推古天皇と称される以前は【額田部皇女】
額田王の薬師寺縁起に書かれている名前は【額田部姫王】
私はまだ調べ始めたばかりで良くはわからないので、
ただ疑問をここに書きとどめておきたい、と思う。
推古天皇が日本の歴史上から消えた628年のあと、善徳女王となって633年より新羅の女王として活躍していたという事ではないのか?ありえないか?(推古天皇=善徳=善徳女王??)
新羅国とはいえ、元は百済国であった部分も含まれている。
善徳女王は「仏教を取り入れた治世や、人材育成と登用の妙で三国統一の礎を築いたことなど、評価されるべき功績は少なくない。」と善徳女王(キム・ヨンヒ著)にある。
この善徳女王のドラマがあったらしいのだが、私は見ていなかった。
毎日見るのは大変そうだが、良いチャンスを逃したような気もする。
百済はそのころ新羅に吸収されているし、其の動乱の中に推古天皇・善徳王女・額田王らがいたことになる。
推古天皇の通詞的役割として共に大和に来たのが聖徳太子ということはないのだろうか?
額田王10代の頃は新羅の武烈王の妻の一人だったとし、中大兄皇子(天智天皇)やその母斉明天皇(宝女王)とともに百済が(すでに伽耶国はなかった)一度滅びた際、またその後新羅が危機の際に渡ってきた人々なのではないだろうか?
文姫に宝姫
確か斉明天皇の付き人として共に居たのが額田王。
どうもこの辺り、何かありそうなのでmemo替わりに留めて置く。
武烈王も日本にいたことがあった!!(wikipediaより)
この時代の新羅は、唐からの遠征を撃退したことで勢いに乗る高句麗と、伽耶地方を80年ぶりに新羅から奪回した百済からの圧迫により疲弊していた。窮した新羅は隣国の支援を求めて、王族の金春秋を高句麗、日本に派遣したが、どちらも成果を挙げることはできなかった。
対日本の場合、大化2年(646年)に日本から遣新羅使として高向玄理が派遣され、新羅から任那への調を廃止させ、新羅から日本に人質を差し出させることとなり[4]、翌大化3年(647年)に高向は春秋を伴って帰国し、春秋は人質という身分で暫く日本に留まった[5]。
翌648年、今度は唐に派遣された金春秋は、対高句麗で思惑の一致する太宗の厚遇を受けた。
「特進」(正二品)の地位を与えられ、支援を得ることに成功した(唐・新羅の同盟)。
翌年、金春秋は唐への恭順を示すため子の金文王を唐に残して帰国し、さらに高宗の永徽元年(650年)からは新羅独自の年号を廃止し、唐の元号を使用するようにした。
646年の武烈王が日本にやって来た時に【額田王】も共にやってきたとか??
斉明天皇(宝女王)の夫は【高向王】となっている。益々関係があるように見える。
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熊津都督府・安東都護府は唐であり、朝鮮半島全域に国は無くなってしまった。
(唐の管理下となった)
そして698年から渤海国ができ、やっと渤海通信使の時代が来る。
わたしは建国時代からやっと空白の4世紀から倭の五王の5世紀の扉を開いたばかりです。その先には6・7世紀の謎が横たわっています。最終的に中大兄の出自を明らかにすれば、古代史は完全解明できます。今のところ敏達天皇の子孫と考えているのですが、どうなのか?どうぞよろしくお願いいたします(#^.^#)
こんなにも、国際的な時代だったとは…と驚いています。
急に外国の言葉の読み書きができるようになるはずもないので、その中間的な役割を持った人が(二世・三世の方とか、育ての親が渡来人であったとか)いたと思います。
そうなると周囲は渡来人や元渡来人に囲まれている感じになり‥‥調べつつ、日本人って言えるのはどのような人だったのか…と、わからなくなってきます。
何度も刮目天一様のブログ記事を読み直さなくては、ですね!