「空海」
そのネーミングからして素敵と思う私はミーハーである。
以前トライしたが読むことが難しかった「空海の風景」が手許にある。
今回は一気読みすることができた。
この本の中に、イラン人・阿羅本に関しての記述があった。
また、昨日記事にもしていた「はし」=「波斯」と関係がある記述もあった。
ペルシャ人の持っていた宗教は『祆教』(けんきょう)と言っていたようだ。
空海の生きていた時代の【唐】は国際的で、様々な国からの僧も住んでいた。
空海の風景(上) 司馬遼太郎(中公文庫)より
p.337~
『波斯僧は、この宇宙の二大要素は善と悪である、宇宙は善と悪の相克する場でもある、とまず最初にいったにちがいない。
善にして光明なるアフラ・マズラは、いっさいの善なるものを創造し、一方、悪にして暗黒なるアンラ・マイニュはいっさいの悪を創造し、たがいに戦い、たがいに相手を滅ぼそうとしている。それが、宇宙だ、と波斯僧は説くのである。この善神と悪神はそれぞれ軍隊をもって戦う。善神は天にあって天上の軍隊をひきい、悪神は地獄にあって地獄の軍隊をひきいる。天にある善神が、多くの天使や精霊をひきいているという構造は、祆教と同様、この長安に来ている景教(ネストリウス派のキリスト教)と酷似している。景教といえば、景教と同様、祆教にも人間に対する審判もある。現世界が存続するのは一万二千年で、その世界の終末のときに最後の審判がおこなわれるが、その審判によって死者も復活するという。』
・・・・・
p.339~
『この祆教の説く霊魂の生態―― 死後、三日間死体を離れないとか、風にはこばれて橋のそばにゆくなど――― といった内容に酷似した話が、いつのほどか日本に伝わったのか、日本にあって仏教俗信として存在している。祆教が、ある部分はキリスト教を教祖とする景教を思わせ、ある部分は日本の俗信を連想させるのは、どういうことなのか。日本に形を変えて伝来したとすれば、長安へ行った物好きの僧が、あるいは媒体者だったかもしれず、その媒体者を空海に擬するのは、思想というものを純粋に結晶体のようなものでありたいと志向しているかれに対して、むろん酷であることは言うまでもない。』
・・・・
p.344~
本の続きで、景教の話からになる。
『中国に入った伝道団の長老は、阿羅本(アラポン・・・アブラハム?)というイランの僧だった。貞観九年、太宗は、時の宰相房玄齢・魏徴らに命じ、阿羅本らを宮中に迎えてその説くところを聴き、経典の漢訳をゆるし、天下に布教することを許した。つぎの高宗も阿羅本をあがめて鎮護大法主とし、のちやや衰えたが、玄宗の保護によってふたたびさかんになった。玄宗は特に勅命して、それまで景教の教会が波斯寺とよばれて祆教と混同されがちなのをふせぐため、太秦寺と称せしめた。』
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以前、聖徳太子は635年に唐に景教が入る以前に亡くなっていた、と書いたが、もしも太子が生存していた年代が60年ズレていたとすれば、歿が622+60年となり、682年迄生存していたこととなり、景教として日本に渡ってきた時期にも重なると思う。
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祆教と景教、少し詳しくなったような気分となっている。
祆教は、拝火教とも、ゾロアスター教とも同じ宗教であろうと思う。
世界史の窓
「イランの民族宗教であるゾロアスター教が、中国の唐代に伝えられて、祆教または拝火教と言われた。
ややこやしいが、以下を読んで欲しい。外務省のHPより
https://www.mofa.go.jp/mofaj/ms/da/page25_000039.html
「ヨーロッパ言語でいわれる「ペルシャ」という国名は、古代ギリシャの歴史家が、ペルシャ人が移住したイラン平原西南の「ファルス」地方にちなみPerse、Persanと呼んだことに由来するものであり、日本でもそれにならい「ペルシャ」、あるいはその漢字表記である「波斯」が用いられていました。しかし、パハラヴィー体制のもと、上記のような古代礼賛を起源とするナショナリズムが高まると、ペルシャ国民の間に「ペルシャ」という名称ではなく歴史的・地理的および民族的にもより広い意味を持つ「イラン」(「アーリア人」を語源とする)を自称すべきとの考えが広がりました。そこでペルシャは「イラン」への国号の変更を各国に通告しました。
ペルセポリスは、素敵な街であったはずだが、アケメネス朝における「ペルシャの都」という意味である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%82%B9
今も 多くの民族・言語・宗教混在の多文化国家と思う。
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私の叔父が、司馬遼太郎氏の「街道をゆく」の中に「九里氏」を見つけたと言っていた。
北海道道東に関する巻であったそうだが、私はまだ見ていない。(15巻か、オホーツク38巻?かもしれない)
もしもご存知の方がいらっしゃいましたら、是非教えていただきたく思っております。
どうぞよろしくお願いいたします。
孝徳天皇大化三年(647)十二月是歳の条
「新羅、上臣大阿飡金春秋等を遣して、博士小徳高向黒麻呂・小山中中臣連押熊を送りて、来りて孔雀一隻・鸚鵡一隻を献る。仍りて春秋を以て質とす。春秋、姿顔美くして善みて談咲す。」
と有りました。春秋が武烈王だそうです。
共に南方に棲息する鳥で新羅には無いなあと思っておりました。
漢詩学者も生物の生態を知らないなあと思いました。
半島歴史は全く無知だが、そう言えば、kunorikunoriさんが調べていたと思って報告します。
もうじき、空から白くない雨が振りだしたら!春ですね😃
鸚鵡の記事、拝見していましたが、武烈王(春秋)が…のところは見ていなかったです。
孔雀と鸚鵡を持ってきて質に取られたとは…
新羅にきた献上品の中から珍しい物や生き物を貢ぎ物として持ってきたのでしょうね。
質とはいえ、留学のように日本の様子を学んでいたと願っています。
談咲が、ホタキコト=誇らしく話す、と、様子が見えて、嬉しいデス。
ありがとうございました!!
一番ゆるやかに時が流れていたのでしょうね。
景教(キリスト教ネストリウス派)祆教、(拝火教・ゾロアスター教)、マニ教が長安に入りこんで信者を増やしますが唐王朝は規制はしていませんね。少し遅れて回教(イスラム教)が入りますが、全然平気!
この時、空海は真言密教の勉強をしていますから
「面白いなあ~!」と思っていたでしょうね。
唐王朝は弾圧よりも世界との自由な交流の方が国益になると思ったのでしょうね。
今も長安(西安)は大都会ですが、共産党王朝では宗教の自由も、発言、行動の自由はもちろんありません。中国の国宝的な古美術等は毛沢東により破壊されましたので、西安も歴史的なものは殆ど失われています。空海が勉強した寺もコンクリートで再建されていました。
今、金持ちになった中国は文化予算も増えたのか漸く、従来の材料、従来の工法での復元を始めました。習近平がやれ!と言えば、あっと云う間にする国です(笑)
一帯一路はシルクロードの再現ですから、西安が出発点としています。唐王朝の栄華の再興が夢なのでしょうね。
版図はジンギスカン時代、指導するのは漢民族としていますから、今回、ウクライナで疲弊するロシアを属国にしようとしています。ロシア人は征服されたのはチンギスカン(何故か、モスクワでは韃靼人と説明していました。)だけとしますから、現代のジンギス汗は習近平でしょう。(笑)
歴史はくりかえします。
「唐王朝は弾圧よりも世界との自由な交流の方が国益になると思ったのでしょうね。」の部分、良いですね!
本当に自由な国風だったのでしょうね。
さて、北海道には『韃靼そばの畑』があります。
アイヌ民族と交易もあったと思います。
韃靼民族もジンギス・ハーンと同じく遊牧民なですよね。その辺りから来ているかと…
北海道もどこかの国の属国になってしまうのでは?との不安が頭の片隅にあります。土地も買われていますし…
韃靼そば畑は今、どこにありますか?
司馬遼太郎は網走モヨロ貝塚館を訪問したときに大陸のツングース族の竪穴住居で彼らは山葡萄酒を飲んでいたとしますね。ツングース族とアイヌ族は違う民族みたいです。当時の蝦夷には色んな民族が住んでいたようですね。現地人の墓を暴いて骨格標本として京大が持ち帰りましたが、近頃になり問題となりましたね。北海道は昔々は穏やかな気候だったと思います。多分今の九州レベルの温暖な土地だったでしょう。青森の三内丸山が示していますね。
司馬氏が韃靼と使っているのは「野蛮人」と云う意味で民族を指しているものではないようです。
ロシア人の表現もおなじ意味なのかもしれません。
都市国家であった古代ギリシャは周りのギリシャ人以外を「バルバロイ(聞き苦しい言葉を話す人)」と言っていた蔑称なのかもしれません。
原種は苦いそうで、改良されています。
昔から北海道にあったのかどうかまではわかりませんが、オホーツクに面した雄武町の韃靼が有名です。上幌内はその北。
そば湯は、ルチンが多いせいか黄色になります。
https://welcome-oumu.hokkaido.jp/oumu_specialty/dattan_soba/
https://jinmon.jp/about/
やはりオホーツク海に面するのですね。
網走・モヨロ遺跡のツングース系オホーツク人の名残かも知れませんね。アイヌ族とオホーツク人は別種のようですが、今現在もよくわからないようですね。
アイヌはヤマト族に追われて西日本からだんだん東へ追いこまれていった族と思っていましたが、北海道では相当昔から交雑が始まっていたのかもしれませんね。
カーリングで有名になった常呂町[トコロ町]も、オホーツクに面しています。
アイヌ民族の集落遺跡があったと記憶しています。サロマ湖の近くに。
チャシ[砦 ]もその南にあったそうです。
プーチンに[その辺りもロシアだろう]と言われたく無いので言及はしませんが、、、
側近に日本語の達人がいるそうで、きっと様々な情報を集めているでしょうね。