木曽川の対岸には江戸時代、この木曽地方を支配していた[山村家の代官下屋敷]があります。縁側から木曽駒ケ岳が見えます。山村家は学問の家柄である土師氏の流れの大江一族です。大江一族は平安時代の中古三十六歌仙の大江匡衡(まさひら)、和泉式部などを出し、大江匡衡は尾張の国司として赴任、農業政策に力をいれ、木曽川からの灌漑用排水路を造り、大江用水として残っています。元和一年(1615年)木曽が尾州藩領地になると山村良侯が木曽代官として福島に常駐、他方幕府より福島関所を預けられた幕臣でもありました。
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大江用水と木曽
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齋田家先祖「中原兼遠」は源氏とあるが、本来、中原氏は、平安以来朝廷の実務家として長く続く名家。源氏とは、別姓であった。
親能は、後に藤原姓を名乗る。藤原氏から中原家に養子に入ったと系図の記録もあり、藤原秀郷子孫との伝にも合致する。
兼遠以前の信濃中原家については、殆ど記録がない。信濃中原家に源氏から入った者があったものと思ふ。
兼遠の異母姉妹が大江広元母と伝わるところが、兼遠と親能の関係。
https://plaza.rakuten.co.jp/kd2006/diary/200910110000/
上記の他にも気にかかった所 ↓
1180(治承4)年、義仲が平氏に対して挙兵し、木曽を離れた後は出家して仏門に入ったという。
大蔵合戦の後、斎藤実盛らによって逃がされてきた義仲を二十歳まで木曽で密かに養育した(延慶本)。
義仲の秘匿に不信を持った平家は、兼遠を京へ召し出し義仲を差し出すよう起請文を書かせたが、その命には従わなかった(盛衰記)。その直後、世間をはばかり義仲の後見を信濃豪族・根井幸親に託して物語から姿を消す。
根井小弥太滋野行親 (ねのい の こやた しげの ゆきちか)
中原兼遠より源義仲の後見を頼まれ、挙兵時から参戦。木曽四天王の一人に数えられる。
中原親能について、ニュースに解説が有りましたので、御覧下さい。
田に水を流して濃尾潤えり