昨日見つけた情報である。
【佐々木・二階堂・伊賀氏のライン】
佐々木頼綱の妻は二階堂行章の娘である。
其の二階堂行章の父は行方、祖父は行政である。
二階堂行政の妻は秦氏である。
父:工藤行遠、母:藤原季兼娘(藤原季範妹)である。
行政の息たち:行村、行光
行村:久寿2年(1155年)、二階堂行政の子として誕生。
行村は文筆の家ながら京で検非違使となったことから山城判官と呼ばれ、鎌倉では侍所の検断奉行(検事兼裁判官)として活躍している。和田合戦では『吾妻鏡』1213年(建暦3年)5月4日条に「山城判官行村奉行たり。行親・忠家これを相副う」とあり、行村が北条方の軍奉行とみて間違いないだろうとされ、『吾妻鏡』の和田合戦の多くは行村が取り纏めた史料によると見られている。
伊勢国益田庄地頭となり、嘉禎4年(1238年)に同地で没した。
行光:長寛2年(1164年)、二階堂行政の子として誕生。兄に行村がいる。
建保6年(1218年)に源実朝が右大臣となるが、『吾妻鏡』12月20日条にはその関連記事として政所始めが記されており、「右京兆並びに当所執事信濃の守行光及び家司文章博士仲章朝臣・・・」と、北条義時[1]の次席で政所の実務官僚の筆頭として登場する。
この時代は源実朝の時代であるが、実権はその母の北条政子にあり、ちょうど朝廷における天皇と院政の関係にも似ている。行光は尼将軍・政子の側近として様々な場面に登場するが、その中でも重要なものが、源実朝が公暁に暗殺された後の『吾妻鏡』承久元年(1219年)2月13日条に「寅の刻、信濃の前司行光上洛す。これ六條宮・冷泉宮両所の間、関東将軍として下向せしめ御うべきの由、禅定二位家申せしめ給うの使節なり。」とあり、政子の使者として朝廷に赴き、その交渉を行っていることである。慈円の『愚管抄』にもその際の行光について記されている。
このときの交渉は、後鳥羽上皇の子を鎌倉の将軍に迎えたいというものであったが、既に北条氏打倒を考えていた後鳥羽上皇に拒絶される。しかしこの時期の鎌倉政権の行政事務、及び朝廷との外交関係実務は行光を中心に動いていたともみられ、『吾妻鏡』のこの時期の記録の多くは行光の筆録、あるいは所持した資料によっていると見られている。
承久元年(1219年)、死去。
行光の後の政所執事は行光の甥の伊賀光宗となったが、光宗が元仁元年(1224年)の伊賀氏の変で流罪となったあと、行光の子・二階堂行盛が就任し、以降この家系がほぼ政所執事を世襲する。
行村の息たち: 基行、行義、行久、行方、惟行
二階堂基行:建久9年(1198年)、二階堂行村の子として誕生。
建保7年(1219年)1月27日、父・行村と共に出家、行阿と名乗った。益田荘地頭となり、暦仁2年/延応元年(1239年)には評定衆となる。仁治元年(1240年)、死去。
二階堂行義:建仁3年(1203年)、二階堂行村の子として誕生。
『吾妻鏡』には嘉禄元年(1225年)12月20日から文永3年(1266年)3月6日まで記載がある。
嘉禎4年/暦仁元年(1238年)、評定衆となる。文永5年(1268年)、死去。享年66と言われている。
二階堂行久:元久2年(1205年)、二階堂行村の子として誕生。寛元元年(1243年)、出家し行日を名乗る。
建長元年(1249年)、評定衆となる。『吾妻鏡』には寛喜2年(1230年)12月9日から弘長3年(1263年)正月18日まで記載がある。文永3年(1267年)、死去。
二階堂行方:建永元年(1206年)、二階堂行村の子として誕生。建長元年(1249年)の引付設置と共に引付衆、建長4年(1252年)、宗尊親王を迎えるために京へ上る。建長5年(1253年)、4番引付頭人、このとき頭人となったのは、北条政村、北条朝直、北条時章と得宗家周辺の北条一門だけであり、実務官僚としての二階堂行方の地位の高さが窺える。正元元年(1259年)9月に評定衆、弘長3年(1263年)7月5日に御所中雑事奉行を中原師連に交替。同年10月8日に出家。『吾妻鏡』の当該時期には敬称としての「和泉前司」の他に「行方」と実名表記されている記事が多数見られること、同様に表記されている者に目上の者が居ないことなどから、この時期の『吾妻鏡』は、二階堂行方の筆録をベースにしていると見られている。文永4年(1267年)、死去。
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二階堂行光の甥が、伊賀光宗であった。
ここが、とても気にかかる。
伊賀光宗の父は伊賀朝光・母が二階堂行政の娘である。行光の姉か妹の子どもと言う訳だ。
二階堂氏の子孫は実務官僚として鎌倉幕府・建武政権・室町幕府に仕え、その所領は日本全国に散在しており、多くの庶子家を輩出した。
理由は秦氏の血縁説が有力であるされる。
工藤維行 工藤維兼の子
工藤行遠 工藤維行の子
二階堂行政 にかいどうゆきまさ 工藤行遠の子 二階堂氏の祖 十三人の合議制の一人
母の兄 藤原季範
生没年:1090-1155
父:藤原季兼 :額田冠者 従四位下 1114-1137 熱田神宮大宮司
妻:(父:源行遠)
範忠
女:
範信(千秋氏へ)
範雅
範綱
範智
長暹
祐範
千秋尼(上西門院女房)
大進局(待賢門院女房)
?-1159 由良御前(源義朝室)
娘(源師経室)
(養子)娘(陸奥守 足利義康室、父:熱田神宮大宮司 藤原範忠)
熱田大宮司季兼
1044-1101 平安時代後期の神職。
寛徳元年生まれ。藤原実範(さねのり)の子。三河(愛知県)にすんで三河四郎大夫と称し,尾張(おわり)の目代(もくだい)となった。熱田大宮司尾張員職(かずもと)の娘とのあいだに季範をもうけた。康和3年10月7日死去。58歳。本姓は藤原。本名は季風。
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藤原実範と小野資通の娘 その息藤原季兼 その季兼の娘由良御前 となる。
一方
季兼の娘(由良御前の姉妹)が、 二階堂行村の母である。
つまり、季兼の娘が行村の母となった。
行村と行光の母とは行政の妻の事である。
行村・行光と伊賀光宗の母とは姉妹である。
伊賀光宗の母は二階堂行政の娘である。
光宗と姉妹である伊賀の方が2代執権・北条義時の後室となる。
くどいのだが…
二階堂行村の息「行方」、そのまた息(行村の孫)が「行章」で、娘が佐々木頼綱の室である。