九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

翁猿楽研究 に 九里磯大夫頼久・九里波之丞 の名が!

2020-09-19 | コラム




能楽にご縁のあった九里氏が現れた。
喜多流とある。

九里磯大夫頼久 (牧野家の能大夫だった九里波之丞(喜多流)の先代か先々代である。)
九里波之丞 


九里磯太夫長岡 48 166 167 『越後村松藩の戊辰戦争』人名索引 渡辺好明編 
http://www.ywatanabe.net/custom19.html

波之丞は北越戦争で残念ながら歿してしまっているようである。








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秩父には般若という地名がある。

2020-09-14 | コラム


秩父には般若という地名があり、本当にお能の面を創作なさる方がいらっしゃることをふと思い出した。
地名と同じキーホルダーから、その世界に入ることとなる不思議な能面の誘い。
https://www.nohmask.net/jp/profile/

https://www.nohmask.net/jp/


能面を彫る人が居なくなってしまったら、、、と思うと、、、

https://www.google.com/search?q=%E9%95%B7%E6%BE%A4%E6%B0%8F%E6%98%A5&safe=active&client=firefox-b-d&tbm=isch&sxsrf=ALeKk03aGTOk5vGtb_hsMCvbRigm5AiI1Q:1600048429056&source=lnms&sa=X&ved=0ahUKEwinxfLxxOfrAhUbc3AKHSQDCuQQ_AUICygB&biw=1360&bih=656&dpr=1.36



最後に札幌のポスター!素敵でした!
下の方までご覧ください!

https://www.kyobun.org/pdf/backno/act_32-33.pdf

小さな時には怖ろしくて直視できなかったけれど、加齢とともに大丈夫になったようだ。(笑)
いまは、いろいろな表情が面白い!と思えるように。


https://www.kyobun.org/pdf/backno/act_21.pdf


https://www.kyobun.org/pdf/backno/act_04.pdf

https://www.kyobun.org/pdf/backno/act_05.pdf
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海外の「九里」

2020-08-24 | コラム

今、コメントで「呉」の話をしていました!

九里という地名は中国にも韓国にもある。
中国は江蘇州徐州にある。
地図で確認してみると、「魏」であった。





また、もう一つ韓国には「九里市」がある。
こちらは、よくわからないが「高句麗」?のようである。 
鉄の関係があるので、九里っぽい。


http://koayaori.net/foreign-countries-puyo-koria%EF%BC%94


http://www.guri.go.kr/cms/content/view/3852


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神仏のしづめ(4) 国東半島 六郷満山

2020-08-24 | コラム

刮目天様からのコメントにあった「六郷満山」も本の中に出て参りました。

164頁 松岡心平氏談
…秦河勝の問題にしても、白山開創の泰澄にしても大陸からの強い流れが考えられる。
国東半島の六郷満山のあたりの山には、大陸というか、韓半島をそのまま移してきたような山岳信仰が入ってくる。秦河勝の秦氏は新羅系の渡来氏族ですし、役行者にはその弟子に韓邦連広足がいます。修験の中にはそうした大陸、韓半島の道教的な物や山岳信仰なものが濃厚に入り込んで来ていて、文化的なアマルガム、融合が起こっている。日本の表の文化はそれをシャットアウトしてきたと思います。
能も、山の文化が里の文化として昇華したものと考えることができます。ものすごい力を持っていた山の文化、古代・中世以来の修験を見直すことによって日本の神々の世界を見直さなければならない。神と仏がいびつな形で分離されてしまった明治以降の精神の問題です。乏しくなった日本人の精神を、修験からもう一度見直す必要があると思います。

===*===

六郷満山

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%83%B7%E6%BA%80%E5%B1%B1


https://www.onie.jp/

https://reijyoumeguri.usarokugo.com/


確か、冨来氏もいたところ!!
ヴィジュアルで見るとすごい処だ。

富士山も、国東半島も、羊蹄山も、すり鉢型。
日本人が「美」とかんじる形のようである。



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道誉の遺言の「みま」とは「敏満寺」の「みまじ」の「みま」だったのではないだろうか?

2020-08-21 | コラム

多賀座のあった敏満寺、そして道誉のお気に入りであった「甲良庄」、近くである。



佐々木哲学校 一番下のコメント 「みま」
http://blog.sasakitoru.com/200506/article_17.html

「みま」は女性の名だという説もあったようだが、敏満寺のことと、私は思う。

最後に自分の好きであった申楽・能の舞台でもあった「みま」に寄付したのが本当ならば、ますます魅力的な道誉である。






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能因法師/ 橘永愷(ながやす)から 林羅山 永井直清 

2020-08-20 | コラム

北摂 古墳巡り様のページ 貴重な情報あり!
http://www.marchenchapel.jp/outdoor_na_hibi_kofun_nouin.html

『能因法師は本名を橘永愷(たちばなのながやす)といい、近江守 橘忠望の子で、その後その兄の肥後守 橘元愷の猶子となった。』 …これは系図ではわからなかった情報。

そしてさらに『碑文は儒学者林羅山のもので、当時の高槻城主永井直清(ながいなおきよ)によって建立したとされている。』

ただの偶然が重なってこの三人になったのだろうか?

永井直清は永勝の息、永勝の父は「長田元重」

橘永愷とは、どのような関係なのだろうか?
この三人、妙な感じが…

林羅山は斎藤氏で、清原氏のいた斎藤氏のことと思う。
そこと長田氏が繋がる??

林氏と長田氏が繋がって、しかも橘氏とも繋がるとすれば、それは九里氏なのでは?と、ドキドキ。

林羅山(道春)は、京に叔父、加賀に父が居たそうである。
そして、京の叔父に預けられ、親戚ともども出版業にも関わっていたようで、
『江戸の本屋さん』今田洋三 著  平凡社 に詳しい。

日牟禮八幡宮のすぐ前に「林村」があり、しかも三村庄の代官が林氏であった。
此の林氏なのでは?と思う。とすると、九里もすぐご近所であったはず。

林羅山に関しては、後日改めて書いてみたい。






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神仏のしづめ (3) 「オコナイ」につながってきた。 

2020-08-20 | コラム

梅原猛氏と松岡心平氏の対論集から気になる部分、を書き出している。

50頁 
梅原氏と松岡氏が「翁」に関して対話している中に出てきたのが「おこない」。
近江の湖北特有のものと思っていたのだが、ちがっていたようである。

本から関係する部分を書いていこうと思う。(松岡氏の会話より)
「…それがどこかでジャンプして、翁猿楽が出てきた。どこでジャンプしたのかを考えると、修正会・修二会を裏側から闇の力でバックアップする呪師の世界に猿楽が組み込まれて、そういう呪術的な世界に身を浸した猿楽に、変容が起こったのではないかと思います。
笑いだけの猿楽の世界、と言ってもその裏側にはいろいろ呪術的なマジシャン的なことは絶対にあったと思うんですが、逆にそういうマジシャン的な世界を持っているがゆえに、修正会・修二会の呪術的な世界に民間の猿楽が汲み上げられていって、そこで「鬼やらい」のパフォーマンスに参加する。呪師の世界を卑怯するような作業をやると同時に、法会の一番最後のところ、追儺(鬼やらい)の儀式で鬼を追っ払うという時、追っ払う方の鬼も追われる方の鬼もどちらも猿楽がやった。詳しく言うと呪師猿楽が追う鬼を、ふつうの猿楽が追われる鬼を演じたと考えられます。そこで初めて鬼の面という仮面をつけたんだと思います。

 そこまでは追えるのですが、そこから「翁」がどういうふうに出てきたかというのがはっきりしない。修正会・修二会は、十世紀から十一世紀、あるいは十二世紀にかけて全国的に広がっていく。地方でも国分寺などでは修正会をやりますから、そういうところに各地方の猿楽が組み込まれていった。それは中央、例えば京都の法勝寺の修正会だけでもないし、奈良の東大寺の修二会みたいなところだけではなく、もっと全国的な広がりがあった。また修正会・修二会は民間の正月行事「おこない」という形で現在まで残っています。…」

「…ともあれ、例えば長谷寺の「ダダ押し」の鬼の役をたぶん猿楽がやっていたと思うんです。…」

===*===

ダダ押しの由来とは、本の下の註によると
「長谷寺の開祖・徳道上人が地獄巡りをして、その”みやげ”に閻魔様からいただいた「閻魔大王印文」にある。
寺伝では、この印文を「宝印授与」と称して、信者・参詣者の額に押し当てる。…魔除けである。

・・・

近江国の本を読んで以来の「謎」であった「おこない」が古来からの寺の行事がルーツであったことがわかり、おでこに付ける印は、魔除けであったことがわかった。

その「おこない」と「猿楽」が同じ場にいたことがわかった。

もしかすると、東北の「ナマハゲ」も同じようなルーツなのかもしれない。




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犬王 と 近江神楽 日吉座 

2020-08-20 | コラム

コトバンクより 犬王・近江神楽に関する解説
https://kotobank.jp/word/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E7%8C%BF%E6%A5%BD-449319

中世、近江の日吉(ひえ)神社・多賀神社に属した猿楽団体
みまじ・山階・日吉などの諸座があったが、室町末期には大和四座に押されて衰退した。

日吉(ひえ)大社の鎮座する近江には早くから猿楽座が存在していたものと推定されるが,室町時代の初期には上三座・下三座の6座が活動していた。

上三座とは,長浜市山階の山階座,下坂座,大津市坂本近辺の比叡座の3座で,《風姿花伝》神儀編ではこの3座を〈江州日吉御神事相随申楽三座〉としている。

一方,下三座とは,犬上郡多賀町の敏満寺(みまじ)座,蒲生郡蒲生町の大森座,甲賀郡水口町の酒人(さかうど)座であるが,この下三座と日吉社との関係は不明である。


中世に近江国(滋賀県)に存在した猿楽の座。日吉(ひえ)神社参勤の山階(やましな)、下坂、比叡(ひえ)(日吉)を上三座といい、敏満寺(みまじ)、大森、酒人(さこうど)を下三座と称した。山階座は長浜市山階、下坂座は長浜市下坂、比叡座は大津市坂本、敏満寺座は多賀町敏満寺、大森座は東近江(ひがしおうみ)市大森、酒人座は甲賀(こうか)市水口(みなくち)町酒人に、本拠を置いていたらしい。鎌倉末期から室町前期にかけてもっとも隆盛で、幽玄本位の芸風をもって、大和(やまと)猿楽や田楽(でんがく)と能の座の覇を争った。

ことに足利(あしかが)3代将軍義満(よしみつ)の愛顧を受けた比叡座の道阿弥(どうあみ)(犬王、犬阿弥ともいう)は名人の誉れが高かったが、以後しだいに衰微し、江戸初期に大和(やまと)猿楽の観世座に吸収され消滅した。[小林 責]


〘名〙 室町時代、大和、伊勢、摂津などの猿楽の諸座と並び、近江国(滋賀県)にあって日吉(ひえ)神社の神事に奉仕した猿楽の諸座をいう。山階、下坂、日吉の上三座と、宮増(みまし)、大森、坂本の下三座があった。近江能。
※申楽談儀(1430)面の事「愛智(ゑち)の打手、面共打ちて、あふみさるがくに遺物(ゆひもつ)しけるが」

===*===
上記には出てこないが、

佐々木京極道誉は「一忠」の申楽を気に入っていたようで、まだ少年であった世阿弥にその上演の様子を語っていたそうだ。(参考 申楽談義)

この、多賀神社・日吉神社にも驚いたが、「山階」が出てきて、ピンポイントになっておりさらに驚いた。
乾氏がいたその場所である。今現在は「大戌亥」と言われている場所ではないだろうか?

多賀氏も九里と同じ近江国御家人井口中原系図に載っている。
「中原経行」から九里氏が出て、「中原成行」から多賀氏が出ている。
経行・成行は兄弟である。

===*===

犬王の得意の演目に「天女舞」があったようだ。
これも羽衣伝説とどこか繋がっているのだと思う。

以下は
『翁と脇能 : 先行要素とその変容』三村 昌義 著 慶應義塾大学藝文学会 藝文研究  よりである。

file:///C:/Users/mamo/AppData/Local/Temp/AN00072643-00420001-0001.pdf

『申楽談儀』犬王の条の天女などをも、さらりささと、飛鳥の風にしたがふごとくに舞ひし也。
・・・
天女舞は近江猿楽の犬王の得意芸で、舞としてかなり整備されたもので観阿弥時代から評判だったらしいことは『申楽談儀』別本聞書に観阿ハ天女ヲパセズ。シカレドモ、元清一一ハ舞フベキ由、遺言セラレシニヨツテ、世子、山トニ於キテ舞ヰ初メラル。(傍線筆者)とあることなどからうかがえる。そして傍線部の如き言訳めいた表現やさきに見た表現の類似から考えると、世阿弥の「舞智」なる舞の演技は犬王のそれを反映し、取り込んでいることが考えられよう。つまり世阿弥の舞及びその理論とみてよいだろう。

・・・

とあった。犬王の天女舞を観て、観阿弥は舞わなかったが、元清(世阿弥)は舞うべき…との遺言であったという事のようだ。

===*===




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道成寺 清姫 と 能因法師(橘永愷ながやす)

2020-08-19 | コラム

なぜ、九里氏と近い感じがするのかが、少し解明されたかもしれない。

清姫伝説を知っていたかもしれない「能因法師」
当ブログの読者、自閑様が調べて下さった事から発展させてみた。
「安珍清姫伝説の最も古い書物は、大日本国法華験記(1040年頃)との事で、そこには928年夏の出来事となっています。ほぼ同時代の今昔物語にも掲載されていますほど有名な伝説だったと思います。。
一方、能因は、988年ー1050年となっていますので、この伝説を知っていたとは思います。」

で、この能因法師どうしても既視感があったので一応橘氏の系図を見てみたら、おりました!

橘安吉雄の二男「橘 良殖」
[ 貞観6(864)年 〜 延喜20年2月28日(ユリウス暦:920年3月21日) ]
従五位上安吉雄二男。母飛鳥虎継女。

良殖の後裔に「能因法師」がいる。






さらにこの良殖の妹が藤原元方に嫁いでいた。
元方は藤原の菅根の息、つまり藤原黒麻呂の子孫である。
藤原黒麻呂は下総国藻原の開拓領主であった人物で、富木常忍の先祖か?と思っている人物である。


左(32)の左から3番目 安吉雄

息長氏に橘氏
橘氏に藤原氏 しかもピンポイントで!

自閑さま、ありがとうございます!!


ココにも、情報があった。
http://www.marchenchapel.jp/outdoor_na_hibi_kofun_nouin.html





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神仏のしづめ (2)

2020-08-19 | コラム

25頁 松岡氏の発言

「世阿弥の方にも彼らの座があった結崎などの初瀬川一帯の秦氏の流れがありますから、秦氏は禅竹の金春座だけのものではない。結崎には漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)(雄略紀十四年正月条)という織ヒメを祀る糸井神社があり、秦氏との関係は深いです。」

…と書かれていた。

===*===

糸井神社、そして息長氏とも関係してくる「織姫」(おりひめ)

まず糸井神社から調べてみようと思う。





トハラ様のページ
http://www.y-tohara.com/nara-itoi.html

 「延長5年(927)にまとめられた『延喜式神名帳』に記載されている式内社で、本殿も江戸時代に春日大社から移築されたものです。結城内の五垣内(市場・中村・井戸・辻・出屋敷)により祀られています」
とあり、
 社頭にある「川西町 町・村の歴史 大字結崎(ユウザキ)」との案内(同上)には、
  「中世結崎郷は、結崎大明神(現糸井神社)を鎮守として存在していた。・・・
 鎮守であった糸井神社は延喜式内社。その祭神は、大和志料に『本殿豊鋤入姫命、同二ノ宮猿田彦命、同三ノ宮綾羽明神(アヤハミョウジン)、同四ノ宮呉羽明神(クレハミョウジン)」と記されており、社伝中にも綾羽・呉羽の祭神があることから、機織(ハタオリ)の技術集団の神と推察される。
 本殿は、春日大社の古殿を移築したと伝えられ、室町期の春日曼荼羅を所蔵し、興福寺や春日大社との関係も深かったと考えられている」
とある。

始まりは秦氏で、途中から中臣氏が関与してきたのかもしれない。

私が気になる箇所を太字にしたが、ゴカイト(五垣内)辻・出屋敷とは、敷地と氏のことだろうか?

近江の九里氏の戦国時代の仲間に出屋敷氏(婚姻関係があったようだ)がいる。
熊野の九里氏と婚姻関係があった高須氏は、元は辻氏であった。

関係があるのかどうか…?

===*===

糸井神社(結崎大明神)と秦氏、漢織・呉織、そして織姫…息長氏周辺につながってきたのではないだろうか?


===*======*===

ここからは本と関係なく、近江の息長氏に飛ぶ。






近江国 米原にある朝妻神社
七夕伝説のある場所、天野川は元は息長川であったという。
ホテルレイクランド彦根のHPより
http://lakeland.jugem.jp/?eid=285

https://www.sankei.com/region/news/150708/rgn1507080011-n1.html


ココにも面白いことが書かれていた。tokyoblog様ページ
https://tokyox.sakura.ne.jp/wordpress/%E4%B8%83%E5%A4%95%E4%BC%9D%E8%AA%AC%E3%80%81%E7%B1%B3%E5%8E%9F/

息長氏と米原
日本書紀に、「オキナガ」の名で登場する人は7名しかいない。
気長宿禰王、気長足姫尊、息長真手王、息長足日廣額天皇、息長山田王、息長真人老である。
気長宿禰王と気長足姫尊は父娘の関係である。
息長真手王は継体帝に麻績郎女、敏達帝に広姫、娘二人を天皇に嫁がせていることになっている。継体帝と敏達帝は半世紀以上離れていると思われるので、どこかで伝の乱れがあると言われている。敏達帝に嫁いだ広姫は押坂彦人大兄皇子を生んでいる。押坂彦人大兄皇子は後に「皇祖大兄」と呼ばれて息長天皇家の祖と言われる存在である。

天野川の息長氏の古墳

米原市には姉川沿いに10基以上の前方後円墳が展開する坂田古墳群と天野川沿いに4基の前方後円墳がある息長古墳群がある。坂田古墳群は4世紀から5世紀末にかけて築造したと考えられる。息長古墳群は5世紀末から6世紀にかけての築造らしい。このエリアにおいて姉川沿いの地域に坂田古墳群を築造したと考えられる坂田酒人氏が最有力の豪族として君臨し、5世紀末になって南方約20kmの天野川沿いに息長氏が勢力を伸ばし逆転現象が起こったと考えられている。(大橋信弥著「日本古代国家の成立と息長氏」)

米原の息長氏の古墳
気長宿禰王:米原市能登瀬の山津照神社古墳
気長足姫尊:奈良県奈良市の五社神古墳(ごさしこふん)
広姫    :米原市村居田の息長広姫陵

此の広姫は、敏達天皇の最初の妻で、押坂彦人大兄皇子の母となる。




===*===

敏達天皇は、後裔に橘氏がいる。
この辺りと、息長氏は繋がってくるようなのだ。



近江国御家人井口中原系図の九里の祖と、橘逸勢、意外とつながってくるのかもしれない!
和歌山系図の中にいた…と見た人がおっしゃっていたそうだ。

その系図のコピーは部分しか入手できていないので、もしもご存知の方がいらしたら教えていただきたい。何系図なのか、名前も知らないのだが、

九里と小堀が兄弟で…、遡ると橘逸勢というのがヒントとなる。


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