九里 【九里】を探して三千里

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高山右近の高槻城 と 乾大夫のいた茨木の里 との関係

2021-02-27 | 九里【まとめ】

近江の永原が住んでいたのは江辺庄である。(論文 戦国六角氏の支配構造 新谷和之 著)より 図を切り取っております。





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私が調べていた「乾大夫」のいた茨木の里
その摂津島下郡(含む茨木)は高槻城主の高山右近の領地であった。
貧しい人々への支援が人々の心を揺さぶり、領地内の80%の人々がキリシタンとなっていた時期もあったそうである。

さて、其の右近の息であった「忠右衛門」が永原重信三女を妻としていたことが判明し、ますます乾氏と近くなってきた…と思っていた時に、茨木の乾大夫を思い出した。

高槻城と近いなぁと思っていた程度であったが、調べてみると高山右近の領地であった。

図は以下の論文より切り取っております。
キリシタン教会会報 大阪清茨本市千提寺キリシタン、現在に残る集薔構成と出自ー茨木市教育委員 著 井藤暁子









つまり、私の予測ではこの乾大夫は、永原氏と関係のある乾氏で、しかもそのつながりから、もと板垣氏であった乾正信・正行もキリシタンとなり、榧之内十文字の家紋を掲げることとなったのではないか‥‥という事なのである。

元々の板垣氏の家紋は何だったのだろうか?

やはり板垣(乾)正信の時代から、家紋が変わっているようで、正信の祖父板垣信方は地黒花菱(じぐろはなびし)なのである。





https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%9E%A3%E4%BF%A1%E6%96%B9




まだ前野氏とつながっている。

系図の一番下の「乾正士」も後に妻の影響もあってキリシタンとなり、其の娘聟が川瀬徳太郎という人物で、其の川瀬徳太郎の長女の夫が片岡孝であり、但馬の片岡氏で系図をたどると足立氏となり、あの義経の隠れた系(伝説)のことをお書きになっていらした方とつながってくるのである。。。

偶然なのか、もともとつながりのある乾氏と片岡氏であったのか…
ひょっとすると義経の裔の乾氏と義経の家臣だった片岡氏のつながりだろうか?
もしもそうであったなら、壮大な話であろうと思う。

それにしても、なんというつながりなのだろう~~九里氏もこのように判ってくることを願う!!!

http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-adachi-tamba.html


http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-tou-kataoka2.html





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