佐々木哲学校の記事に礒部氏のことが出ていた。
佐々木三郎長綱は、盛綱─信実─秀忠─景秀─秀綱─高信─長綱とつづく秀忠流磯部氏の人物で、
室町幕府執事細川清氏の孫細川頼氏の養子になり、越後白河庄上下条と遠江相良庄を相続していた人物であるが、生活に窮して足利義満に直訴していた。
このことでも揚北衆佐々木氏が没落していたことが分かるが、この佐々木長綱(三郎左衛門尉)が、新発田氏の祖長綱だろう。戦国期の新発田氏が、越前守師秀の子孫加地氏よりも優勢であった事実から、この長綱の訴えは成功したと考えられる。
https://satetsu.seesaa.net/article/201003article_1.html
磯部氏 (宇多源氏)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%AF%E9%83%A8%E6%B0%8F_%28%E5%AE%87%E5%A4%9A%E6%BA%90%E6%B0%8F%29
芸藩通志、賀茂郡の条に「礒部氏、寺家村、先祖礒部左近秀実、佐々木盛綱七世の孫にして建武年中上野国磯部より此に来りて里社の奉祀となる。」「また、この氏人ならむと思はるる礒部氏がこと、太平記巻の二十七に見ゆ。いはく。かかりし後はいよいよ師直権威重く成て、三条殿方の人々は面を低れ眉をひそむ。中にも右兵衛佐直冬は、中国の探題にて備後の鞆におはしけるを、師直近国の地頭・御家人に相触て討ち奉れと申し遣はしたりければ、同九月十三日、杉原又四郎二百余騎にて押寄たり。にわかの事なれば防ぐべき兵も少なくて、直冬朝臣すでに誅せられ給ひぬべかりしを、礒部左近将監が若党散々に防ぎけるが、いづれも屈強の手だれにて志ざす矢坪を違へず射ける矢に、十六騎に手負て、十三騎馬よりさかさまに射て落としたり。」とある。
この芸藩通誌にある礒部家は現在も続いており、「いそべ」の字を「礒部」としているので、ここではそれに従った。
また、この礒部家では、分家を出すと必ずその分家は滅ぶと言い伝えており、継嗣以外の兄弟は他家へ養子へ出されてきた経緯が有り、安芸国近郊には分家は存在しない。
ただし、例外として、下記の江戸幕臣磯部家のように、遠方への同家支流は存在するようである。