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熊野社領 上総国 畔蒜庄(あびる‐しょう)

2016-08-21 | 佐原氏バラバラ情報

【相模三浦一族とその周辺史: その発祥から江戸期まで】鈴木かほる著 新人物往来社
より、気になる部分をピックアップしてみよう。
上総介広常が頼朝に対し、不遜な態度をしていた・・・と言うあたりに、その箇所はあった。

「上総介と源氏の関係を遡ってみる。頼朝の祖父為義は、熊野別当と深くかかわっていたことから、熊野社領・上総国畔蒜庄(千葉県君津市)の管理のため嫡子下野守義朝(頼朝の父)を下向させたが、この義朝を養公として迎えたのが、譜代の郎党・上総介広常の祖父常春(常時)である。義朝を上総の御曹司と称するのはそのためである。」

まず、畔蒜庄を歴博で調べると、

『文治2地頭職は熊野別当、地下は義兼と領家職は熊野社領か・寛元1畔蒜南北庄領主職=山内首藤清俊←母鶴熊=熊野関係者か・弘安6関東下知状=南庄内亀山郷=北条時頼、将軍家祈祷料所として円覚寺に寄進=和田乱没収地か・応永18』

佐々木秀義の乳父母的存在として山内首藤経俊がいる。清俊は、その経俊の曾孫にあたる。その母=鶴熊。なので孫宗俊の妻が、鶴熊なのであろうか?

東京大学史料編纂所DB


寛元元年7月28日
将 軍 家 政 所 下 散 位 藤原 清 俊 可 令 早 領 知 熊 野 山 領 相 模 国 愛甲預 所 并 下 司 両 職 事 、 右 、 任 母 堂 鶴 熊 今 日 譲 状 、

・・・とあり、1243年に将軍家政所を辞職し、母鶴熊の持っていた相模国愛甲の領主職を安堵されているらしい。

そして、1235年喜禎三年八月十五日の吾妻鑑には、愛甲三郎季隆という人物が見えるので、関係者かもしれない。



「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

畔蒜荘(中世)

鎌倉期から見える荘園名上総国のうち古代畔蒜郡のほぼ全域が荘園化したものと考えられ,広大な荘域の北部は畔蒜北荘,南部は畔蒜南荘とも呼ばれた。

「吾妻鏡」文治2年6月11日条に,「熊野別当(所脱カ)知行上総国畔蒜庄也,而地頭職者,二品令避付于彼人給,於其地下者,上総介・和田太郎義盛引募云処」と見える熊野別当の知行する熊野山領で,地頭職も源頼朝から熊野別当に安堵されたが,「地下」は上総介足利義兼と和田義盛の両名が引き募っていたと伝えるついで,寛元元年7月28日の将軍藤原頼経家政所下文では,「熊野山領相模国愛甲庄・上総国畔蒜南北庄領主職・備中国穂太庄預所并下司職」が,藤原(山内首藤)清俊に譲与されている(毛利文書/県史料県外)当荘領主職を含むこれらの所領は,清俊が母鶴熊から譲られた所領であるが,3か所とも熊野山領であるから,鶴熊は熊野別当の縁につながる者とも考えられる。

前掲「吾妻鏡」では地頭職は熊野別当の知行とするが,「吾妻鏡」の地の文は必ずしも一級史料とはいいがたい点を考慮すれば,熊野別当が知行したのは当荘領主職で,「地下」を引き募ったとされる足利義兼・和田義盛両名が,当荘地頭職を知行していたのではなかろうか。
この史料は当荘が南北に分かれていたことを示しているが,足利義兼・和田義盛が南北を分掌していたとも考えられる。

その後,弘安6年7月日付北条時宗申文・同年7月16日付関東下知状により,「上総国畔蒜南庄内亀山郷」が将軍家御祈祷所として,北条時宗から鎌倉円覚寺に寄進されていたことが知られる(円覚寺文書/県史料県外)なお応安3年2月27日の円覚寺文書目録により,弘安6年6月8日付北条時宗寄進状の存在も確認される(円覚寺文書/相州古文書2)。

これらの史料から畔蒜南荘内亀山郷が,弘安6年以前に北条氏領となっていたことがわかる。」

愛甲庄の方の情報としては、以下のとおりである。


【国名】 相模
【郡名】 愛甲
【荘園名】 愛甲庄
【フリガナ】 アイコウ
【重複コード】
【参考市町村】 厚木市
【市町村コード】 142123
【明治村字名】 愛甲・船子
【史料村郷名】 船子郷・岡田郷・土器作田・愛甲・船子・東野・愛名村
【領家・本家】 熊野山領・室町幕府御料所・鎌倉府料所
【初見年和暦】 寛元元年
【初見年西暦】 1243
【出典】 長府毛利家文書・新編相模風土記・松浦文書・松雲公採集遺編類簒・得田文書・内閣文庫所蔵諸国文書・金沢文庫文書
【遺文番号】 カ6207
【記録類】
【関係文献】 有
【地名辞典】  平凡地名=厚木市愛甲、船子、岡田、愛名などを含む=愛甲熊野社、厚木熊野堂あり、熊野社領=愛甲季隆名字の地、荘園成立期は不明=「愛甲保」との関係も不
【備考】  『地名辞典』追加:=愛甲保との関係も不明、玉川流域・カ6207藤原山内首藤清俊を預所并下司職に補任・領主職=地頭職=愛甲季隆?→清俊母鶴熊→山内首藤清俊→→(鎌倉期)足利氏→(室町期)山内上杉氏・荘園志料=「アユカハ」・平凡地名=「アイキョウ」・金沢文庫文書=「あいきゃうのしやう」・→1505005「愛甲保」参照・貞和2事書=年貢1/3は京進、2/3は御免=鎌倉府管理・『出典』追加:神田孝平氏旧蔵文書(鎌倉市教育委員会)・本郷文書


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