やはり、キーは「饗場御厨」であった。
饗庭御厨のある【員弁郡藤原町】
この饗庭御厨は1334年の文書では「日野業子」が関係する。
『永和4日野業子が建仁寺住持定智に寄進=応仁の乱で一時幕府御料所となる 』とある。
日野氏と関係することから、その御厨の管理を任されていた可能性も充分あること。
日野氏の配下にいた中原某が、浅小井氏とここで出逢ったのかもしれないし、すでに同族であったのかもしれない。
日野業子に関しては、コトバンクによる
没年:応永12.7.11(1405.8.5)
室町幕府3代将軍足利義満の妻。日野時光の娘。永和初年ころ,禁裏後宮の実力者であったおば二品尼日野宣子の介添えで足利義満の妻となった。持明院統と関係の深かった中流貴族日野家はこのとき以来代々将軍の妻室を出すようになり,一族は大きな権勢をふるった。永和4/天授4(1378)年,義満が権大納言に任じられると,正室業子も従三位となり,さらに永徳1/弘和1(1381)年には従二位となった。応永12(1405)年病を得て出家し,その数日後に没し,没後従一位に叙せられた。法号は定心院殿大喜性慶禅定尼。<参考文献>臼井信義『足利義満』
(西尾和美)
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下記の深尾書簡のことを書かれていらっしゃる方(tatsuyaさん)のページよりヒントをたくさんいただきつつ、私が仮定していることと合わせて考えて見ようと思う。
私の書いた部分は藍色とする。
https://blogs.yahoo.co.jp/tatsuya11147/folder/1553064.html
龍雲寺が確認できる。(深尾元祖清長公の戒名、龍雲寺殿)(安顕寺も近江源氏:深尾氏の庶流と存ぜられ候…深尾書簡の残されていたお寺)
場所も確認すると、上相場・下相場が確認できると思う。
加賀守を名乗っていた佐々木氏が吾妻鑑に記載があった。
早々に結論を平加賀守親清と出していたが、
後に(戦国時代)深尾加賀守元秀という名乗りがあるため、
こちらの可能性もあると思う。
清長と名乗っていた孫か曾孫にあたる人物 佐々木加賀守親清。1252年(仮定)という事となるだろうか。
系図には見えてこないが‥
小源太(浅小井氏第二代・浅小井小源太清家、後改めて清長。その後、深尾監物太郎清長。以後、子孫は深尾氏を名乗る)
寿永三(1184)年の頃、佐々木源三秀義と同意して、親子とも伊賀国平田城を責め、戦には利を得候へども、大将秀義老死(七十二歳没)、その後父(浅小井氏初代・四郎長家)も病死(文治三(1187)年)。
承安三(1173)年、初めて[清長は]深尾谷に居住す。
その後治承四(1180)年に関東へ下向し、頼朝公に加わり、所々の戦に月日を送り、国治まりて鎌倉に居住と相まみえ申し候。
承安三(1173)年より治承四(1180)年年迄[清長は]深尾に在城
九里氏は浅小井氏・深尾と同族なのではないかと思う。
なぜなら、富木常忍の所領であった千葉県市川市若宮が、江戸時代になってからだが、
深尾氏に宛てがわれているのである。
それがいつからなのかを探っていることになるのだが。
そこで、浅小井氏深尾が住んでいた深尾谷を見ると、藤原町であり、饗庭御厨(上相場・下相場) の近くなのである。
上記のwebページより、大事な部分をご紹介させていただこうと思う。
深尾氏の根本は佐々木より分かれ、
浅小井に居て浅小井を氏(うじ・血縁による同族集団)とし、
またそれぞれの地に居て深尾と号し、
或は頼朝公に随順し、
また足利家に属し、
足利の時代本生国・浅小井に帰り、
私どもの中興の祖と申す者は深尾加賀守元秀(浅小井深尾氏第十二代・浅小井城二代目城主・天文八(1539)年没)と申し候て本家佐々木家に属し、
それより三代目に佐々木観音寺城没落(信長に攻められ1568年落城)。
これによって四代目の与喜内勝隆(寛永十一(1634)年没・八十一歳)と言う人、
二君に仕える所存無くして当初浅小井の土民に交じり、
それより以来、元禄年中(1688-1704年)迄は追々分家もいたし、
相応に一類中(同族中)繁昌仕(つかまつ)り候由。
この方出の深尾氏江戸表に四、五軒にも分かれ候御旗本衆の内、
その御本家・深尾八太夫(旗本深尾氏七代目当主・元方。1811年没。七十一歳)と申す方より系図の様子近年追々(順序を追って)御尋ね。
なおまた、信州松代・真田伊豆守御家中(ごかちゅう)深尾立朴(りゅうぼく)と申す方よりも、
段々御尋ね。
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この深尾立朴のことがADEACに出ていた。
■むしくら日記 [翻刻] 3巻 利
[[翻刻]]
NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ 1.震災・火災・水害等災害の記録
一棟潰矢嶋源左衛門居宅東之方半分潰、残大破、土蔵一棟潰、(改頁)12物置三棟潰浦野
勇右衛門物置一棟潰深尾立朴土蔵一棟潰松山瑞白居宅潰田中増次門口潰高田力馬土蔵一棟
潰佐藤宗弐居宅潰東条亀治居宅潰松林左金吾長屋大...
土蔵が水害か何かで壊れたようだ。
その他、深尾七郎右衛門の文書がいくつかあった。