九里 【九里】を探して三千里

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因幡国の長田氏 と 鎌倉幕府の御家人 長田氏 

2020-06-06 | 永田氏

大江広元は因幡守の時代があった。
その時に長田氏であった在庁官人との接点はあったのでは、と思われる。

さて、頼朝に付き人(藤七資家)をつけて、の場面の 【吾妻鑑】から
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma03-03.htm

「壽永三年(1184)三月小十日己亥。晴。三位中將重衡卿、今日、京を出で、關東へ赴く。梶原平三景時之を相具す。
是、武衛①申し請け令め給ふに依て也。

今日、因幡國住人  長田兵衛尉實經②〔後日廣經と改む〕召被れ、二品①御書を賜はりて云はく。
右の人、平家に同心する之間、罪科たる可しと雖も、父資經〔高庭介也〕③は藤七資家を以て、伊豆國迄送る事、
子々孫々に至るまで更に忘れ難し。仍て本知行所は相違有る不可者り。

去る永暦の御旅行之時、累代芳契之輩、或ひは夭亡し、或ひは以て變々之上、左遷之身と爲し、敢て從ふ之人無し。

而るに實經(資經の間違い)は親族資家を副へ奉る事思し食し忘れ不る之故也。

参考①武衛と二品、同じ日の文書に頼朝が武衛二品の二つの呼び方で出ている。
二品は平家討伐の賞で受けたので「今日因幡國住人」後半の内容は書き足されたものと思われる。

参考②長田兵衛尉實經は、因幡國高庭庄で鳥取市野坂で後廣經と改める。
参考③資經〔高庭介也〕は、因幡國高庭庄で鳥取市野坂。国の介で高場郡司でもある。頼朝が伊豆へ配流されるときに、平家をはばかって誰も送ってくれないのに、資經は親族の資家に伊豆まで送らせた。

===*===

つまり、大江広元よりも以前に「因幡国」の在庁官人として因幡国にいた事になる。
この資経が、広経と名前を改めている…となっている。

この資経、資家、の他に、ある本には「実経」がいて(広経)と改めているようなのだが…

ともかく、頼朝に家人をつけたのがこの資経である様だ。
資経は1158・1174年に相撲節会に召し出されているようだ。

相撲節会(すまひのせちえ)とは、奈良・平安時代にかけて行われた宮中の年中行事。射礼や騎射(後に競馬)と並んで「三度節」とも呼ばれた。

その後のこの系としての記載は

長田太郎左衛門尉雅綱として、
「嘉禎四年十月十九日関東御下知問當給人長田太郎左衛門尉雅綱之處、
如去年八月廿八日、請文者.寶治元年九月五日御施行雅綱為新給人之間
、不及支申云女。然則於彼地頭職者、被宛行其十月九日元亨元年十二月七日相模守…」

と、福島県資料集成にある様である。(goooglebooks)
(注目すべきは「綱」ではないだろうか。長田長綱・貞綱。)


宝治元年1247年
元亨元年1321年
嘉禎四年1235年

山形にあるという事は、長井氏との関係のようである。
大江広元の息に長井時広がいる。
「兄大江親広が承久の乱で失脚すると大江氏の惣領となり幕府中枢で活躍した。 」とwikipediaにある。
「出羽国置賜郡長井荘を所領としたため、在地名を取って長井氏を称し家祖となった。」

もしもそうならば、こちらの長田氏も「長井氏」に吸収されたのかもしれない。

承久3年(1221年)の承久の乱で、兄親広が後鳥羽上皇方に加わって失脚したため、嘉禄元年(1225年)父大江広元が亡くなると、大江氏の惣領となる。貞永元年(1232年)父広元の収集した記録文書等を北条泰時から賜る
後に備後国守護職となる。嘉禎4年/暦仁元年(1238年)に所領の米沢に米沢城を築いたとも言われる。
仁治2年(1241年)に死去した。嫡男長井泰秀が出羽長井荘を、次男長井泰重が備後守護を継承した

===*===

長田氏とは、もともとどこかで大江姓か中原姓と深いご縁があったのではないだろうか?
義朝の家司であった節もある。家司と言えば、中原氏が得意な分野である。

===:===

もう一つの長田親致の方はどうなったのかの追記である。
親致が大浜太郎となった後のことである。

https://books.google.co.jp/books?id=60WEAAAAIAAJ&q=%E9%95%B7%E7%94%B0%E3%80%80%E5%A4%A7%E6%B5%9C%E9%83%B7%E3%81%AE%E5%86%85%E3%80%81%E6%A3%9A%E5%B0%BE%E6%9D%91%E7%99%BE%E7%94%BA%E3%82%92%E8%B3%9C%E3%82%8F%E3%82%8A%E3%80%80&dq=%E9%95%B7%E7%94%B0%E3%80%80%E5%A4%A7%E6%B5%9C%E9%83%B7%E3%81%AE%E5%86%85%E3%80%81%E6%A3%9A%E5%B0%BE%E6%9D%91%E7%99%BE%E7%94%BA%E3%82%92%E8%B3%9C%E3%82%8F%E3%82%8A%E3%80%80&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiykejOlezpAhWSFIgKHSydDUcQ6AEIKjAA

大浜郷の内、棚尾村百町を賜わり、一に大浜太郎といったとあり、
その二男平二郎重俊の系統がつづいている。

平太夫政広の母は、大江姓の那波宗秀の女とあり、政広には、大橋定広の男広正が養子となった。
この広正の子が直吉となっている。

風樹の年輪という本には
「那波掃左衛門左近将武部上四郎弥五郎長田平衛門部介監総介
三州大浜庄官広元ー宗光ー政茂ー頼広ー宗広ー教元ー宗元ー(五代)ー重光(元)ー直時」とある。

また「三河」という本の中にも、詳しくあった。



このことを系図としてくださっているHPがあったので、うれしい!
【在原氏考】

下の方にある(参考系図)大名家永井氏系図(筆者創作系図)とある。

http://ek1010.sakura.ne.jp/1234-7-43.html

大江宗秀の娘と長田広常が婚姻関係となり、途中大橋氏からの養子も入っている。

大江宗秀は、父は長井時秀、母は安達義景の娘。
北条実時(金沢実時)の娘を妻とし、その間の子に長井貞秀がいる。
その他の男子に、長井時千、長井冬時がいる。

父の「長井時秀」(長井宗秀の父)
時秀の母は佐々木信綱の娘である。
そして、時秀の妹が那波左近将監妻となっている。

那波政茂という人物のようである。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/naha_k.html




===*===

大江宗光に関しては、これから調べていこうと思う。
大江広元の息に「那波宗元」がいるので、その息だろうか?

いずれにせよ、この那波氏とも関係が繋がっていそうな「長田氏」である。


memo
「正治二年(1200)三月四日大江宗光」との奥書
「文章博士兼紀伊権守藤原朝臣敤任」との付箋がついた『中庸章句』鈔本が東洋文庫に収められている。
【中世日本に於ける四書の受容と学風の転換】楊, 洋 著の論文の中に見つけた。
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/217119/2/dbunk00722.pdf




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