草野市史第一巻(googlebooks)に、以下のような記載があった。
中原範基は湖南の地に栄えた中原氏の 1 族であろう。ちなみに近江八幡市福寿寺の千
手観音像は、嘉応二年(一一七〇〕中原貞俊が一族の生んだ子供等の長寿を祈念して
造像したものである。熊野神社の熊野本地仏像は、熊野神社左側の本地堂に安置され
...
556 ページ
写 137 熊野神社薬師如来坐像(平井町)である。三所証誠殿(本宮)阿弥陀如来早玉宮(
速玉)薬師如来結宮〖那智)千手観音五所若宮十一面観音掸師宮地蔵菩薩聖宮竜樹児
宮如意輪観音子守宮聖観音四所一万宮,十万宮普賢,文殊勧請十五所釈迦如来飛行 ...
557 ページ
不動明王立像を除いてはすべてが鎌倉時代の造像で、熊野本地仏の彫像として意義
深い。この群像は薬師のみが坐像で、他の諸尊はすべて立像であり、熊野速玉信仰が
中心となって展開する熊野本地仏であることがわかる。社伝によると、熊野神社は建保六年(一ニ
一八)二月二三日に神託を蒙った佐々木信綱が紀伊国熊野より勧請したと伝えられる ...
~~~*~~~
web情報によると、
明細帳によれば創祀年代不詳であるが、社伝によれば建保6年(1218年)佐々木信綱が紀伊熊野権現を勧請したとされ、のち応仁の兵乱により社殿焼亡し、神領も掠められ荒廃したが、天正年中、平井加賀守源基綱が社殿を再建したと伝えられる。
境内に薬師堂・観音堂現存する。明治4年熊野神社と改称し、同9年村社に列す。
『志賀県神社誌』P184
平井氏にも関係があるようである。
~~~*~~~
すでに、熊野別当行範は亡くなっている。ただ、中原範基に「範」の字が使われており、もしかすると関連があるかもしれない。
佐々木信綱の時代、
1242年仁治三年の文書
に「権少外記 中原範基」「大蔵丞 中原俊満」「左衛門尉 中原宗長」の記載がある。
この中原宗長は、どうやら小笠原宗長とは別人のようである。
~~~*~~~
小笠原宗長の方は、1330年に足利高氏にあてた文書が残っている。小笠原宗長は松尾ではないかという説もあるそうである。
妻は、中原行経女という文書がある。
貴重書(原本・古写本類)
【請求記号】
S0671-17
【書名】
小笠原文書
【解 題】
信濃中部の松本地域を中心にして繁栄し、信濃守護職もつとめた小笠原家の文書で、越前勝山小笠原家に伝来したものである。尊氏・義満・義持・義教ら代々の室町将軍の御教書をはじめとして、点数は180余に及ぶ。
~~~*~~~
中原宗長が小笠原宗長と別人だったことを踏まえて、この三人の周辺を探ってみよう!
中原俊満は大蔵丞以外には何も出てこなかった。 中原範基は権少外記・外記・権少外記兼右衛門尉などの職についている。
中原宗長は、春日若宮神主であった中臣祐賢に書状を出している記録が残っている。
宗長は左衛門尉である。
「中臣祐賢記」文永二年二二六五)七月二日.三日条によると、
春日神主の館にて寺僧が起こした刃傷事件に対して、その場でとり押さえられた寺僧は、寺家(別当)の沙汰として、その身柄を公文所に渡され、さらに後に公人の手に渡されている。
…のような事件を取り締まっていたのかもしれない。この二人で検索すると3通の文書が残っている。
~~~*~~~
話は中原氏に行ってしまったが、ココで、【佐々木信綱】に戻そうと思う。
コトバンクによると、
「佐々木信綱
ささきのぶつな
(1180―1242)
鎌倉前期の武将。定綱(さだつな)の四子。母は新田義重(にったよししげ)の女(むすめ)。通称四郎。1200年(正治2)幕命を受け近江柏原(おうみかしわばら)荘(滋賀県米原(まいばら)市)の住人柏原為永(ためなが)を討伐、1205年(元久2)には幕府軍に従い京都守護平賀朝雅(ひらがともまさ)を攻め、左近将監(さこんのしょうげん)に任ぜられた。
1221年(承久3)に承久(じょうきゅう)の乱が起こると、一族の多くが京方についたにもかかわらず、日ごろ鎌倉に居住していた信綱は北条泰時(やすとき)に従い攻め上がり宇治川の合戦で戦功をあげた。
乱後、京方に加わった兄広綱(ひろつな)にかわり近江守護に任ぜられ、1227年(安貞1)佐々木氏の本荘(ほんしょう)である佐々木荘(滋賀県近江八幡(はちまん)市)、堅田(かたた)荘(同大津市)などの地頭職(じとうしき)を与えられた。1234年(文暦1)評定衆(ひょうじょうしゅう)に加わり2年間在職。辞職後にわかに上洛(じょうらく)して出家し虚仮阿(きょかあ)と号し遁世(とんせい)した。[太田順三]
もう一つコトバンクより
「1181‐1242(養和1‐仁治3)
鎌倉前期の武将。法名虚仮。近江源氏佐々木定綱の四男。北条義時の女婿。承久の乱で一族の多くが京方についたが幕府方にたち,宇治川合戦の先陣となる。乱後,兄広綱を斬り,近江守護を継ぎ,佐々木荘,豊浦荘,朽木荘,栗太北郡などの地頭職を獲得,佐々木一族の本宗となった。検非違使,近江守,幕府評定衆を歴任。嘉禎年間(1235‐38)には子高信が延暦寺との間に紛争を起こす。晩年しきりに遁世を願い,1241年(仁治2)高野山に登り翌年没した。
写本ではあるが、佐々木信綱の書いた「虚仮阿弥陀仏寄進状」が東京大学史料編纂所DBで読める。これによると号は【虚仮】で、「阿弥陀仏 寄進状」となるように思う。
中原範基は湖南の地に栄えた中原氏の 1 族であろう。ちなみに近江八幡市福寿寺の千
手観音像は、嘉応二年(一一七〇〕中原貞俊が一族の生んだ子供等の長寿を祈念して
造像したものである。熊野神社の熊野本地仏像は、熊野神社左側の本地堂に安置され
...
556 ページ
写 137 熊野神社薬師如来坐像(平井町)である。三所証誠殿(本宮)阿弥陀如来早玉宮(
速玉)薬師如来結宮〖那智)千手観音五所若宮十一面観音掸師宮地蔵菩薩聖宮竜樹児
宮如意輪観音子守宮聖観音四所一万宮,十万宮普賢,文殊勧請十五所釈迦如来飛行 ...
557 ページ
不動明王立像を除いてはすべてが鎌倉時代の造像で、熊野本地仏の彫像として意義
深い。この群像は薬師のみが坐像で、他の諸尊はすべて立像であり、熊野速玉信仰が
中心となって展開する熊野本地仏であることがわかる。社伝によると、熊野神社は建保六年(一ニ
一八)二月二三日に神託を蒙った佐々木信綱が紀伊国熊野より勧請したと伝えられる ...
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web情報によると、
明細帳によれば創祀年代不詳であるが、社伝によれば建保6年(1218年)佐々木信綱が紀伊熊野権現を勧請したとされ、のち応仁の兵乱により社殿焼亡し、神領も掠められ荒廃したが、天正年中、平井加賀守源基綱が社殿を再建したと伝えられる。
境内に薬師堂・観音堂現存する。明治4年熊野神社と改称し、同9年村社に列す。
『志賀県神社誌』P184
平井氏にも関係があるようである。
~~~*~~~
すでに、熊野別当行範は亡くなっている。ただ、中原範基に「範」の字が使われており、もしかすると関連があるかもしれない。
佐々木信綱の時代、
1242年仁治三年の文書
に「権少外記 中原範基」「大蔵丞 中原俊満」「左衛門尉 中原宗長」の記載がある。
この中原宗長は、どうやら小笠原宗長とは別人のようである。
~~~*~~~
小笠原宗長の方は、1330年に足利高氏にあてた文書が残っている。小笠原宗長は松尾ではないかという説もあるそうである。
妻は、中原行経女という文書がある。
貴重書(原本・古写本類)
【請求記号】
S0671-17
【書名】
小笠原文書
【解 題】
信濃中部の松本地域を中心にして繁栄し、信濃守護職もつとめた小笠原家の文書で、越前勝山小笠原家に伝来したものである。尊氏・義満・義持・義教ら代々の室町将軍の御教書をはじめとして、点数は180余に及ぶ。
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中原宗長が小笠原宗長と別人だったことを踏まえて、この三人の周辺を探ってみよう!
中原俊満は大蔵丞以外には何も出てこなかった。 中原範基は権少外記・外記・権少外記兼右衛門尉などの職についている。
中原宗長は、春日若宮神主であった中臣祐賢に書状を出している記録が残っている。
宗長は左衛門尉である。
「中臣祐賢記」文永二年二二六五)七月二日.三日条によると、
春日神主の館にて寺僧が起こした刃傷事件に対して、その場でとり押さえられた寺僧は、寺家(別当)の沙汰として、その身柄を公文所に渡され、さらに後に公人の手に渡されている。
…のような事件を取り締まっていたのかもしれない。この二人で検索すると3通の文書が残っている。
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話は中原氏に行ってしまったが、ココで、【佐々木信綱】に戻そうと思う。
コトバンクによると、
「佐々木信綱
ささきのぶつな
(1180―1242)
鎌倉前期の武将。定綱(さだつな)の四子。母は新田義重(にったよししげ)の女(むすめ)。通称四郎。1200年(正治2)幕命を受け近江柏原(おうみかしわばら)荘(滋賀県米原(まいばら)市)の住人柏原為永(ためなが)を討伐、1205年(元久2)には幕府軍に従い京都守護平賀朝雅(ひらがともまさ)を攻め、左近将監(さこんのしょうげん)に任ぜられた。
1221年(承久3)に承久(じょうきゅう)の乱が起こると、一族の多くが京方についたにもかかわらず、日ごろ鎌倉に居住していた信綱は北条泰時(やすとき)に従い攻め上がり宇治川の合戦で戦功をあげた。
乱後、京方に加わった兄広綱(ひろつな)にかわり近江守護に任ぜられ、1227年(安貞1)佐々木氏の本荘(ほんしょう)である佐々木荘(滋賀県近江八幡(はちまん)市)、堅田(かたた)荘(同大津市)などの地頭職(じとうしき)を与えられた。1234年(文暦1)評定衆(ひょうじょうしゅう)に加わり2年間在職。辞職後にわかに上洛(じょうらく)して出家し虚仮阿(きょかあ)と号し遁世(とんせい)した。[太田順三]
もう一つコトバンクより
「1181‐1242(養和1‐仁治3)
鎌倉前期の武将。法名虚仮。近江源氏佐々木定綱の四男。北条義時の女婿。承久の乱で一族の多くが京方についたが幕府方にたち,宇治川合戦の先陣となる。乱後,兄広綱を斬り,近江守護を継ぎ,佐々木荘,豊浦荘,朽木荘,栗太北郡などの地頭職を獲得,佐々木一族の本宗となった。検非違使,近江守,幕府評定衆を歴任。嘉禎年間(1235‐38)には子高信が延暦寺との間に紛争を起こす。晩年しきりに遁世を願い,1241年(仁治2)高野山に登り翌年没した。
写本ではあるが、佐々木信綱の書いた「虚仮阿弥陀仏寄進状」が東京大学史料編纂所DBで読める。これによると号は【虚仮】で、「阿弥陀仏 寄進状」となるように思う。