井口氏の祖は藤原利仁である。
wikipediaから繙くと、『次男の藤原叙用が斎宮頭となり、斎藤氏の祖となる。その孫の代では忠頼が加賀介となり、加賀斎藤氏、弘岡斎藤氏、牧野氏の祖となり、加賀斎藤氏から堀氏、弘岡斎藤氏から富樫氏、林氏が出る。叙用の孫為時の家系からは吉田氏、前田氏、尚忠から吉原斎藤氏、河合斎藤氏、美濃斎藤氏が出たほか、重光から加藤氏、遠山氏が出る。また、一女は藤原秀郷の孫にあたる藤原文脩の室となり文行、兼光らの母となった。』となる。
越中の宮崎氏の祖が井口三郎光義であることが分かり、宮崎太郎の登場となる。
宮崎太郎の孫に【宮崎定範】がいる。
同じ名前の人物が、和歌山県有田郡誌にも載っていたので、別人かも知れないが調べてみたので、ここに書き留めておきたい。
・・・和歌山 有田郡誌・・・
弘仁年間今の安諦、八幡、城山、五の四村は高野山の領となり、其他の地方も亦親王郷相若しくは社寺の田荘多かりしことは、仁寿四年の真済大徳が在田郡に於いて新田、宅地、及び畠智を買得せる古券なるものを見るも明らかなり。
・・・
正暦の前後各荘は大部分中納言平惟仲の所領に帰し、荘毎に覚荘司を置かれたりしが如し。その後応徳三年尚侍藤原氏宮崎荘(古文書には宮前荘とあり)の全部を那智山に施入し、同年広荘の内」、十三町五段の地、亦那智の神漁となりしこと那智山の文書に見ゆ。
爾来宮崎荘は八十余年の間那智の神領たりしが、嘉応元年に至りて田辺別当湛全の弟、左衛門尉定範城を野村に築き、宮崎氏と称して世々この地を領す。
康和年中湯浅に藤原宗永なるものあり。その子、宗重 康治天養の頃、岩崎谷に城を構え、後湯浅の東に移して之に拠り、湯浅権守と称して勇名近隣に高し。
保元の頃終りに保田、山保田、田殿、藤並、石垣の諸荘を併領し、広も亦共有となりしが、文治二年京都蓮華王院の領となれり。
・・・
wikipediaから繙くと、『次男の藤原叙用が斎宮頭となり、斎藤氏の祖となる。その孫の代では忠頼が加賀介となり、加賀斎藤氏、弘岡斎藤氏、牧野氏の祖となり、加賀斎藤氏から堀氏、弘岡斎藤氏から富樫氏、林氏が出る。叙用の孫為時の家系からは吉田氏、前田氏、尚忠から吉原斎藤氏、河合斎藤氏、美濃斎藤氏が出たほか、重光から加藤氏、遠山氏が出る。また、一女は藤原秀郷の孫にあたる藤原文脩の室となり文行、兼光らの母となった。』となる。
越中の宮崎氏の祖が井口三郎光義であることが分かり、宮崎太郎の登場となる。
宮崎太郎の孫に【宮崎定範】がいる。
同じ名前の人物が、和歌山県有田郡誌にも載っていたので、別人かも知れないが調べてみたので、ここに書き留めておきたい。
・・・和歌山 有田郡誌・・・
弘仁年間今の安諦、八幡、城山、五の四村は高野山の領となり、其他の地方も亦親王郷相若しくは社寺の田荘多かりしことは、仁寿四年の真済大徳が在田郡に於いて新田、宅地、及び畠智を買得せる古券なるものを見るも明らかなり。
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正暦の前後各荘は大部分中納言平惟仲の所領に帰し、荘毎に覚荘司を置かれたりしが如し。その後応徳三年尚侍藤原氏宮崎荘(古文書には宮前荘とあり)の全部を那智山に施入し、同年広荘の内」、十三町五段の地、亦那智の神漁となりしこと那智山の文書に見ゆ。
爾来宮崎荘は八十余年の間那智の神領たりしが、嘉応元年に至りて田辺別当湛全の弟、左衛門尉定範城を野村に築き、宮崎氏と称して世々この地を領す。
康和年中湯浅に藤原宗永なるものあり。その子、宗重 康治天養の頃、岩崎谷に城を構え、後湯浅の東に移して之に拠り、湯浅権守と称して勇名近隣に高し。
保元の頃終りに保田、山保田、田殿、藤並、石垣の諸荘を併領し、広も亦共有となりしが、文治二年京都蓮華王院の領となれり。
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