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葛原親王から数えて九代の孫の年代は、千葉常胤の時代になるのだろうか?

2023-01-20 | 九里【只今の状況・まとめ】

史料を読み解く - 第 2 巻 - 28 ページ 森下徹, ‎吉田伸之 共著

『もともと原氏は、下伊那郡小松原に居住した葛原親王九代の孫上総次郎兼久を祖とし、地名により原姓を名乗ったという。次代の盛吉の子が早世したため、上総国千葉常胤の六男常吉を養子として迎え、小松原を所領としたが、その五代のちの与九郎胤勝が浪合に・・・ 』

この部分、気になります。

 

葛原親王九代の孫の上総次郎兼久 盛吉

千葉常胤の六男 常吉

 

アバウトに考えると、

葛原親王(786-853年)の九代孫は、年代は本人を勘定に入れて十代で250年位後と仮定する。

1036年。

1010年あたりから1050年あたりまでにこの上総介次郎兼久が居たとして、1045年生まれの【平常兼】も次郎である。

其の養子か孫養子に常吉がいるはずである。

 

因みに千葉常胤は1118年生ー1201年没である。

葛原親王の九代孫の時代と千葉常胤の時代はズレていると思う。

 

常兼の弟に原頼常がいる。その息に常吉がいたのではないだろうか?

(常吉は常義とも読めるかもしれない。)

 

系図によっては原頼常の記載が無く、平常長の息に【原四郎常宗】が見える。

 

wikipediaにも記載があった。 ↓

原氏 (千葉氏族)

平常長の四男平頼常が、下総国香取郡千田庄原郷(現在の千葉県香取郡多古町)を領して「原」を氏としたのにはじまるという[1][注 1]頼常には子が無かったので、兄である鴨根常房の息子である常宗が養嗣子として継ぐことになった[要出典]。この系統からは原氏のほか、飯竹氏岩部氏仁戸田氏大原氏佐野氏鞍持氏牛尾氏が出ている[3]

 

下総国香取郡原郷 千葉県香取郡多古町原 上総氏流。
千葉氏流→千葉介の筆頭家老となる。

 

原頼常ー常宗(実・鴨根常房息)もしくは、

頼常の記載なく、常長の息に常宗がいる系図もある。

 

https://chibasi.net/hara.htm

千葉氏のHPより ↓

時代は下って治承4(1180)年9月、伊豆で反平家の兵を挙げた源頼朝が敗れて房総半島に逃れ、平家党の千田庄の判官代藤原親正(親雅。匝瑳北条内山館に在住)が西へ急行した。このとき、藤原親正は千田庄周辺の下総平氏一族にも出兵を命じ、「鴨根の三郎常房の孫、原の十郎太夫常継、同じく子息の平次常朝、同じく五郎太夫清常、同じく六郎常直、従夫の金原の庄司常能、同じく子息金原の五郎守常、粟飯原の細五郎家常の子息権太元常、同じく次郎顕常等」が親正とともに出陣したという(『源平闘諍録』)

 

常宗(原四郎)ー常継(原十郎) ー常朝(原平次)・清常(五郎)・常直(六郎) が実在していたようである。

粟飯原氏は平常長の子孫である鴨根氏の末裔とされ、香取郡海上郡に所領を持っていたが、粟飯原常光の代で断絶したために貞胤の弟の氏光が家督を継いだという[1]

 

此の金原の庄司には【常義】がいることもmemoしておこう。

他にも出てくる。千田荘金原郷

 

日蓮関係では、金原法橋浄蓮房 ↓

http://www.myoukakuji.com/html/telling/benkyonoto/index130.htm

富木氏・大田・秋元氏とは通家(つうけ)であるとあります。この通家とは昔から親しく交わってきた家、姻戚関係にある家をさします。また、教信は大田氏とともに、越中に所領を有する幕府の役人であり、大田氏もまた曽谷に大田屋敷と称される飛地をもっていたといいます。日蓮聖人は『転重軽受法門』に、大田、曽谷、金原氏は異体同心の兄弟のように親しい関係であるとみています。とくに、本書は竜口法難のあと、佐渡に流罪されるまで滞在していた依知から発信されたものです。

「周利槃特と申は兄弟二人なり。一人もありしかば、すりはんどくと申なり。各々三人は又かくのごとし。一人来せ給へば三人と存候なり。(中略)大田左衛門尉殿 蘇谷入道殿 金原法橋御房   御返事」(五〇七頁)

曽谷氏は文応元年に富木氏が自邸に法華堂をつくり、日蓮聖人を招いて百日説法をしたとき、この教えを聞いて旧宗を捨てて帰信したといいます。このとき、秋元氏も入信したといいます。また、医者といわれる遠州の金原法橋も参列して入信したといいます。

 

金原法橋

 一説には、金原(かなはら)法橋は、房総の千葉氏の一族で、下総国千田(ちだ)庄金原郷(匝瑳市金原)の在地領主であったといいます。金原郷には安久山堂という寺院があり、のちに、日蓮宗となります。(八日市場市の安久山円静寺です)。そのときの住職が金原氏惣領の覚諭です。当寺の歴代は日諭・常諭・覚諭とつづき(円静寺板本尊)、この日諭の頃がちょうど日蓮聖人在世にあたることから、金原法橋と日諭とは同一人物といいます。(中尾尭著『日蓮聖宗の成立と展開』四四頁)

      (三郎)(庄司)(金原庄司)(庄司)(次郎)(金原法橋)(金原左衛門尉)

千葉常長―常房―常益――金原常義――盛常―清胤――明円―――胤長

 (『房総叢書』)

(略)

金原法橋は曽谷氏と兄弟といいます(『妙恩寺史』)。(略)

一説には、中山の百日百座の説法のおりに、日蓮聖人にであい入信したといいます。金原法橋左近将監はこのとき所用のため鎌倉にでており、平賀有国と旧友のため下総にきていたといいます。金原法橋は浜松市の妙恩寺の開基となっています。妙恩寺の『寺史』によると、金原法橋は大野政清の子であり、かって、下総国金原大宮の別頭職にあったが、鎌倉幕府に抜擢され遠州に移り、蒲の地を領主の遠藤氏より継ぐとあります。また、金原法橋法橋は宗祖直檀にして浄蓮と号して『浄蓮房御書』・『転重軽受法門』などを、大田氏、曾谷氏とともに賜った篤信家であったとあります。

 

******

富木氏ともつながってきた!

近いところに原氏はいるのだ。

 

富木常忍・曽谷教信・大田乗明・金原法橋 このブログでは初めて4人顔を合わせたことになる。

此の金原氏が千田荘内の原郷・金原郷と関係があり、従夫金原の庄司常能】の関係者という事であるならば、千田常益の息金原常義は後に原氏になった系に養子に入った常吉(常義)である可能性もあると思う。

 

千葉氏HP 円城寺氏

https://chibasi.net/enjouji.htm


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