高来郡深江浦や串山郷をめぐって「なぜ相論になるのか」が、おぼろげながら見えてきたように思う。相伝家と「北条・九条家」との力関係に依拠すると思う。(違うかも…)
宝治合戦の際に、有間朝澄は何処にいたのだろうか。
宝治合戦直後に書かれたと思われる、相伝の文書は本物なのだろうか?
その前に185ページにわたる資料が見つかり、そちらを読もうと思う。
また、深堀文書の深堀氏についても。
1273年六波羅御教書 朝澄開発田と記載あり。
という事は、その田が平朝澄に開発される以前には、名もなき場所であったのかもしれない。つまり、稲毛庄の中の有間という地名を苗字にした朝澄が、自分の開発した土地にも冠した「有間」であったかもしれないという事ではないか?
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私的memo
京都大番役