九里(くのり)という苗字を探していて、素敵な人に出会うことがあります。
【五代友厚】政商と呼ばれ、大阪経済界の重鎮と言われた方ですが、若かりしときには無断で留学したり、かなり無茶をしている魅力的な方です。
フルベッキの写真ご存知でしょうか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/グイド・フルベッキ#mediaviewer/File:Verbeck_picture.jpg
後列六番目口を「へ」の字に曲げているのが五代友厚!
日本の未来を見据え、考え、実行の中途に病に倒れて亡くなりましたが、その功績は大きいと思います。
【五代龍作】は…というと、あまりご存知ない方もいらっしゃるのではないかと。
五代龍作となる前の名前は、『九里龍作』
その前は、高須という苗字だったらしいのですが、母が九里から嫁に入っていたのか、叔父という人が【九里】でした。
大坂の叔父『九里正三朗』の養子になります。(庄三郎と書いてあるものもあります)
龍作は、和歌山県の熊野那智神社と関係のある家だそうです。
幼い時より、他の子どもと違い、静かに深く考えるような ~ そんな子供であったそうです。
ソコを見込んで、大坂の叔父が是非養子にと迎えました。
関係書を読んだところ、九里正三朗はみかんで大儲けをした『紀伊国屋文左衛門』の番頭を務め、ある時に独立し、大坂で両替商を営んでいたそうです。
「紀ノ庄」という名前であったのでは…と言われております。
五代友厚の家にも出入りをしていたそうで、かなり羽振りが良かったそうです。
そこで見込まれたのか、五代より造幣局を大阪に造る計画を打ち明けられ、相談を持ちかけられます。
そこで、金銭面・土地提供の協力をすることになります。
無事に造幣局は出来ましたが、九里正三朗自身は株で大失敗をしてしまいます。
そのころ龍作は東京大学に通っており、五代友厚は父親の代わりに大学や生活にかかるお金を出してやります。
正岡子規率いるベースボールにも参加して興じたりという記録も残っております。
そのころ大坂の造幣局では、英国より取り寄せた機械が上手く動かず、原因を探り機械を無事に動かす爲もあって、それには龍作が適任者であるということになります。
緊急に大学へ行っていた龍作を呼び寄せ、英国に留学させます。
留学を終え、無事に機械も動かすことができ、龍作は東京大学の助教授になります。(その後教授へ)
そして、軌道に乗り始めた矢先、五代友厚が亡くなります。
遺言は、もし本人たちが嫌でなければ、長女武子の婿になってくれ…ということでした。
武子と結婚をし、五代友厚の事業を引き継ぎます。
ところが、当時で100万円という借金が残っておりました。
なぜなら、事業の道半ばで、まだ結果が出ていないものが多かったからなのです。
五代龍作となった龍作は、死に物狂いで、まず鉱山の経営に力を注ぎます。
それからは、ずっとずっと返済をし続けるのです。
この龍作氏、実は東京大学時代の友人が、嘉納治五郎~~!
寮か下宿が同じだったため、いつも治五郎の柔道の技の掛け合いにつき合わされ、「柔道」というものが出来上がるためにも貢献した人なのです。
なんと、龍作の方も続けていれば相当の腕前になったろう~とまで嘉納治五郎に言われております。
また、大垣藩士の息子で「野村龍太郎」という人、「原龍太」という人と、三人で、東京大学の「三龍」と呼ばれていたそうです。
この大垣出身の野村氏とは、東京から大垣を通って大坂に帰るため、二人でお互いの家に泊まって旅しながら帰省したようで、話が残されています。
大井川でうら若き二人の女性と出会って、前後しながら歩いた話など、ほほえましいです。
このような人に出会えると、なんだか嬉しい~~♪
私は音楽分野にいて、なんと高校時代も音楽史で、日本史を習っていなかったらしいのです。(記憶なし!)
友人が日本史はなかったと言っておりますので、事実でしょう。
九里を調べ始めなかったら、日本の歴史を知らぬままだったに違いありません。 ありがとうご先祖様~~♪
【五代友厚】政商と呼ばれ、大阪経済界の重鎮と言われた方ですが、若かりしときには無断で留学したり、かなり無茶をしている魅力的な方です。
フルベッキの写真ご存知でしょうか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/グイド・フルベッキ#mediaviewer/File:Verbeck_picture.jpg
後列六番目口を「へ」の字に曲げているのが五代友厚!
日本の未来を見据え、考え、実行の中途に病に倒れて亡くなりましたが、その功績は大きいと思います。
【五代龍作】は…というと、あまりご存知ない方もいらっしゃるのではないかと。
五代龍作となる前の名前は、『九里龍作』
その前は、高須という苗字だったらしいのですが、母が九里から嫁に入っていたのか、叔父という人が【九里】でした。
大坂の叔父『九里正三朗』の養子になります。(庄三郎と書いてあるものもあります)
龍作は、和歌山県の熊野那智神社と関係のある家だそうです。
幼い時より、他の子どもと違い、静かに深く考えるような ~ そんな子供であったそうです。
ソコを見込んで、大坂の叔父が是非養子にと迎えました。
関係書を読んだところ、九里正三朗はみかんで大儲けをした『紀伊国屋文左衛門』の番頭を務め、ある時に独立し、大坂で両替商を営んでいたそうです。
「紀ノ庄」という名前であったのでは…と言われております。
五代友厚の家にも出入りをしていたそうで、かなり羽振りが良かったそうです。
そこで見込まれたのか、五代より造幣局を大阪に造る計画を打ち明けられ、相談を持ちかけられます。
そこで、金銭面・土地提供の協力をすることになります。
無事に造幣局は出来ましたが、九里正三朗自身は株で大失敗をしてしまいます。
そのころ龍作は東京大学に通っており、五代友厚は父親の代わりに大学や生活にかかるお金を出してやります。
正岡子規率いるベースボールにも参加して興じたりという記録も残っております。
そのころ大坂の造幣局では、英国より取り寄せた機械が上手く動かず、原因を探り機械を無事に動かす爲もあって、それには龍作が適任者であるということになります。
緊急に大学へ行っていた龍作を呼び寄せ、英国に留学させます。
留学を終え、無事に機械も動かすことができ、龍作は東京大学の助教授になります。(その後教授へ)
そして、軌道に乗り始めた矢先、五代友厚が亡くなります。
遺言は、もし本人たちが嫌でなければ、長女武子の婿になってくれ…ということでした。
武子と結婚をし、五代友厚の事業を引き継ぎます。
ところが、当時で100万円という借金が残っておりました。
なぜなら、事業の道半ばで、まだ結果が出ていないものが多かったからなのです。
五代龍作となった龍作は、死に物狂いで、まず鉱山の経営に力を注ぎます。
それからは、ずっとずっと返済をし続けるのです。
この龍作氏、実は東京大学時代の友人が、嘉納治五郎~~!
寮か下宿が同じだったため、いつも治五郎の柔道の技の掛け合いにつき合わされ、「柔道」というものが出来上がるためにも貢献した人なのです。
なんと、龍作の方も続けていれば相当の腕前になったろう~とまで嘉納治五郎に言われております。
また、大垣藩士の息子で「野村龍太郎」という人、「原龍太」という人と、三人で、東京大学の「三龍」と呼ばれていたそうです。
この大垣出身の野村氏とは、東京から大垣を通って大坂に帰るため、二人でお互いの家に泊まって旅しながら帰省したようで、話が残されています。
大井川でうら若き二人の女性と出会って、前後しながら歩いた話など、ほほえましいです。
このような人に出会えると、なんだか嬉しい~~♪
私は音楽分野にいて、なんと高校時代も音楽史で、日本史を習っていなかったらしいのです。(記憶なし!)
友人が日本史はなかったと言っておりますので、事実でしょう。
九里を調べ始めなかったら、日本の歴史を知らぬままだったに違いありません。 ありがとうご先祖様~~♪