九里 【九里】を探して三千里

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三左衛門事件 後藤基清、中原政経、小野義成 

2018-06-19 | 中原氏バラバラ情報

https://www.weblio.jp/wkpja/content/%E4%B8%89%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6_%E4%B8%89%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%81%AE%E6%A6%82%E8%A6%81

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E9%AB%98%E8%83%BD


この三左衛門が襲撃を企てたのは源通親に対してである。(大江広元の息親広の養父である。)

後藤基清 ごとう-もときよ

?-1221 鎌倉時代の武将。
佐藤中清の子。後藤実基の養子。源頼朝につかえ,平氏追討に活躍して讃岐(さぬき)守護となる。正治(しょうじ)元年中原政経らと源通親襲撃をはかり,流罪。のち,ゆるされて検非違使(けびいし)をつとめ,また播磨(はりま)守護となった。承久(じょうきゅう)の乱で後鳥羽(ごとば)上皇側について捕らえられ,承久3年7月2日子の基綱にきられた。

鎌倉前期の武将。実父は藤原秀郷の子孫の内舎人佐藤仲清,養父は同族の兵衛尉後藤実基。官位は従五位上,検非違使・左衛門少尉に昇った。源平の争乱では源氏方に参じ,屋島の戦(1185)では養父と共に屋島内裏を焼く戦功を挙げ,讃岐国の守護に任じられる。源頼朝の許しを得ずに兵衛尉に任官し,一時鎌倉への出仕を停止される。その後許され,おもに京にあって京都守護一条能保を助けて活躍。正治1(1199)年,中原政経,小野義成と源通親襲撃を企て流罪。通親死後に許され再び京にあり,後鳥羽上皇に近侍するようになる。承久の乱(1221)に際しては京方につき,鎌倉方の子息基綱によって斬首された。(本郷和人)

鎌倉前期の武士。佐藤仲清の子。後藤実基の養子。左衛門尉,検非違使に任じ,在京御家人として,1196年(建久7)平知盛の子知忠の謀叛を鎮定し,1218年(建保6)には伊勢平氏余流の平正重の反乱をおさえた。讃岐守護にも任じたが,1199年(正治1)将軍源頼家によって罷免された。また建保~承久のころ播磨守護に任じたが,承久の乱に朝廷軍に与同し刑死した。【小田 雄三】



中原政経(読み)なかはらのまさつね

生年:生没年不詳
鎌倉初期の官人。後鳥羽天皇治世下で後院庁預を務め,建久9(1198)年,同天皇の譲位とともに院庁の年預主典代となる。官は左衛門少尉。一条能保に仕えていたといわれ,同じくその郎等であった後藤基清,小野義成と共に正治1(1199)年に乱を企てたとして捕らえられ,失脚した。

私:東京大学史料編纂所のデータベースでは、「主典代 中原政経」と残っている。
論文も面白かった。が、やはり中原政経に関してわかっていることは少ないようだ。
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/624/624PDF/siohara.pdf

小野義成 おの-よしなり

?-1208 鎌倉時代の武将。
小野成綱の子。弓術にひいで,建久3年の的始(まとはじめ)では射手をつとめた。10年源通親(みちちか)の襲撃をくわだてたが捕らえられ,配流(はいる)された。のちに放免され,建永元年延暦寺堂衆の蜂起(ほうき)のときは,院御所を警備した。承元(しょうげん)2年閏(うるう)4月3日死去。通称は野三左衛門尉,小野大夫判官。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
朝日日本歴史人物事典の解説
小野義成
没年:承元2.閏4.3(1208.5.19)
生年:生年不詳
鎌倉前期,京都における源頼朝の代官として勢威をふるった一条能保,高能父子の郎等といわれる。正治1(1199)年2月,頼朝急逝後に同じく一条家の家人後藤基清,中原政経と共に京都政界の実力者源通親襲撃を企てて失敗。鎌倉に送られ配流された(三左衛門の乱)。この際,宰相中将西園寺公経,右中将持明院保家,左馬頭源隆保らが出仕を停止させられ,文覚が検非違使に預けられるなど一条家の縁者や頼朝関係者の処罰が相次いだ。しかし義成はまもなく許されたらしく,子の成時と共に後鳥羽上皇に仕え院御所の警固や謀反人討伐などに当たっている。京で没した。<参考文献>橋本義彦『源通親』(美川圭)

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この政経はどこに配流されたのだろう。

その後はどのようになったのか。




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