桓武天皇ー葛原親王ー平高望ー平良文ー平忠頼ー平忠常ー平常将ー平常長
平高望の時代は↓(wikipediaより)
昌泰元年(898年)、高望は上総介に任官した。当時の上級国司は任地に赴かない遙任も少なくなかったが、
長男国香、次男良兼、三男良将を伴って任地に赴く。
高望親子は任期が過ぎても帰京せず、国香は前常陸大掾の源護の娘を、良将は下総国相馬郡の犬養春枝の娘を妻とするなど、在地勢力との関係を深め常陸国・下総国・上総国の未墾地を開発、自らが開発者となり生産者となることによって勢力を拡大、その権利を守るべく武士団を形成してその後の高望王流桓武平氏の基盤を固めた。
良文は昌泰元(898)年4月に上総介に任じられたそうである。
千葉氏や上総氏、秩父氏、三浦氏、鎌倉氏らの祖と言われている。
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佐々木哲氏のメルマガには、良文に関して以下のようにあるのでご紹介したい。
『平良文は平高望五男であり、下総国結城郡村岡(茨城県下妻市村岡)に居住して村岡五郎と名乗ったが、武蔵国に進出したのは恒望王の所領を継承したからだと考えられる。』
恒望王というのが高望王の弟で、純度の高い自然銅と関係があったようである。
そこのところを佐々木哲氏のメルマガよりご紹介すると
『葛原親王の母は桓武天皇夫人正三位多治比真宗であり、外祖父は参議多治比長野(家主の子)女であった。左大臣多治比真人島-大納言池守―鋳銭長官家主―参議長野―桓武天皇夫人真宗―葛原親王―高見王―平高望、弟恒望王である。』
『多治比氏は、持統朝の左大臣多治比島(六二四~七〇一)の弟三宅麻呂が七〇七年に銅銭(和同開珎)に使用する銅を得るため秩父に下り、島の孫家主(大納言池守の子)も銅銭長官に補任されている。さらに島の子中納言県守と中納言広足が武蔵守を経ており、県守の孫宇美も武蔵守に補任されている。八六一年には県守の玄孫多治今継が武藏権介に補任されている。『将門記』でも、多治武信・峯信・経明・峯時・助真・良利など多治比氏が多く登場する。これは桓武平氏の祖葛原親王の外戚が多治比氏であったこととも関係があろう。これらの多治比(丹治)氏が武蔵七党のひとつ丹党を形成したと考えられる。』
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この【銅】に関係している点が大事と思う。
石見国久利郷は石見銀山に近い。
そこでは銀の他に【銅】も採れたという。
で、秩父でも【銅】が採れる。
依知秦氏が近江国の愛智郡にいて、活躍していたように、秩父にも秦氏がいたという。
きっと、其の銅を銅貨にしたり製品化していた人がいたに違いない。
佐々木哲氏のメルマガの中にも銅に関した部分がある。大江氏も関係があるので一部ご紹介したい。
『右馬助平信忠は壬生家文書によれば、摂津採銅所預(奉行)大江氏の実子あるいは養子であり、検非違使補任のときには大江氏を名乗っている。その摂津には目賀田氏と同様、平姓で信の字を通字とする芥河氏があった。右馬寮の官職に補任され、家紋が杏葉紋であることも目賀田氏と共通している。摂津採銅所の権益を有した平信忠(大江信忠)の直系の可能性がある。
(摂津採銅所:摂津能勢郡)
堤信遠(つつみのぶとお,しんえん)
[父、大江信忠]院下北面。(1171)以前に下野守。伊豆国在庁権守
大江信忠は保元周辺が活動期のようである。
もっと調べてみると意外なことがわかった。
この大江信忠の娘は後白河法皇の室となっていて、息が二人生まれている。
この本「系図綱要」によると、中原師元の娘も同時期に後白河法皇の室となっている。
師元は師遠の息で、師清の兄弟である。
https://geocity1.com/okugesan_com/goshirakawa.htm
定恵法親王(无品。園城寺長吏。天王寺別当。号鳥羽宮。母同。
建久7年4月18日(ユリウス暦:1196年5月17日)薨〔皇親系〕)
恒恵(園城寺。僧正。法輪寺。母同円恵〔皇親系によれば、一云備中守大江信忠女〕)
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だんだん本題とずれてきたので、修正。
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平忠頼は初名は「経明」ということである。
やはり「千葉氏」のHPに助けてもらおうと思う。
https://chibasi.net/souke4.htm
村岡五郎平良文の息。長生きで、90歳まで生きていたということである。
この平忠頼のページの一番下に文書の記載があるが、そこに「葛飾郡栗原郷」とある。
場所を確認してみると、(千年村プロジェクト)
http://mille-vill.org/%E8%91%9B%E9%A3%BE%E9%83%A1%E6%A0%97%E5%8E%9F%E9%83%B7(%E5%8D%83%E8%91%89%E7%9C%8C)
すごく嬉しいことに、「栗原郷」は富木常忍の居た「中山法華経寺」や「若宮」に近い。
ここに所領があった!のかもしれない。
このお寺の場所に住居があったということは、三善太田氏と富木氏もどこかで平氏とつながっていた傍証にならないだろうか。
源頼朝が中山四郎重政から没収した場所を下総局がいただいていることも併せて考えるに、この下総局が富木常忍の母親という説は、正しかったように思えてきた。
秩父氏や畠山氏とも繋がっていた「中原氏」を探せば、いいのかな。
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そこで、また忠頼に戻ると、この忠頼の妻が平将門の娘春姫で、その息から房総平氏の祖となる忠常、秩父平氏の祖となる「将恒」と分かれる基点となる。
「将恒」は武蔵国大掾である。
ここでまた佐々木哲氏のメルマガに再登場していただく。(私の省略版)
『将恒は武蔵比企郡大蔵館(埼玉県比企郡嵐山町大蔵)に居住して大蔵太郎と名乗った。・・・将恒は足立郡司武蔵武芝の女婿でもある。…足立郡司武蔵武芝は武蔵判官代として武蔵国の実務官でもあった。こうして秩父平氏は武蔵国衙に進出した。』
『将恒と正室・武蔵武芝娘との間に生まれた秩父武基は、前九年の役に従軍して秩父別当に就任。
武蔵国秩父郡を拠点として秩父氏を称した。
秩父地方は初の国産の銅が七〇八年に朝廷へ献上されて「和銅」に改元されるなど、馬や銅の産地として栄えた土地であった。
さらにその息秩父武綱は前九年の役で戦功を挙げた源有光の長女を妻とし、後三年の役に従軍して先陣を務めたことで秩父氏は発展し、秩父郡吉田郷の秩父氏館(吉田城)に居住した。
武綱の長男重綱(母大和源氏安芸守有光女)の代には、武蔵国国司の代理職である「武蔵国留守所総検校職」に就き、武蔵国の在庁官人のトップとして、国内の武士を統率・動員する権限を持ち、一族は大いに発展した。
秩父重綱の長男重弘の子孫は畠山氏、二男重隆の子孫は河越氏を称し、三男重遠の子孫は高山氏、四男重継の子孫は江戸氏を称した。』
上記にある大和源氏安芸守有光とは、
「京都の住人・福田安芸守源有光(ふくだあきのかみみなもとのありみつ)が永承6年(1051)奥州の安倍一族追討の軍に加わり(前九年の役)多大な功績を挙げ、その後、朝廷の命により、八幡太郎源義家の代官となり、この地「石都都古和気神社」 陸奥の国一の宮を賜った。」
とある。
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中山重政の所領を下総局がいただいたのが、1213年5月。
小山朝政の弟である長沼宗政(下野国長沼荘(栃木県真岡市))の発言の中に下総局が出てくる。
「また没収の地は勲功の族に充てられず、多く以て青女等に賜ふ。いはゆる榛谷四郎重朝が遺跡を五條局に給ひ、中山四郎重政が跡を以て下総局に賜ふと云々」
勲功で自分たちに所領が宛がわれるはずが、なぜか女たちにあげてしまう源実朝への苦言を呈しているのだそうだ。
この下総局は一体どなたなのか…まだ姿を現してはくれません。
大河のニュースで覗いてみましたよ、頼朝や政子の周りで政子の弟って気になりますよ。その後の流れでもちゃんと娘が継承してそうだし、下総局とも関係出てこないか?楽しみです。
葛原親王系を好んでいるんですけど平氏の中にいるけど源氏に確実にアシストしてるようだし、それがまた北条の女系に入ってるならかなり現実に出会う体験と合わせると辻褄が合いそうに考えます。ただ私は分析ではなく現象分析ですけど。超アバウトで申しわけないです。葛+原なんですけど桓武天皇の因子よりも違う因子ではないかな?とは昔から思ってます。葛ならむしろ葛西氏あたりの祖先がその時代武蔵やもっと東にいなかったのかなあ?なんて探してます、クスが薬・楠・樟(クヌギかと檪こんな字も出てきそう)。近江だったら霊界のお話の丹波さんの祖先あたりが関東と関係していないかな?こちらの記事からの妄想で丹波さんの配役でうわって思った事この前あったんですよ、すぐ忘れちゃうんですが。ちょうど昨日七草粥作ってみたんですけど天然の草の効能とかハーブとか漢方とかとても知識あったとは思うんですよね。葛飾辺りで古代作ってたら面白いんですけどね。奈良で古代のハーブの化石だかが発見されてるんですけどその関係で関東と関西の関連が今年度出てこないかなぁ?
また妄想が先走ってるんで戻すと銅も個人的にかなり関わる所に好んで行くんですよ、記事でまとめて頂き感謝です。で今回え?って思う場所が出てたんですよ、どこだったかな?またあとで確認しておきます。
NHKの大河ではいだてんは本当可哀想でしたけど今は明智光秀だし、なんかセンサーいいというかこっちもかなり流されてます。今武士の時代のがブームですがとにかくややこしい、私は古代で同じような配置や流れを探しておきます。梶+原氏もどうもかわいそうに思っている一族なので情報出てくるといいんですけど。芸人さんの梶原さんは子沢山でいい感じでなんか変化してきてるように思うんですよね。
全く知らない下総局さんがどんな方なのか?楽しみです。東京の各地の伝説では大抵女性を信じて大事にしなかった男性の後悔とか女性が身を投げるとかそんな事ばかりです。世の流れかもしれませんけど、縁の下の力持ちにもみんなが目が行きかけてきているなら本来の実力者の根原(この字みしっちゃおう)がどこにあるかで過去の現実が見えてくるんじゃないかな?ビックネームに隠れた本命が。でちゃんとビックネームがそれを理解していたら多分やる事をやっているでしょうし行動でも見えてくるはず。そこに九里さんいそうですね!
そうだこの前伊賀の事やってましたよ、忍者の知識もこの流れからきてるんじゃないかな?藤堂さんの関わる場所の大きな灯篭や石畳とかが欠けてるんで、直せる方今後継承されるのか?って思ってしまいました。名誉とかお金とか出せる人が凄いんじゃなくて、それが出来る人が凄いんですよね、そこに評価とリスペクトが無いといけないはず。下総局は多分そのリスペクトもあったんでしょうね。その分野はこの人しかできないって人が各地に眠っているなら大至急掘り起こさないと今後の日本が中身が無くなってしまいそうですよね。ただトップがどっかから付けられても武士も職人もそもそものリスペクトがないと動けないはず、ちゃんと動けないままかなりの年月経つと当然劣化しちゃうはずなのでそろそろリスペクト出来る人見つけて動き出したいですよね。
でおまけに足立もありますね。昔足立区探っていて足立山九州にあったのは知っていたんですけどここだったのかなあ?安部山と妙見とは八幡や天祖など完璧にこの辺り関係あると地域ですよ。揃い過ぎてます。
竹芝の事記事でありますね。ミナカタさんの諏訪神社探してみよっかなあと思いました。で和気清麻呂(女系が巫女体質)さんは、道鏡ファンなので若干アンチだったんですけどもしかしたらまた悪名を着せられている可能性ありますよ。愛宕あたりでも神社で薬師も絡んでますし、薬師なんて紹介もありましたからここと嵯峨野の上嵐山の方とも関係ありそうですね。亥でも。今日は鹿が捕まったんでしたっけ?猪と鹿も牛も一緒なのかも?葛原親王のお母さまの系統ですね。昼間はこちらのプログの記事で思い出したのが葛原神社でしたがこれは洗足池のあたりで去年行って彷徨ったあたりでした。大田区の新田神社とはちょっと距離がありましたけどあの辺りも水神さんもどうも関係しそうですよ。多治比氏が東京にいないかな?と。猪だけに風神さんなんですけど、水神さんがいる所にいるのがベストらしいですよ。東北ではセットらしいですので。
太宰府っていうと風やっぱ感じるし、北九州市って良く知らなかったんですけどコロナでなんか調べないといけないなあと。足立と安部と葛原がみすくみですかね?
足と手いるし、水神では移動の水神さんと命繋ぎの水神さんと風神さんが揃い組の場所で妙見ですよ。亀も観音もいそう、聖天もいそうですよ。
コロナで注目される所も逆に過去の事で狙われている事もありそうです。誤解かもしれないもで疱瘡さんには落ち着いて相手をちゃんと見てほしいですよね。
何かやらかした事を直せるのは九里さんだろうなあ?
そうそう葛原親王のお妃さんは神奈川と縁ありそうで新田の方にあった駆け込み寺と同じようなイメージの北鎌倉とも結構近いんですよね。源氏山の葛原岡神社がすきなんですよね。どうも東京も葛原親王女系の関係地がいっぱいありそうです。同族も男系が世に出てくるといいんですけどね、あべ違いの晴明さんに隠されているようにも思うし足立の道満さんにやられているようにも。文殊菩薩に本当に愛されている民族はどこか?葛原さんは多分好かれてそうですよね。薬師如来なら月光日光、そう思うと薬師としての葛原さんを真ん中に月の安部さんと日の道満さんとで三者でいい状態だったのに。誰が邪魔するのか?女には理解出来ない世界なのかもしれませんよね。本当の八幡の意味見えてきそうでうすね。葛原が赤、足立が青か白、安部が黄色かな?
みんな水神さんでもありそうです。