永田時信 周辺の系図
「下総房」ではなく、「下総局」だったのではないだろうか? その疑問を探ろうと思う。
そうすると、息子(もしくは甥)が【本郷進士刑部允頼忠(善願)】となり、後に本郷城が久里城になったとしても自然! この頼忠は常忍の兄弟という事になる。
丹生二郎隆清 ↓
【隆清の遠縁にあたる平時信は,若狭国鎮守一二宮社務代々系図(若狭彦神社文書/小浜市史社寺文書編)に「平大納言時忠卿従兄弟下野守師季之孫永田太郎時信」とあり,】
平師季は父師妙と、略奪したり放火したりなのだが、平時忠の従兄弟(この従兄弟は永田にかかっている言葉とみた場合)が永田時信となる。
時忠の母と平時子(二位尼)の母は同じである。
永田時信と従兄弟と云うからには時忠の父平時信の兄弟姉妹の息ということになろうか?
富木蓮忍・常忍は因幡国では岡益の碑と安徳天皇陵のすぐ近くに住んでいたこともあり、そこがまず気になる点である。
で、系図の時信の次にある「下総房」が、「下総局」で蓮忍入道の妻か姉妹で、常忍の母親となる人物ではないだろうか?と、今朝思いついた。(もしかすると妻の姉妹かもしれない。)
「房」「局」
図書館のレファレンスに以下の情報があった。
【1093年(寛治7)、出羽国で平師妙(もろたえ)、その子師季(もろすえ)が、出羽守信明(藤原氏か)が上洛しようとした隙をねらい、その館をおそって放火し、財宝をことごとく奪い去るという事件がおこった。
(中略)
かれらは前九年の役に安倍氏の武将として勇戦し、『陸奥話記』に(中略)伝えられた平国妙の子であろう。奥州藤原氏の始祖清衡の実父藤原経清(つねきよ)は、国妙の外甥と『陸奥話記』にあるから、藤原清衡と平師妙とは遠縁にあたる」「賊の首および降人らは前九年の役の先例にしたがって京都におくられ、検非違使に引き渡されたが、その日のありさまを詳しくかきとめた『中右記』によると(後略・引用記載)」との記載あり。・・・】
【『中右記』に、寛治8年(1094)3月に陸奥守源義綱が、出羽守信明の館を襲撃してこれを焼き財宝を奪った賊平師妙・師季父子の首と、一味の降人貞宗・貞房等を捕えて都に入る、という記述がある。(中略)国守の館を襲った平師妙は、前九年の役の際源頼義の武将で「平不負(へいたいふ)といわれた出羽国人平国妙の子ではないかといわれている」との記載あり。】
【寛治7年(1093年)、平師妙・師季親子が出羽守・源信明の館を攻め、翌嘉保元年(1094年)、陸奥守・源義綱の郎党により鎮圧されたが、『中右記』によると、前年の寛治6年(1092年)6月には陸奥守・藤原基家の解文により、経清の子・藤原清衡に合戦の企ての嫌疑がかけられていることから、両者を関連づけ、この師妙親子を清衡の大伯叔父である国妙の子及び孫ではないかとする見解がある。 】(wikipedia)
この平国妙の姉か妹が藤原頼遠の室となる。(藤原秀郷流との接点)
藤原頼遠は「下総住人・五郎太大夫」だそうである。(藤原経清の父)
経清の息はあの奥州藤原の藤原清衡となる。
twitter情報では「【平国妙】平安期の出羽国の武将。散位大夫。字は平大夫。武勇の誉れ高く、常勝の武将として「平不負」と称した。天喜五年、源頼義殿に属し黄海合戦に参戦。敵軍の捕虜となるが、外甥藤原経清殿の嘆願により一命を取り留められた。奥州藤原氏の初代清衡殿の大伯叔父。」
千葉氏一族のHP(三浦氏)では【頼義の郎党。出羽国人。武勇あふれる人物で善戦し、敗北知らずであった。そのため、俗に平不負、字を平大夫と呼ばれた。しかし、黄海合戦で馬が斃されて捕らえられ虜となった。そのとき、敵将で婿の藤原経清(奥州藤原氏祖)によって助けられた。「武士猶以為耻矣」とされた。】
拾い集めたヒントは 以下である。
天喜五年1057年
藤原秀郷-千晴-千清-正頼-頼遠-経清-清衡-基衡-秀衡-泰衡
景継母ハ本郷重代公文掃部丞藤原守綱二女也。
時信は師季の兄弟の曾孫(ないしは孫)に当たる人で、このころこの国の東郷となにかのかかわりをもっていたとも考えられる。同じ年、若狭国は鳥羽院の分国になって ... 寡婦となった妻小槻氏は、隆清の遠縁にある「東殿」平時信をたより土着した。
和田平井実家
源頼義
平直方
久利氏(清原定隆は石見守・小野吉柯は石見・伊豆守)
大江親広・広時・政広・元顕(寒河江)
もう一度組み直していこうと思う。