建武2年8月2日(1335年)
関東申次の役目を預かっていた西園寺家は鎌倉幕府の滅亡で役職を停止された(ただし、大叔母禧子との関係から間もなく権大納言に復帰している)。
建武元年(1334年)に公宗は地位の回復を図って幕府滅亡後の北条氏残党らと連絡し、北条高時の弟である泰家を匿っていた。
2人は後醍醐天皇を西園寺家の山荘(後の鹿苑寺)に招いて暗殺し、後伏見法皇を擁立して新帝を即位させることで新政を覆そうと謀略した。
だが、異母弟の公重の密告で計画が発覚し、日野氏光(資名の子で、公宗の義兄弟にあたる)らとともに逮捕され、出雲国へ配流される途中に名和長年に処刑された。
西園寺と日野は義理の兄弟〔妻が日野名子(日野資名の娘)〕で、三善は西園寺家の家司だったのではないだろうか?