万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

多言語空間化する日本国の不条理

2018年09月16日 15時03分41秒 | 日本政治
 横浜駅の構内を歩いていると、スピーカーから長々と中国語による案内が響いてきます。プラットフォームでは、今流行のファッションに身を包み、スマートフォンを片手に日本語でしゃべっていた若い女性が、通話の相手を変えたのか、やおら中国語でまくしたてています。一体、ここは、何処なのでしょうか。

 横浜には戦前より中華街があるため、中華化現象は全国的ではないと信じつつも、中国からの観光客激増に応えるかのように、近年、駅での表示板や案内板では日本語に加えて中国語とハングルが並ぶようにもなりました。日本国でありながら異国のような空間の出現に、どこかで何かが違っていると漠然と感じる国民も少なくないはずです。国土交通大臣のポストが公明党議員によって占められていることも影響しているのでしょうが、事実上の移民政策を前にして、日本国政府は、外国人の受け入れ態勢の整備に動いていますので、日本語教育の充実を謳いながらも、今後、このような事例は増えてゆくかもしれません。

 それでは、一般の国民が抱く多言語空間化に対する違和感、あるいは、不条理感はどこから来るのでしょうか。この問題を考えるに当たって確認すべきは、時間と空間は有限であると言うことです。当たり前と言えば当たり前のことなのですが、殊、政治や社会の枠組について考える場合には、この有限性は重要な意味を持ちます。何故ならば、今日の国民国家体系の基本原則となる民族自決、並びに、一民族一国家の原則は、民族的纏まりに一つの国家を有する正当な権利を与えており、そして、言語こそ、民族の枠組を識別する最大の決定要因とされているからです。つまり、コミュニケーション手段である言語の共有こそ、その集団が長きにわたる歴史を経て一つの社会を形成していた証であり、独立した国家を有する政治的権利の根源とも言えるのです。言い換えますと、国民が自らの国家領域おいて自国の言語を誰憚ることなく使えるのは、今日の国際体系である国民国家体系が、有史来の人類の民族別分散定住を前提とし、多様化した民族集団の其々に自らの領域とそこで経過する時間に対する使用の排他的権利を与えているからに他ならないのです。

 このように考えますと、何故、多言語空間化に不快な感情を抱くのか、その理由も見えてきます。時間と空間の使用には国家領域に限定された有限性があり、その国の国民の正当な権利であるならば、他の言語の使用は、この権利の他民族への譲渡ともなりかねないからです。例えば、上記の駅の構内放送の場合、同一の内容を中国語で放送するには、日本語とおよそ同程度の時間を要します。つまり、一般の日本国民が圧倒的多数であったとしても、時間と空間の使用時間については日中同等となり、中国語が放送されている時間にあっては、放送が届く範囲内における言語空間が中国化してしまうのです。

 今後、外国人労働者や事実上の移民が増加するにつれ、中国語やハングルのみならず、他の言語についても、平等原則を徹底すれば同様の扱いをせざるを得なくなるかもしれません。先日も、外国人生徒の多い小学校では、運動会において多言語放送が実施されたことが、新たな試みとしてTVで好意的に紹介されておりましたものの、多言語放送ですと、一つの事を伝えるのに、言語の数だけ時間を費やさざるを得ません。国民国家とは、この意味においても、本来、最も効率の良い国家形態なのです。日本国政府は、外国人観光客や移民の受け入れについてプラス面ばかりを強調しておりますが、日本国民の空間が狭まり、異空間が広がるのでは、不満や不安ばかりが募るのではないでしょうか。

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コメント (8)
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