九里 【九里】を探して三千里

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武功夜話 前野家文書 四巻 吉田蒼生雄 全訳 新人物往来社(3)良峯姓 前野時綱 周辺

2020-11-02 | 佐々氏 バラバラ情報
九里氏に関する部分のみ、略しながら書いている。なお、柏原織田家臣系譜(国立国会図書館蔵 デジタル)の良峯姓佐々氏(前野氏)の時基の跡、宗直までの空白を埋めるためもあり、ココに書き出している。

時綱:宗安長子、前野右馬三郎兵衛尉時綱、母は越後国頸城郡吉田荘吉田氏の女、文永十一年(1274年)卒、68歳。
入道宗安と共に生駒山中に隠れる、尾張川の合戦に宮方へ合力、敗退の後は親宗安ともども中嶋左衛門尉に御預けに相成るところ、六波羅許容なされ前野村本貫の地九十五貫文下し置かれ候事、時綱公稲木庄前野村の中興開発の元祖なり。

時基:時綱男子一人あり、三郎兵衛後佐兵衛と成る。弘安八年(1285年)卒
左兵衛尉時基前野村の墓所を相定む。

宗氏:時基長子小兵衛という。後次郎三郎尉となる。建武三年(1336年)卒

宗義:宗氏長子、五郎三郎尉という、宗義応安六年(1373年)卒

高康:宗義長子、小二郎兵衛尉、右京という、応永二十五年(1418年)卒
前野小次郎尉高康という、尾張国守斯波武衛公の守護代尾州下津城織田伊勢守(常松)入道に召し出でなされ被官の始の人なり、伊勢守入道御召し出で尾州十家の内なり。

綱宗:高康長子、四郎兵衛尉という。綱宗嘉吉三年(1443年)卒
前野四郎兵衛尉綱宗と称号、初め下津城織田伊勢守の被官と成る、後尾州岩倉の城主織田与九郎尉兵庫助様(寛広)の旗下なり、伊勢守敏広公岩倉城にて上四郡を領知す、織田敏広公稲木荘前野村を父祖代々の領地安堵、知行地を充る者なり、美濃国斎藤氏と隙これある時御出陣し仰せ出でられ御伴仕る。

時正:綱宗長子、右馬三郎という。時正文明十六年(1484年)卒。
前野右馬三郎兵衛尉時正と称す、尾張国丹羽郡岩倉城主織田左馬助敏信公に御奉公申し上げ候、丹羽郡稲木庄前野村内九十五貫文充行る、延徳江州人並びに美濃国斎藤妙椿と取り合いこれある時まっしぐらに先頭を心掛け敵首一個を取る比類無き高名御座候、岩倉殿の奉行役なり。
時正の室は、羽黒村の住人梶原佐衛門尉の女なり。

(時正の妹二人)尾州丹羽郡郡村 佐久間与左衛門の室、佐久間与左衛門の伜岩倉殿の家人なり。 もう一人 尾州丹羽郡於久地村の中嶋七左衛門の室と成る、岩倉伊勢守殿の家人なり。

長義:時正長子、初名太郎後小二郎尉という。長安永正九年(1512年)卒
小二郎尉室、尾州丹羽郡宮後村安井氏の女、室文亀元年(1501年)卒
前野小二郎尉長義と称す、上郡小守護代織田左馬助敏信公旗下、軍奉行役仰せつけられる、延徳三年(1491年)江州六角氏御退治の御陣の時、親右馬三郎時正と共に高名比類なし、左馬敏信殿美濃鏡野において相果てなされ候、御嫡子七兵衛尉(信安)に奉仕・・・







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