花木城(中野城)の城主である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E9%95%B7%E9%A0%BC

===*===

父は北条氏に従って小田原の合戦に参戦。秀吉に敗れ、父は江戸にて切腹。
幼少の胤信は、三歳であったという。
其の後解放され、徳川家康の小姓に召され、主君に伴い伏見に移った。

千葉氏のHPさんの「原氏」に詳しい。https://chibasi.net/hara15.htm#tanenobu

原 胤信(1587-1623)
幼名は吉丸であったが【吉丸は若くして信濃国高遠に四百石の知行を受け、鉄砲組頭に就任した。しかし慶長5(1600)年、キリスト教に密かに入信し、洗礼を受けてヨハネと改称している。】13歳の時である。

また、web情報では
https://tokyo.catholic.jp/wp-content/themes/catholic-tokyo/doc/diocese/edo_j_guide.pdf

【1603年、「背高く、勇猛な武士」は 2 0歳で走衆(将軍警護役)の頭になり、3 0人を預かって 15 0 0石を賜たまわるに至った。やがて、家康に従い駿府城に移った。】とある。

着々と昇進していた胤信なのだが、伏見にいた時代なのだろうか大坂でイエズス会のモレホン宣教師に出会いキリスト教に入信する。
ペドロ・モレホン
https://www.kufs.ac.jp/toshokan/gallery/senk37.htm

1612年 切支丹への締め付けが厳しくなってきた折、行方知れずとなる。
千葉氏さんHPより
「旗本のキリシタン詮議が行われるに及んで胤信は転教を拒否し、当時在勤していた駿府を出奔。高力右近忠房の城下町、武蔵国岩槻にいた親類の粟飯原氏を頼った。

しかし、慶長19(1614)8月、「かねて原主水と姦通」していた「駿城後閤の女房」が、原主水の追放を恨んで「大逆を企し事顕はれ」て処断され、さらにその兄の野尻彦太郎も押し込めとなった。その後、捕えられた胤信は駿府に護送されて額に十字の焼印を押された上、安倍川河畔に曳きだされて、両手足の指と両足の腱を切られて放置された。その後、助けられた胤信は、駿府郊外の耕雲寺の住職に匿われて生活を送ることとなった。」

後には、この耕雲寺の住職も罰せられ亡くなっている。

1614年、ヨハネ原主水胤信にとってはつらい年となってしまった。

では、ジローラモ・デ・アンジェリスの1614年はどうだったのであろうか。


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ジローラモ・デ・アンジェリス 1.

2021-02-03 | コラム

何年か前にこの人物を調べることとなったのは、知り合いから「外国の人は蝦夷のことを何と呼んでいたの?」という質問があったためだ。
イタリア(ポルトガル語?)古文書にその名が書き記されていたのが、ジローラモ・デ・アンジェリスの「蝦夷国報告書に就いて」【RELATIONE del Iezo】 であった。最後の「Iezo」がイェーゾ、すなわち蝦夷のことである。

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ジローラモ・デ・アンジェリスは1567年にシチリア島カストロ・ジョバンニ生まれた。日本の永禄十年である。
18歳の時、兄弟であるピエトロと共に、法学を修めるためパレルモ市に移った。
1586年、1月16日 イエズス会の神父と出会い、入信を決めた。

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イエズス会とは、16世紀の宗教改革の時代に、1534年8月15日、イグナチオ・デ・ロヨラとパリ大学の学友だった6名の同志が始めた会である。イエズス会では、日本の歴史の教科書にも必ず出てくるフランシスコ・ザビエルが有名である。
ザビエルは1541年にインドのゴアへ赴いた。
ゴアはアジアにおけるイエズス会の重要拠点地であった。
ザビエルはインドで多くの信徒を獲得し、偶然出会った日本人ヤジロー(アンジロー?)の話から日本文化に興味を覚えて1549年に来日し二年ほど滞在した。

16世紀のイエズス会士たちはその後、中国と日本への宣教の拠点としてマカオを利用した。

【天正遣欧少年使節】を計画したのも、イエズス会であり、アレッサンドロ・ヴァリニャーノであった。
この人物が、日本にキリスト教を大きく定着させたように見える。

信長が歿したのが1582年。

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デ・アンジェリスは1586年に入信してから約十年間の修行を積んで、その間に日本という国を知り、いつしか日本に渡って布教をしたいという気持ちが大きくなり、志すこととなった。

しかし、天正15年(1587年)日本では豊臣秀吉の時代となりwikipediaによると「ポルトガル人が日本人を奴隷として売買するなどといったことが九州において行われていたことが発覚し、秀吉はイエズス会準管区長でもあったガスパール・コエリョを呼び出し問い詰めた上で、博多においてバテレン追放令を発布した。しかし、この段階では事実上キリシタンは黙認されていた。」というような時代となっていた。

アンジェリスが憧れていた時代、はじめに耳に入ったようなバテレン好きの信長の時代はすでに終わりを告げていた。

アンジェリスは1596年4月10日、インドのゴアへ向かう船に乗船した。(この時に同じ船に乗っていたイタリア人宣教師のカルロ・スピノラは1622年に長崎で火刑に処された。)

途中、台風、船の修理、新たな台風に遭遇、等々あった。さらにその後イギリス海軍に拿捕され、ロンドンに連行されかかった
が、ピエトロとジローラモはイタリア人ということもあり、解放された。…という数々の受難に合いながらも、その志は堅かった。

この頃、日本ではサン・フェリペ号と下記にwikipediaから引いてきた【二十六聖人の処刑】という事件が起こっていた。

「翌慶長2年(1597年)、秀吉は朝鮮半島への再出兵と同時期に、イエズス会の後に来日したフランシスコ会(アルカンタラ派)の活発な宣教活動が禁教令に対して挑発的であると考え、京都奉行の石田三成に命じて、京都と大坂に住むフランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛し処刑を命じた。三成はパウロ三木を含むイエズス会関係者を除外しようとしたが、果たせなかった。2月5日、日本人20名、スペイン人4名、メキシコ人、ポルトガル人各1名の26人が処刑された。」

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アンジェリスに話を戻そう。
1598年、ポルトガルのリスボンに到着し、リスボンで神父となった。

1599年3月、アジアに向かって出航。この船旅にも数々の困難が襲いかかった。

1600年、マカオに到着。
マカオにて一年足らずだが、日本語の勉強をした。

1602年、長崎に到着。
上司より京都の伏見に行くことを命じられる。
伏見で8年間布教活動をし、次に、静岡の駿府行きを命じられた。

======

家康の時代となった始りは「鈴木かほるの研究によれば、秀吉の没後、家康が五大老の筆頭として表舞台に立ったとき、どの国よりもいち早く対外交渉をもったのは、当時、世界最強国と称されたスペインであったという。その目的はスペイン領メキシコで行われている画期的な金銀製錬法であるアマルガム法の導入であり、スペイン人を招致するため浦賀湊を国際貿易港として開港し、西洋事情に詳しいウィリアム・アダムス(三浦按針)を外交顧問としたという。」とある様に西洋の知識を吸収するために積極的にスペインとの交渉を行っていたようである。

ところが、その蜜月は長くは続かず、一転して宗教を日本に入れないという約束のオランダと手を結ぶこととなったのだ。
1613年 伴天連追放之令 となった。

===*===

1614年1月27日、駿府にいたデ・アンジェリスは、将軍からの禁教令により、長崎に逃れた。
目立たぬように宣教師の服を捨て、日本人と同様の服をまとって生活していたという。


そして、同じ1614年、ヨハネ原主水胤信にもその迫害の手が伸びていた。

===*===

ヨハネ原主水胤信 の話に続く。





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ジローラモ・デ・アンジェリス と 上ノ国 そして ヨハネ原主水胤信 そして 円空 

2021-02-03 | コラム


ジローラモ・デ・アンジェリスはイタリア・シチリア島出身のイエズス会の宣教師であった。

1602年(慶長七年) 日本に布教をするために入国していた。この時彼は35歳であった。
長崎・京都(伏見)・静岡(駿府)・津軽・蝦夷と各地に足を延ばし布教をし、または逃亡し、という生活をしていた。

ある時、布教を受けに来ていた人物が捕まった。
そこで、アンジェリスはその人を解放してもらい、自分が身代わりになろうと、申し出た。

1623年12月4日(元和 9年10月13日)火刑に処された。

その同じ火刑を受けるであろう50人中に原主水胤信( ヨハネ原主水) もいたのである。
この人物は、何度か記事にしているが【下総国の原氏】である。原胤義の息と言われている。

https://tokyo.catholic.jp/wp-content/themes/catholic-tokyo/doc/diocese/edo_j_guide.pdf




そして、円空が生まれたのが 寛永9年(1632年) この哀しい殉教者たちを出した火刑は、彼が生まれる以前のことである。
円空がなぜ蝦夷にまで足を延ばしたのか…この疑問から旅は始まる。

この三人がこれからの主人公と成る予定である。
どのような展開になるかは、私も見当がつかないが、ともかく始めてみよう!

===*===

円空がキリシタンの弾圧と関係があるのではないかと思たきっかけを作って下さった「遅生の故玩館ブログ」様 ありがとうございます。感謝!
https://blog.goo.ne.jp/chisei/e/5096d6b7cb7ea609f866f29eb0fde6c4

「円空」はまだ調べたことがないため調べつつ進みます。円空の像は北海道には51体あるそうです。


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