九里 【九里】を探して三千里

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日野家と法界寺

2018-01-13 | 日野氏
藤原有国橘仲遠の娘である徳子の息子が資業(すけなり)である。
その資業が出家した。法名素舜。日野山庄に隠居し、延久2年(1070年)8月24日[1]薨去。享年83。日野法界寺薬師堂を建立した。(wikipedia)

法界寺(ほうかいじ)は、京都市伏見区日野にある真言宗醍醐派別格本山の寺院。山号を東光山と称する。本尊は薬師如来(秘仏)、開基は伝教大師最澄とされている。藤原氏の一族である日野家の氏寺で、「日野薬師」あるいは「乳薬師」の別名で知られる薬師信仰の寺であるとともに、国宝の阿弥陀堂と阿弥陀如来像を有することでも知られる。(wikipedia)

その資業の次男実綱。実綱の三男有信、四男有定(有房)。
有信の長男が実行で、資業の曾孫となる。
実行の次男が資長で、母親は高階重仲の娘である。

資長から4代目が資宣で、その息俊光となる。俊光の母は「賀茂能継の娘」である。
この賀茂能継は見たことのある名前である。

http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/04fb4b8e4243192c72e25baca2991d0b

上記の系図は崩れかけているのでメモを書いておこう。
仕実ー忠頼ー成真ー成助ー成繼ー成久ー保久ー資保ー能久ー能継…娘が日野に嫁ぐ。

能久~氏久‐久世―五男経久

この能久のコトバンク

1171-1223 鎌倉時代の神職。
承安(じょうあん)元年生まれ。賀茂資保の子。上賀茂神社の権禰宜(ごんのねぎ)から建保(けんぽ)2年(1214)神主職となる。後鳥羽(ごとば)上皇の近臣で,承久(じょうきゅう)の乱では幕府軍とたたかった。このため六波羅(ろくはら)に捕らえられ,太宰府に流罪となった。貞応(じょうおう)2年6月10日死去。53歳。

○承久の乱後神主賀茂能久の所領没収せらる(史料纂集古文書編 第22回配本 賀茂別雷神社文書1)

「足利義澄」の正室は日野富子の姪にあたる日野阿子(富子の兄弟である僧永俊の娘)であり、下記の資料を見ると日野高光の名前が書かれている。



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