万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

東京五輪ボランティア問題-‘権威の揺らぎ’

2018年09月05日 13時55分00秒 | 日本政治
東京オリンピック・パラリンピックを2年後に控え、先日、東京2020大会組織委員会は、ボランティアの募集に関する詳細を発表しました。8万人の応募数に応募者殺到が予測されていましたが、大学生の間では、今一つ、参加機運に乏しいそうです。

 大学生が五輪ボランティア参加に消極的な理由としては、宿泊費から食費まで全て自己負担の上に、事前に数日の研修まで受けなければならないという条件の厳しさが指摘されています。夏休み期間とはいえ、同条件では、大学生の多くが二の足を踏むのも理解に難くありません。その一方で、もう一つ理由を挙げるとすれば、それは、オリンピックそのものの変質による‘権威の揺らぎ’にあるのかもしれないと思うのです。

 従来のオリンピックのイメージとは、世界を舞台とした権威あるスポーツの祭典であり、その開催地に選ばれることは、国民にとりましも誇らしく、名誉なことでもありました。‘平和の祭典’としての古代ギリシャのオリンピックのイメージとも重なり、高らかに提唱されたフェアプレー精神によって、崇高で神聖なる雰囲気さえ漂わせていたのです。ところが、今日、オリンピックに対する国民感情は、大きな変化を見せております。ネットやメディアを介して国民があらゆる情報を入手できる今日、これまで伏せられてきたり、表面化することのなかった裏側のマイナス情報までも瞬時に伝わってしまうからです。

第1のマイナス情報は、商業化に伴うIOCの利権体質や腐敗です。サマランチ会長の登壇により、アマテュアが集うはずのオリンピックは、巨額の収益が見込める世界最大級の興行の一つとなりました。それ故に、開催地の誘致、放映権、スポンサー選定などに際し、表にできないダーティーなマネーが動いたと囁かれています。このことは、オリンピック開催によって、莫大な利益が一部の団体や個人に巨額のマネーが転がり込むことを意味します。その一方で、実際の大会運営といえば、開催地となった国や地方自治体の‘持ち出し’による施設の建設や交通アクセスの整備などが必要な上に、外国人観客の案内等は無償のボランティア頼みです。この不条理なギャップを知れば、ボランティアに参加する意欲は自ずと失せてしまうことでしょう。権威と商業化は、得てして両立しないものです。

第2のマイナス情報は、東京オリンピックの決定を開催を機に日本のスポーツ界に蔓延してきた暴力的な体質が表面化してきたことです。日大アメフト問題に始まる一連の内部告発事件は、各種スポーツ界が、権力を私物化する横暴なトップによって牛耳られている実態を露わとしました。しかも、こうした暴君的なトップほどオリンピックや国際組織の権威を笠に着ており、むしろ、これらとの関係を自己の権力保持に利用してきたのです。世論の手厳しい批判を浴びたため、これらの人々は辞任等に追い込まれましたが、権威は、それを利用した者の不品行によっても著しく損なわれるものです。一般の大学生の視点から見ましても、選手達に睨みを利かす‘ドン’が支配する‘恐怖政治’の如きスポーツ界の実態は、ボランティア意欲を削ぐに十分であったことでしょう。

オリンピックのイメージ崩壊を招いたマイナス情報は以上の2点に限ったことではなく、オリンピック利権に群がる利得者に暴力団の名称まで上がれば誰もが眉を顰めます。若者たちの非協力的な態度には批判もありましょうが、オリンピックに夢を見られなくなった大学生たちに罪はなく、その責任は、オリンピックを堕落させた側が負うべきなのではないでしょうか。しかも組織委員会側が大学生のボランティア参加を当然視し、恰も上から動員をかけるような意識で募集したのでは、反感ばかりが募ります。

困っている誰かを援け、人の役に立つことに意義を感じ、善意から参加するのがボランティアなのですから、既に揺らいでしまった権威の上に胡坐をかいて興行計画の一部に組み込み、奉仕を当然視するような手法では、一般の国民感情に照らしても無理があるとしか言いようがありません。IOCをはじめ、主催者側がフェアプレーの精神を取り戻し、自らを健全なる方向に改革しない限り、こうした問題はなかなか解決しないのではないかと思うのです。

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コメント (2)
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