万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

‘見えない米中戦争’は始まっている-急がれる日本国の決断

2018年09月15日 15時28分20秒 | 国際政治
トランプ米大統領、2000億ドルの中国製品に追加関税指示=関係筋
渋っていた中国が米中貿易協議に応じるとの情報が伝えられた矢先、アメリカのトランプ大統領が、予定していた22兆円規模の対中制裁関税の実施に向けて措置を採るよう命じたと報じられております。今後は、さらに30兆円規模の制裁関税を上乗せする計画も明らかとなり、米中貿易戦争はいよいよ全面戦争へと向かうようです。

 アメリカの対中貿易赤字は、米商務省の統計によれば、2018年2月の時点で、前年比で8.1%増加して凡そ41兆円(3752億ドル)となり、過去最高額を記録しています。この数字に照らせば、膨大な対中貿易赤字を一気に削減しようとするトランプ政権の強い意気込みが感じられるのですが、中ロの接近が顕著となり、北朝鮮の非核化問題が拗れるにつれ、対中貿易戦争は米中間の貿易不均衡是正のみを唯一の目的とはしていない、とする見解が急速に支持を集めるに至っています。輸出大国となった中国は、その経済力を踏み台にした軍事力により、今や、アメリカのみならず、国際社会において深刻な平和に対する脅威として立ち現われているからです。

 第二次世界大戦後の国際社会は、長らく冷戦構造下においてソ連邦が超大国としてアメリカと肩を並べつつも、基本的にはアメリカが仕切っており、ソ連邦を筆頭とする東側陣営は、どちらかと言えば主流派に対する‘抵抗勢力’の立場にありました。そして、アメリカが他の諸国、並びに、一般国民からの支持を受けて‘世界の中心国’となり得た理由は、抜きんでた軍事力にもまして、曲がりなりにも、自由、民主主義、法の支配、基本権の尊重といった人類普遍とされる価値の擁護者であったからに他なりません。もちろん、時にはアメリカの露骨な国益追求が表に出て、国際的な批判を受けることもあったのですが…。普遍的な諸価値の標榜は、それが、人の自然的な感情や良心に基づくが故に、誰もが抗えないアメリカが有する最強の‘ソフト・パワー’であったと言えます。

 一方、今日の中国は、人類社会の自明の理とも言える普遍的な価値など、一顧だにしていません。それどころか、持てる資源と科学技術力の全てを軍事面に注ぎ込んだソ連邦と同様に、情報・通信分野やコンピュータ部門で培われてきた高度先端技術をも、アメリカを越えるハイテク兵器の開発のみならず、これらの諸価値を破壊するために積極的に活用しています。その破壊力は、中国国内のみならず国際社会にも及んでおり、非民主的な体制を敷く国家を蔭から支援し、国連までも自らの影響下に置こうとしているのです。

しばしば中国は魅力的な‘ソフト・パワー’に乏しいと指摘されていますが、強制力としての‘ハード・パワー’さえあれば前者は不要と見なしているのでしょう。中国と比較すれば、アメリカは、独裁者に対して寛容であるとされるトランプ政権下にあってなおも価値志向の強い国と言えます。そして、将来において暴力主義国家である中国が君臨する国際社会が出現するとすれば、それは、中心国としてのアメリカの地位を揺るがすのみならず、全ての諸国と国民にとりまして、暗黒時代の到来を意味します。自国が中国に従属し、社会や文化も中華色に染まる未来を歓迎する国民は、何処にもいないはずです。

米中貿易戦争が‘見えない米中戦争’であるならば、日本国政府は、迷わずに、同盟国であるアメリカと共に対中貿易戦争に加わる、即ち、中国の経済力を削ぐ措置を採るべきなのではないでしょうか。同盟国としての義務のみならず、また、自国の安全のみならず、人類の普遍的な諸価値を擁護する国として。

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量から質へのシフトこそ人類の転換点では?-規模の時代は続くのか

2018年09月14日 11時19分51秒 | 国際政治
“外国人の労働環境整備”検討会が初会合
グローバリズムとは、イノベーションや創造性と言った言葉と共に到来したため、過去とは違う、何か新たな時代の始まりを予感させるものです。しかしながら、この現象を具に観察しますと、その本質は、むしろ、規模の拡大に価値を置くという意味において、近代以降の思考・行動原則と何らの変わりがないように思えます。つまり、今日もなお、人類は規模の時代を生きているのです。

 古来、戦争の発端の大多数は、利己的な規模の追求にありました。近代以降は、領土拡張や異民族支配の欲望に加え、経済分野における規模志向も加わり、それは、植民地の獲得競争を含む列強間の勢力圏争いにまで発展しました。この時代、その先兵となったのは、西欧列強各国において設立された半官半民とも言うべき東インド会社でしたが、今日では、多国籍化したグローバル企業群が、全世界を自らの市場とし、M&Aを積極的に仕掛けながら規模を追求しています。グローバル化とは、企業が規模を追求するための環境整備であり、世界各国の政府は、この方向性こそ人類の唯一の未来と信じ込んでいるかのように、何らの疑いを挟むことなく自国を気前よく‘開放’しているのです。

 デカルトの懐疑主義が近代合理主義精神の出発点となったことからしますと、現代の人々の方が、迷信的で頑迷な前近代人のメンタリティーに近いのではないか、とさえ疑ってしまうほどなのですが、規模の拡大を第一とする思考や行動は、上述したように、植民地化や古来の共同体の崩壊を帰結し、今日では、移民の増加や雇用不安といった負の問題をもたらしてきました。光もあれば影もあるのです。しかも、現代のクローバリズムは、IT、AI、ロボットといった新たなテクノロジーの開発やプラットフォーム型のビジネスによって、人々のライフスタイルや社会までをも変え、さらには、国民をも融解させる勢いです。

そして、規模を原則とする限り、近い将来、規模に優り、基本技術を抑えるGAFAや中国系巨大企業によって、その他もろもろの企業は巨大企業の世界戦略に組み込まれ、下請けや部材提供者として生き残るしか道は残されていないかもしれません。人々の生き方も一新され、単なる労働力提供者に堕すと共に、一部の保護された観光地を除いて、地球上は、‘何処に行っても同じ風景’という、多様性とは裏腹のモノトーンな世界に変貌することでしょう。

 日本国で深刻視されている少子化問題も、規模に価値を置くからこそ、政府は、移民推進政策で解決しようとするのでしょう。13億の人口を擁する中国でも、既に一人っ子政策を放棄しておりますし、途上国のみならず、先進国でも移民系が牽引役となって人口増に転じる国も少なくありません。しかしながら、人口大国の座を競う中国やインドを含め、あらゆる国が人口増加を目指せば、天然資源には限りがありますので、爆発的に増加した人口を地球が養えるとも思えません。さらに、こうしたグローバル企業の効率性と採算性の追求は、ロボットやAIの導入を加速化させますので、やがては世界規模の人余り状態が生じるとも予測されます。こうした未来像がおぼろげながら浮かび上がるにつれ、グローバリズム初期の‘わくわく感’は、今や未来に対する言い知れない‘不安感’に変わろうとしているのです。

持続可能、かつ、一人一人が豊かな生活を送るようになるためには、そろそろ規模を原則とする競争を止め、質の高さこそ新たな原則に据えるべきなのではないでしょうか。グローバル企業が新たな‘植民地支配’と批判されるのも、それが、旧来の規模追求型であるからに他なりません。質への転換とは、規模の大小に拘わらず、あらゆる企業にチャンスを与えるグローバル市場を一部に留めつつ、歴史や国民性に裏打ちされた各国の固有性を活かした厚みのある経済を実現し(グローバリズムの犠牲に供さない…)、世界各地において、固有のテクノロジーが生まれる余地が残されている真に多様な世界を意味します。人類史に新たな一ページが開かれるとしますと、それは、量の局限化ではなく、量から質への基本原則の転換、即ち、質の時代への移行なのではないかと思うのです。

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AI時代の到来は時期尚早?-人の脳は量子コンピュータ型?

2018年09月13日 13時31分12秒 | 社会
ネット、新聞、TVなど、あらゆるメディアにおいてAIの文字を目にしない日は珍しく、AIこそ、今日という時代の寵児の観があります。ディープ・ラーニングの開発により一躍主役に躍り出たAIなのですが、果たして、AIは、人に替ってあらゆる物事を決定する存在となるのでしょうか。

 ディープ・ラーニングは、AIに、人と同じように自ら学習し、独自に判断する能力を身に着けさせた点で、高い評価を受けています。この独自判断力こそが、行き詰っていたAI研究のブレークスルーとなったわけであり、AIをして人と同列に並ばせた、もしくは、追い越させたとも言われています。研究者の多くは、やがてAIは、全く人と同じように自らで考え、独立した意思=自我を持つに至ると主張しています。しかしながら、この楽観的な見解には、重大な盲点があるように思えます。

 その盲点とは、現在の科学技術のレベルを以ってしても、生命誕生の謎どころか、人を含む生物の意思の由来さえ、全くと言ってよい程、解明されていない点です。人が、自分自身の存在の根源さえ解き明かしていない段階にあって、AIに人と同じ機能を持たせることは不可能な作業です。仮に、人の知性の働きを人工的に再現させるならば、人の脳機能のメカニズムを完全に把握する必要がありますし、それを設計して製造する技術も特殊素材も要します。もしかしますと、このレベルに至るにはここ数十年の年月を費やしても到達できないかもしれません。また、肉体と意思とを別物とする心身二元論、あるいは、魂実在論が正しければ、人の脳を人工的に再現しても、AIに意思が発現するとは限らないのです。

 加えて、ディープ・ラーニングは、従来のデジタル式のコンピュータ技術の延長線上にありますが、人の脳機能は、時空を離れて同時解析が可能な量子コンピュータの仕組みに近いのではないか、とする説があります。様々な要因や情報を一瞬のうちに統合して判断する能力は、量子コンピュータに期待されている能力ですが、人も、五感を同時に働かせて判断することがありますし、直感や第六感なるものもあります。記憶量や解析速度等においてAIは人の能力を遥かに凌駕し、多数の選択肢の中から最適解を絞り込む能力にも優れ、自律的に判断もしますが、可能性が未来に向けて開かれている場合、複雑な要因を同時的に考慮し、過去に存在しない創造的な解を見出してゆく能力は、量子コンピュータ的な頭脳を有する人の方が優っているかもしれないのです。

 今日では、AIと量子コンピュータとの融合を図る研究も進められており、近い将来、AIの中心的な研究領域は、後者に移る可能性もあります。しかながら、それでも、この研究の前には、人の意思の解明という生命科学上の難題が立ち塞がっております。このことは、人類が優先して進めるべきは自ら自身に対する研究であり、いささかオカルト的な響きに拒絶反応が起こりがちですが、科学が人の心や魂の問題にも真摯に取り組むべきことをも示唆しています。今日の量子論の発展は、生命現象の不思議ともリンケージしており、物理学と生物学とのその極限における接触と融合は、今日的な課題でもあるのです。

 以上のように考えますと、現段階でAIを人に替る万能の知的存在として位置付けるのは些か時期尚早のように思えます。むしろ、全面的な人との代替を目標とするのではなく、AIが人より優れている部分を切り分けて、限定的な活用を試みるべきではないでしょうか。そして、むしろ、AIが自我を持たないとする特徴は、全ての人に対する公平な立場、あるいは、‘無私の心’を表すかもしれません。人とは、他者の意思に支配されることを本質的に嫌いますので、AIの、この‘自分がない’という特質をプラス方面に利用すれば、あるいは、一部の貪欲な人々の私利私欲に振り回されてきた人類にとりまして、僅かなりとも救いとなるかもしれないと思うのです。

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日本国の安全を脅かす中ロの地政学・地経学的脅威の再来

2018年09月12日 13時30分48秒 | 日本政治
日中首脳会談 首相「両国の協力の地平線は広がりつつある」
北朝鮮に対するアメリカの圧力が強まるにつれ、背後で同国を支えてきた中国とロシアは軍事的結束を強めています。ロシア軍が極東、並びに、シベリアで今月11日に開始した大規模軍事演習には中国軍も参加しており、おそらく、仮に、トランプ政権が北朝鮮に対して軍事制裁に踏み切る場合には、第三次世界大戦をも‘人質’とした軍事的支援を行う準備があるとするメッセージなのでしょう。中ロ接近は、アメリカの同盟国である日本国に対する効果をも狙っており、この脅威は、他人事ではありません。

 明治以降の歴史を顧みると、ロシアは、常に日本国の軍事的行動を方向づけてきました。日露戦争は言うまでもなく、それに先立つ日清戦争も、直接的な対戦国は清国であったものの、主たる開戦理由は、‘ロシア帝国の南下政策が忍び寄っていた朝鮮半島の安全を確保するために、清国の冊封下にあった李子朝鮮国を独立させる必要性があった’から、と一先ずは説明されています。第二次世界大戦後は、冷戦構造における東西陣営の線引きが日本国とソ連邦を隔てたため、対立関係は当然のことのように引き継がれたのです。

 一方、中国との関係を見ますと、上述した日清戦争以降も、同国との軋轢は日本国を泥沼の戦いに引き込む最大の要因となってきました。女真族の故地であった満州国の正当性をめぐり、日本国は、国際聯盟を脱退するに至り、その後は、盧溝橋事件、あるいは、それに続く第二次上海事件等を発端として、日本軍は、半ば内戦に干渉する形で、長く苦しい大陸での戦争を闘うこととなるのです。その後、共産党が内戦に勝利をおさめ、中国大陸で共産党一党独裁体制が成立すると、計画経済の失敗により中国の軍事的脅威は著しく低下し、暫くの間、中国は、日本国の安全保障を脅かす、あるいは、軍事行動を引き起こす存在としては認識されない状況が続くのです。

 ところが、80年代後半に至ると、上記の様相は一変します。東欧革命を経てヨーロッパにおける冷戦が終結してソ連邦が崩壊する一方で、中国は、政治的には共産主義を堅持しながら、経済的には、改革開放路線に舵を切るからです。この時、日本国は、いささか楽観的な見通しの下で、こうした変化に対処したように思えます。冷戦の終焉と同時にソ連邦の脅威も消滅したかのような錯覚に囚われましたし、中国に対しても、依然として共産主義国家である事実を直視しようとはしませんでした。そしてこの忘却とも言える態度は、今日なおも、政府から民間に至るまで日本国内に蔓延しています。

 純粋に地政学的な見地に立ちますと、日本国は、中ロに南北から挟まれる形勢となりますので、両国が軍事的脅威であることは昔も今も変わりはありません。しかも、中国は、世界第二位の経済大国にも成長しており、地政学のみならず、経済力を政治的目的に用いる国家の行動に注目した地経学の観点からも、周辺諸国に重大な脅威を及ぼしているのです。今日、日本国は、その歴史上はじめて中ロの両国による地政学、並びに、地経学上の脅威に直面していると言っても過言ではありません。言い換えますと、戦後に多大な犠牲の上に構築されてきた国際法秩序が崩れ、国際社会が無法地帯化した場合、戦前にも増して、日本国は、政治経済の両面において危機的な状況に置かれることが予測されるのです。

 日ロ間に横たわる北方領土については、日本国政府は、ロシア側が否定しているにも拘わらず、平和条約交渉の進展を理由に対ロ経済協力を進めようとしておりますし、中国に対しても、13億の市場に対する期待感からか、日中経済協力を深めようとしています。しかしながら、予測される危機に思い至れば、日本国は、ロシアが経済力を備えた第二の中国とならぬよう(両国の伝統的な戦略は、敵を大陸奥地まで誘き入れ、退路を断って殲滅する…)、資金と技術を求めるロシアには対しては協力を慎むべきですし、市場規模の魅力と笑顔で手招きをする中国に対しても距離を置き、アメリカと歩調を合わせて経済制裁に転じるのが、長期的な視点からすれば得策のように思えるのです。

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第2回米朝首脳会談はどちらのイニシャチヴか?

2018年09月11日 13時05分14秒 | アメリカ
2度目の米朝会談提案=正恩氏、トランプ氏に書簡
今月10日、アメリカのサンダース報道官は、記者会見の席で、トランプ大統領が、北朝鮮の金正恩委員長から二度目の米朝首脳会談の開催を求める書簡を受けとったことを明らかにしました。トランプ大統領は、この要請に快く応じる姿勢を見せていますが、何故、北朝鮮は、今の時期に二度目のトップ会談を申し出たのでしょうか。

 金委員長からの書簡を受けての開催となりますと、二度目の首脳会談の時期は、北朝鮮側が決定したこととなり、米朝関係のイニシャチヴは、一先ずは北朝鮮側が握る形となります。米研究機関やIAEA等の分析によりますと、6月12日の第一回米朝首脳会談以降も、北朝鮮は、核、並びに、ICBMの開発を秘かに継続しているそうですので、開発の進捗状況から判断し、北朝鮮側が、アメリカに対するさらに強力な交渉材料を手にしたとする自信を得ている可能性もあります。つまり、第一回首脳会談での合意、あるいは、口約束を半ば反故にし、第二回目においては、中国の黙認の下で開発に成功した核やICBMの脅しにより、より有利な条件をアメリカから勝ち取ろうとする、北朝鮮側の思惑が推測されるのです。

 このシナリオは、当事国であるアメリカ、同盟国である日本国、そして、国際社会にとりましてはまさに‘悪夢’なのですが、同会談が、公式には北朝鮮側からの要請とする体裁をとりつつも、アメリカ側の圧力によるものであると想定しますと、別のシナリオもあり得ます。先日、ポンペオ米国務長官の訪朝が、北朝鮮の非協力的態度を理由に突然にキャンセルされた一件は記憶に新しいところであり、また、先日、米高官の一人が、トランプ大統領が書いた北朝鮮への軍事制裁を示唆するツウィートの下書きを見て、あまりの脅迫的な内容に投稿を思い止まらせたとする旨の証言もあります(訂正:この情報は、米中首脳会談以前の段階のもののようです。)。一方の北朝鮮側の動きを見ても、先日の軍事パレードではICBMは登場せず、金委員長の談話でも、先軍政治路線時代には‘お決まり’であった好戦的な言い回しが影を潜め、経済発展を力説していたそうです。こうした北朝鮮側の軟化ぶりはアメリカへの配慮以外に考えられえず、上述したシナリオとは矛盾します。もっとも、第二回米朝首脳会談のその日まで、北朝鮮は、秘かに磨いてきた鋭い爪を隠しておこうとしているのかもしれませんが…。

 表向きは北朝鮮、あるいは、その背後の中国がイニシャチヴを採っているように見えながら、その実、第2回米朝首脳会談の真の発案者がアメリカであるとしますと、トランプ政権は、いよいよ北朝鮮に対して重大な選択を迫ろうとしているのかもしれません。それは、アメリカが納得する形で完全なる非核化を実行するのか、それとも、軍事制裁を覚悟するのか、という…。トランプ大統領としては、11月の中間選挙、あるいは、その先の再選への好影響を見越して、目に見える外交上の実績を国民に示す必要がありますので、この時期での第2回米朝首脳会談は、政治日程としても好都合です。そして、仮にアメリカ主導説が正しければ、第一回米朝首脳会談は、どちらかと言えば、金委員長に主役を獲られたような‘政治ショー’でしたが、今度ばかりはトランプ大統領も主役を譲ることなく、アメリカの有権者を意識した自らがヒーローとなる‘政治ショー’を演出するはずです。

 他のファクターが働いて、全く別の方向に向かう可能性もあるのですが、以上に述べてきたように、米朝両国にあって、どちらがイニシャチヴを握っているかによりまして、予測され得るシナリオは随分と違ってきます。何れにしても、第2回米朝首脳会談によって、第1回米朝首脳会談において残された‘曖昧さ’が拭い去られ、中国やロシアも絡み混戦模様が続く朝鮮半島情勢がより明確な輪郭を現すのではないでしょうか。

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国松長官狙撃事件を推理する-国際的な地下水脈はあるのか?

2018年09月10日 15時33分47秒 | 国際政治
先日、NHKスペシャルのシリーズ番組、「未解決事件」おいて、1995年3月30日に発生した国松長官狙撃事件を取り上げておりました。同シリーズは、ドキュメンタリーと再現ドラマとを組み合わせて立体的に事件を検証し、未解決事件となった真相に迫るというコンセプトで製作されているようです。

 今般の「警視庁長官狙撃事件」も、オウム事件との関連が指摘されながらも、結局は迷宮入りしてしまった謎を追求しています。同番組は、警視庁捜査第一課の原雄一刑事の奮闘を軸に展開しており、全体的な流れとしては、当初、警察がオウム真理教教団による犯行との見立てを公表してしまったため、警察の面子、公安部と刑事部から成る警察内部の確執、公益との兼ね合い等から、真犯人として名乗り出た中村泰なる人物を逮捕できず、公訴時効の日を迎えてしまった経緯を描いています。言い換えますと、その供述や経歴からして実行犯である可能性が極めて高いにも拘らず、オウムとの関連性を立証できない、つまり、オウムとは無関係であったことがネックとなり、中村容疑者の不逮捕に至ったこととなります。

 しかしながら、憶測の域はでないものの、オウム真理教と中村容疑者を結ぶ国際的な地下水脈が存在していたと仮定すれば、この謎は、すんなりと解けるかもしれません。同番組では、上記のストーリーを強調するために、両者の間の関連性を一先ずは否定しています。再現ドラマの後半部分には、中村容疑者自身が、原刑事に対して‘私が、オウムから依頼されて事件を起こした、ということにしてはどうでしょうか’と‘虚偽’の自白の採用を持ちかけており、‘これは、悪魔の取引です’と語るシーンを設けています。NHKとしては、視聴者に対して無関係のイメージを与えたかったのでしょうが、同番組、並びに、ネット情報等から、オウム真理教と中村容疑者との関連性を疑わせる幾つかの事実を拾うことができます。

 示唆的事実とは、(1)中村容疑者の父親は、南満州鉄道の職員であった、(2)同容疑者は、1940年に帰国して1949年に東大に入学するものの、その時、実弟の証言によれば、自らの過去の写真を全て破棄するという奇妙な行動をとっている(背乗りの疑い?)(3)帰国後、同容疑者は、旧制水戸高校時代に5.15事件に参加した極右団体「愛郷塾」のメンバーとなるものの、東大入学後は左翼革命思想へ転向している。革命資金調達のために銀行強盗を繰り返し、無期懲役刑で収監されるが、服役期間にあってチェ・ゲバラの思想に心酔し、スペイン語までマスターする、(4)出所後には、度々渡米して射撃訓練で銃の腕前を鍛えると共に、日本への銃密輸に手を染めている、(5)渡米期間中、現地のメキシコ系女性の母娘と事実上の家庭を設けている、などがあります。これらの事実を繋ぎ合わせますと、戦前から繋がる国際的な地下水脈を推測することもできないわけではありません。

満州国では、日本人共産主義者も数多く雇用されており、自らの理想の実現を同国に求めたとする説もあります。国家社会主義と共産主義とは対立的に見えて(両者は同根?)、共に全体主義体制を志向する点で相互転換が容易な傾向にあり(アイゼンクのパーソナリティー分析)、中村容疑者の思想的な変転、あるいは、両思想の混在は、まさにこの傾向性で説明されるのです(革命派でありながら、同容疑者は、何故か、拉致問題に対しては憤慨している…)。中村容疑者は、満鉄職員であった父親から思想的な影響、あるいは、人脈を受け継いでいる可能性もあり、番組に登場した実弟も、凶悪犯罪者であるにも拘わらず、同容疑者に対しては擁護的でもありました。そして、その思想的特徴は、北朝鮮という国家にも共通しています。国松長官狙撃事件の現場には北朝鮮のバッチが残されており、同国との関連性も謎とされていますが、同容疑者の背景は、北朝鮮、さらには、ロシアといった共産主義との関連が深い諸国との接点を窺わせるのです。

 加えて、もう一つ、可能性として指摘できるのは、中村容疑者とメキシコ人女性を介した国際共産主義組織との関係です。番組では、在米メキシコ人の母娘は中村容疑者の犯罪歴等については何も知らなかったとしていますが、獄中でスペイン語を習得するぐらいですから、同容疑者は、計画的にヒスパニック系の‘革命の同志’を探していたと推測されます。不可思議なことに、実際の母娘は明らかにヒスパニック・インディオ系の容姿をしているのですが、再現ドラマでは、何故か、ヒスパニック色の薄い白人系の女優が演じていました。NHKの意図は、中村容疑者と中南米一帯に張り巡らされている国際共産主義ネットワークとの関係が疑われるのを避けたかったのかもしれません。

 また、中村容疑者には協力者が複数存在しており、単独犯と云うよりは組織犯の疑いが濃く、警察内部に協力者があったか、もしくは、獄中で面会した複数のメディア関係者に協力者があり、情報伝達、あるいは、上部からの指令伝達の機会として利用していたとも考えられます。

一方、オウム真理教も、その教祖の松本智津夫は、旧満州地域に近い北朝鮮出身者であり、事件当初より、サリンの製造技術の供与など、北朝鮮やロシアとの関係が指摘され、マスコミにもオウム真理教の協力者があって、サブミリナリーという一種の洗脳映像を放映したTV局もあり、東大卒などの高学歴者や元左翼活動家が教団に加わってもおり、警察内部にも協力者がありました。

このように、両者には、共通点、あるいは、接点が見られます。オウム真理教、並びに、中村容疑者を背後から操ったのが共に国際共産主義組織であったと仮定しますと、点と点が繋がり線となるかのように、国松長官狙撃事件の謎も解けてくるように思えるのです。乃ち、両者には直接的な関係はないものの、それぞれ同一の指令部からの別々の命令を受けて行動し、一連の事件を起こしたとも推理できるのです。オウム真理教が、国権簒奪、即ち、国家転覆を目的とした教団であった理由も、その背後の国際組織の目的が極めて政治的であったからなのでしょう。同狙撃事件の目撃証言との食い違いも、同組織が、事件の捜査を徒に混乱させ、未解決へと導くために両者に同時に行動を命じたとすれば説明がゆきます(とはいえ、中村容疑者が真犯人とは限らない…)。

同事件の真相は、国際共産主義ネットワークのさらにその奥にまで踏み込む必要もあるのでしょうが、オウム事件の闇が晴れる日は、近代以降、日本国を覆ってきた歴史の深い闇も消え、ようやく呪縛が解けて新たな一歩を踏み出す日となるのではないかと、ふと、予感するのです。

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アメリカは増加する関税収入を何に使うのか?

2018年09月09日 14時02分36秒 | 国際政治
中国、対米黒字が過去最大=貿易戦争激化へ―8月
米中貿易戦争により、目下、アメリカも中国も、相手国からの輸入品に対して高額の関税を課しています。今年の7月10月に発表された第3弾となる追加関税案では、衣料品や食料品といった幅広い日用品を含む6031品目がリストアップされており、その規模は凡そ22兆円にも上るそうです。

 第3弾まで発動されますと、米中貿易戦争は‘全面戦争’の様相を呈するのですが、高率の関税の設定は、自動的にアメリカの国庫に関税収入が転がり込んでくることを意味します。それでは、対中制裁関税で増えた関税収入分を、トランプ政権は、一体、何に使うのでしょうか。

 アメリカは、長年に亘って双子の赤字、即ち、貿易赤字と財政赤字の二つの赤字に苦しんできました。今般のトランプ政権による関税率の引き上げは、前者の赤字に対する対策の一環として理解されます。この政策効果として歳入が増加し、この増収分を財政赤字の削減に役立てれば、一石二鳥で双子の赤字問題は解消へと向かうことでしょう。現状では、対中貿易赤字はむしろ拡大しており、成果らしい成果は確認されていないのですが(もっとも、代替が完了すれば減少に転じるかもしれない…)、第3弾まで歩を進めれば、中国の対米輸出は減少に転じるはずです。11月に予定されている中間選挙でも、この点を国民にアピールすれば、共和党に追い風が吹くかもしれません。財政赤字が改善されれば国債発行額も抑制できますので、米債が大量に中国に保有され、政治的カードとして利用されるリスクも緩和されます。

 内政を重視すれば、増収分を財政赤字の削減に用いる案は、政権支持率の上昇を見込めますので有力なのですが、外政に注目しますと、別の使途も考えられます。米中貿易戦争の背景には、経済分野のみならず、中国の覇権主義を抑え込むとする政治的目的も指摘されています。むしろ、後者こそ真の目的である可能性もあり、軍事力にものを言わせた中国の世界支配計画の遂行は、アメリカのみならず、国際社会の脅威とする認識が広がっています。こうした状況を考慮しますと、関税収入の増加分を対中軍事費に費やすとするのも一案となりましょう。この案が実現すると、中国は、対米輸出を増やせば増やすほど、米中間の軍事力の差が開いてしまうという深刻なジレンマを抱えることとなります。言い換えますと、この案でも、アメリカにとりましては、対中貿易赤字を削減できると共に、対中軍事的優位を保持することができますので、一石二鳥となるのです。

 高額関税の効果により中国からの輸入量が減少に転じれば、増加した関税収入も漸減してゆくのでしょうが、それでも、当面の歳入の拡大は、その使い道によっては政治的なチャンスともなり得ます。果たして、トランプ政権は、米中貿易戦争の副産物としての関税収入を、どのように有効活用するのでしょうか。

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混迷を深める日本国の保守政党

2018年09月08日 16時17分59秒 | 日本政治
 ‘保守政党’とは、一般的には、祖先から受け継がれてきた自国の歴史や伝統を尊重し、民族、並びに、それを中核とする国民としての纏まりを大事にする愛国的な政党とするイメージがあります。このため、国家や国民の枠組を損なうような改革や変化に対しては慎重であり、この点において革新政党とは反対の立場にあります。

 伝統か革新かの対立構図は単純明快で分かりやすいのですが、経済問題に対する態度も加わって現実はより複雑ですし、今日では、最も端的なこの対立構図させ揺らいでおります。日本国内を見ても、保守主義を名乗る政党からも、革命、改革、変化といったおよそ保守らしからぬ言葉が飛び出してくるのに加えて、保守=日本という、当然視されてきた等式さえ怪しくなっているのです。

 この問題を考えるに際して、イギリスの保守党の歴史は保守政党が抱える矛盾の本質をよく表しております。同国の政界は、ヴィクトリア時代を中心に19世紀中葉から20世紀初頭にかけて、保守党と自由党が二大政党制の両翼をなしていました。この時期、イギリスは、全世界に自治領や植民地を保有し、大英帝国華やかなりし時代であり、かつ、イギリスを中心とした自由貿易体制を世界大で確立した時期とも凡そ一致します。このため、両党とも、‘世界帝国’としてのイギリスを前提とした政策運営を主張しており、どちらかといえば、前者が政治的な帝国主義を志向したのに対して、後者は、穀物法制定時における両党の対立が示すように、自由貿易の促進を主張したのです。言い換えますと、この時期、保守党も、今日的な意味における国民国家という一国を枠組みとした政党ではなく、上記の保守政党のイメージにも当て嵌らないのです。

 第二次世界大戦後に至ると、イギリスは、緩い独立国家の連合である英連邦の枠組を残しつつも、ユーラシア大陸の西側の海洋に位置する国民国家の一つとなります。政治的には、自由党に替って労働党が二大政党制の左の席を占めるに至り、社会・共産主義的な文脈において世界主義的な立場を主張しますが、保守党もまた、大英帝国時代から引き継がれた世界主義的な性格を引き摺っています。EU離脱問題に際して、保守党の見解が割れた理由も、同党の内部におけるナショナリズムと世界主義との混在に求めることができるかもしれません。

 以上にイギリスの保守党の来し方を簡単にスケッチしてみたのですが、今日における日本国の保守政党の迷走もまた、明治以降において形成された大日本帝国の歴史が関連しているように思えます。大英帝国程の広さはないものの、日本国もまた、台湾や朝鮮半島を版図に収めた多民族を包摂する帝国でした(満州国を含めればさらに多民族となる…)。このことは、これらの地域が独立した第二次世界大戦後にあっても、日本国の保守政党、あるいは、保守主義者の中には、大日本帝国への回帰を活動目的とする人々が混在していることを意味します。韓国からの密入国者である日本ボクシング連盟の元会長山根明氏の日本国籍取得を手助けしたのは保守系の政治家であったというような事例は、冒頭で述べた保守政党のイメージからしますとあり得ないような裏切り行為ですが、保守主義者には、多民族国家としての大日本帝国の再来を夢見る人々が混じっていることを理解すれば合点が行きます。

 一般の日本国民の大多数は、大日本帝国の再来を望んではいませんので、今後、保守政党の内部では、両者の立場の違いによる対立が激しくなることも予測されます。あるいは、保守政党の多数派が既に‘大日本帝国回帰派’で占められているならば、保守政党と一般国民との間の意識の違いは政府に対する不満として表出されることでしょう。政界における保守=日本という構図の崩壊は(今では、皇室にも言えるかもしれない…)、日本国の独立性にも深くかかわるのですから、一般の日本国民は、その背景をも含めて‘保守’の実像を知るべきなのではないかと思うのです。

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自由貿易主義で国家は何を失うのか?

2018年09月07日 16時43分34秒 | 国際政治
戦後、自由貿易主義は国際経済の基本原則となり、各国は、こぞって関税率の引き下げや数量規制の撤廃等に熱心に取り組んできました。二国間であれ、多国間であれ、他国との自由貿易協定や経済連携協定の締結も政府の通商政策上の重要課題となり、その結果、現在に至るまで数多くの地域的経済圏が誕生してきたのです。しかしながら、トランプ政権が着手したNAFTAの見直しが象徴するように、今日、自由貿易主義は曲がり角に来ているのです。

 それでは、何故、自由貿易主義、あるいは、グローバリズムは、現実を前にして立ち尽くすことになってしまったのでしょうか。この問題を考えるヒントの一つは、9月6日付の日経新聞朝刊に掲載された記事に見出すことができます。記事の内容は、インドネシア政府による関税率引き上げとインドネシア・ルピアの相場下落に関するものであり、その原因として、同国が抱える貿易赤字を指摘しています。

通常、何れの国も貿易決済不能に陥らないよう、IMFに加盟すると共に、外貨準備を積み上げています。しかしながら、赤字が恒常化する、あるいは、外貨不足が深刻化する場合には、政府には、幾つかの取り得る政策手段があります。最も一般的な手段は、(1)関税率を引き上げて他国からの輸入量を減らす、(2)自国通貨を切り下げて自国の輸出競争力を高める、(3)他国からの輸入を手控えて自国製品で代替する、(4)外部からの融資や支援を受けて急場を凌ぐ、の4つです。これらの手法はごく一般的な経済政策の‘いろは’でもあり、政府は、デフォルトや通貨危機を脱し、自国経済を救うために自らの政策権限として実施してきました。乃ち、貿易から生じる不均衡問題に対しては、(4)の国際機関のIMF頼みのみならず、(1)・(2)・(3)という各国政府による政策の実施も、救済・調整機能を果たしてきたのです。

今般のインドネシアの措置の場合、政府が意図的にルピア安に誘導したのかどうかは分かりませんが、少なくとも関税引き上げについては、その目的が貿易赤字の改善であったことは確かなようです。同記事は、取り立ててインドネシア政府に対して批判的な論調ではなく、むしろ、理解を示しているようにも読めます。ところが、同様の措置をアメリカが取りますと、雨や霰の如くに批判の矢が降り注いでくるのです。トランプ政権が実施している関税引き上げ、ドル安容認、自国製造の推奨は、まさしく貿易赤字国が採る常套手段に他ならないにも拘わらず…。

古典的な自由貿易主義理論は‘予定調和’を説いており、自由貿易主義、あるいは、グローバリズムは、その理想を実現しさえすれば、自動的に全ての諸国に富をもたらすとする錯覚を与えています。しかしながら、現実は、貿易収支の均衡も互恵的な富の配分も実現するわけではなく、誰もが‘予定調和’に懐疑的にならざるを得ないのです。そして、この現実が明らかにしたのは、一旦、自由貿易協定や経済連携協定を締結してしまうと、国家による救済・調整機能が失われるという点です。この現象は、EU加盟国であるギリシャのソブリン危機でも見られましたが、同国では、条約の縛りにより(1)から(3)までの政策を採ることができず、主として(4)に頼るしかありませんでした。通常の経済協定では通貨統合を含みませんので、(2)の政策を採ることは可能でも(それでも、他の加盟国から為替操作として批判されるかもしれない…)、関税率や輸入量の見直しによって救済・調整機能を果たすことは最早できないのです。

今日、TPP11が発足する見通しとなり、RCEPについても年内大筋合意に向けた動きも見られます。しかしながら、1993年に欧州市場が誕生した際に、多くの人々が‘バラ色の未来’を夢見たものの、現実は思い描いていた通りにはなりませんでした。TPP11等の枠組でも、発足には漕ぎ着けたものの、その後、国際収支の不均衡等に起因して金融危機、財政危機、並びに、通貨危機をはじめ、深刻な経済問題に直面した加盟国が出現した場合、一体、どのように対処するのでしょうか(EUのような救済の仕組みもない…)。

多国間による広域的経済圏の形成は、同時に、政府が、全てではないにせよ、経済分野で発生する危機や問題に対する有効な政策手段を失うことを意味します。現実を見つめますと、自由貿易主義の危うい理想を貫くよりも、国家の救済・調整機能を維持し、内外の経済が調和するよう、これらを上手に活かすことこそ肝要なのではないかと思うのです。

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‘ポピュリズム’ではなく‘ナショナリズム’では?ー移民反対の正当な根拠

2018年09月06日 14時08分12秒 | 国際政治
 全世界を一つの市場に統合し、国境の消滅を理想とするグローバリズムは、経済合理性を根拠として‘人の自由移動’、即ち、移民の増加をも全面的に肯定しています。このため、移民反対の立場にある人々は十把一絡げに‘ポピュリスト’と称され、経済合理性を理解できない反理性的な‘愚か者’と見なされがちです。

 ここに、移民反対=衆禺政治=ポピュリズムの構図が定式化され、マスメディアは、ステレオタイプ化されたこの構図に当て嵌めて、‘レッセ・フェール’なグローバリズムに対する一般国民の不満を無理矢理にでも説明しようとしています。しかしながら、移民問題に対する既存の諸国民からの反発は、‘ポピュリズム’の一言で片付けるのではなく、‘ナショナリズム’の文脈で理解した方が適切なのではないかと思うのです。

 ‘ナショナリズム’という表現の方が相応しい理由は、それが、国家の枠組と関連しているからです。経済分野のみを切り取り、かつ、自らを専らグローバリズムの利得者の視座に置けば、経済合理性の主張にも一理がないわけでもなく、それ故に、移民反対者は‘愚か者’、‘進歩から取り残された人’、あるいは、‘不要な人’といった酷な言い方をされています。しかしながら、移民の是非に関する論争の場を政治分野に移しますと、両者の立場は逆転します。何故ならば、移民反対の人々には、民主主義や言論の自由といった内政上の諸価値に加えて、民族自決を原則とする国民国家体系そのものが、国境を否定する経済合理性に対抗する強力な‘武器’となるからです。乃ち、多元主義に立脚すれば、‘ポピュリズム’として見下されてきた移民反対の主張も、‘ナショナリズム’という正当なる根拠、あるいは、‘砦’を得るのです。

 国民国家体系とは、数万年もの年月を経て形成されてきた人類における民族的な多様性に則した国際体系であり、大航海時代以降に建国された多民族国家も併存するものの、人類史を考慮すれば最も自然な国際体系です。近代以降、‘ナショナリズム’は、この国民国家体系の形成期において各民族が帝国や植民地化による異民族支配から脱し、主権を有する独立国家を建設する推進力ともなりました。‘ナショナリズム’に対する否定的な態度は、即、民族自決の原則の否定、並びに、異民族支配の容認をも意味します。

移民を当然視するグローバリストに従えば、歴史的に形成されてきた民族の枠組みは無視され、国民の枠組は融解してゆきます。たとえ国家の領域や主権が残されたとしても、移民の増加を放置すれば、将来的には国民が異民族と入れ替わってしまう、あるいは、少数の異民族に支配されてしまう事態に発展しかねません。数千年来、ユダヤ人は、世界各地に離散し、移住先で権力と結びついてきましたし(選民意識に基づく政経両面における他民族支配志向が排斥や迫害の原因であったのでは…)、イスラム教の『コーラン』では、全世界へのイスラム教徒の移民を奨励していますし、13億の人口規模を抱える中国における主要民族である漢民族もまた、全世界に華僑が移り住んで中華街を形成しています。‘人の自由移動’が全世界レベルで原則化すれば、その先に何が起きるかは容易に予測することができます。祖国や母国といった言葉も死語となり、人々は、アイデンティティー・クライシスに悩んだ末に、雑多な烏合の衆と化すことでしょう。

マスメディアが慎重に‘ナショナリズム’という表現を避け、敢えて‘ポピュリズム’として侮蔑している理由も、おそらく、移民反対の主張が政治分野において正当性のある地位を獲得してしまうことを怖れているからなのでしょう。共産主義とグローバリズムの急先鋒である新自由主義とが同類と見なされるのも、双方とも、経済を唯一の決定要因とする一元主義にあるからであり、反面しか視界に入らない一元主義では全体を見渡すことができません。ここで政治を固有の領域とする多元主義に視点を変えれば、全く別の光景が見えてくるのでないでしょうか。

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東京五輪ボランティア問題-‘権威の揺らぎ’

2018年09月05日 13時55分00秒 | 日本政治
東京オリンピック・パラリンピックを2年後に控え、先日、東京2020大会組織委員会は、ボランティアの募集に関する詳細を発表しました。8万人の応募数に応募者殺到が予測されていましたが、大学生の間では、今一つ、参加機運に乏しいそうです。

 大学生が五輪ボランティア参加に消極的な理由としては、宿泊費から食費まで全て自己負担の上に、事前に数日の研修まで受けなければならないという条件の厳しさが指摘されています。夏休み期間とはいえ、同条件では、大学生の多くが二の足を踏むのも理解に難くありません。その一方で、もう一つ理由を挙げるとすれば、それは、オリンピックそのものの変質による‘権威の揺らぎ’にあるのかもしれないと思うのです。

 従来のオリンピックのイメージとは、世界を舞台とした権威あるスポーツの祭典であり、その開催地に選ばれることは、国民にとりましも誇らしく、名誉なことでもありました。‘平和の祭典’としての古代ギリシャのオリンピックのイメージとも重なり、高らかに提唱されたフェアプレー精神によって、崇高で神聖なる雰囲気さえ漂わせていたのです。ところが、今日、オリンピックに対する国民感情は、大きな変化を見せております。ネットやメディアを介して国民があらゆる情報を入手できる今日、これまで伏せられてきたり、表面化することのなかった裏側のマイナス情報までも瞬時に伝わってしまうからです。

第1のマイナス情報は、商業化に伴うIOCの利権体質や腐敗です。サマランチ会長の登壇により、アマテュアが集うはずのオリンピックは、巨額の収益が見込める世界最大級の興行の一つとなりました。それ故に、開催地の誘致、放映権、スポンサー選定などに際し、表にできないダーティーなマネーが動いたと囁かれています。このことは、オリンピック開催によって、莫大な利益が一部の団体や個人に巨額のマネーが転がり込むことを意味します。その一方で、実際の大会運営といえば、開催地となった国や地方自治体の‘持ち出し’による施設の建設や交通アクセスの整備などが必要な上に、外国人観客の案内等は無償のボランティア頼みです。この不条理なギャップを知れば、ボランティアに参加する意欲は自ずと失せてしまうことでしょう。権威と商業化は、得てして両立しないものです。

第2のマイナス情報は、東京オリンピックの決定を開催を機に日本のスポーツ界に蔓延してきた暴力的な体質が表面化してきたことです。日大アメフト問題に始まる一連の内部告発事件は、各種スポーツ界が、権力を私物化する横暴なトップによって牛耳られている実態を露わとしました。しかも、こうした暴君的なトップほどオリンピックや国際組織の権威を笠に着ており、むしろ、これらとの関係を自己の権力保持に利用してきたのです。世論の手厳しい批判を浴びたため、これらの人々は辞任等に追い込まれましたが、権威は、それを利用した者の不品行によっても著しく損なわれるものです。一般の大学生の視点から見ましても、選手達に睨みを利かす‘ドン’が支配する‘恐怖政治’の如きスポーツ界の実態は、ボランティア意欲を削ぐに十分であったことでしょう。

オリンピックのイメージ崩壊を招いたマイナス情報は以上の2点に限ったことではなく、オリンピック利権に群がる利得者に暴力団の名称まで上がれば誰もが眉を顰めます。若者たちの非協力的な態度には批判もありましょうが、オリンピックに夢を見られなくなった大学生たちに罪はなく、その責任は、オリンピックを堕落させた側が負うべきなのではないでしょうか。しかも組織委員会側が大学生のボランティア参加を当然視し、恰も上から動員をかけるような意識で募集したのでは、反感ばかりが募ります。

困っている誰かを援け、人の役に立つことに意義を感じ、善意から参加するのがボランティアなのですから、既に揺らいでしまった権威の上に胡坐をかいて興行計画の一部に組み込み、奉仕を当然視するような手法では、一般の国民感情に照らしても無理があるとしか言いようがありません。IOCをはじめ、主催者側がフェアプレーの精神を取り戻し、自らを健全なる方向に改革しない限り、こうした問題はなかなか解決しないのではないかと思うのです。

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何故‘投機’が悪いのか?-バブル防止のために考えるべきこと

2018年09月04日 13時29分43秒 | 国際経済
17世紀オランダのチューリップ投機を始め、近代以降、人類は、幾度となくバブルの発生とその崩壊に見舞われてきました。1929年にニューヨーク株式市場の株価下落に端を発し、連鎖的に全世界を呑みこんだ大恐慌は第二次世界大戦の誘因ともされており、バブルの恐ろしさを余すところなく伝えております。

 近年でも、2008年にはリーマン・ショックが世界経済を襲いましたが、バブルの最大の要因は、人々の‘投機’行為にあります。‘投機’とは、モノであれ、不動産であれ、株式や債権であれ、使用や保有を目的とするのではなく、将来的な値上がりを見込んで何かを買う行為であり、購買時よりも価格が上昇した時点で売れば、労せずして利益を得ることができます。人とはそもそも‘欲’をもつ生物ですし、元手さえあれば誰でも簡単にできます。かくして金銭欲に駆られた人々は、特定の市場での価格上昇傾向を目にすると、集団心理も働いて我先にと‘投機’に走るのです。しかしながら、実体経済や適正価格から離れた価格上昇が永遠に続くはずもなく、これ以上の上昇が見込めなくなった時点で、価格下落を予測した一部の人々が売りに転じます。売りが優勢になると、今度は、損失回避を急ぐ保有者が我先に売りに走るため、相場は買い局面から売り局面へと一気に転じ、バブルが崩壊してしまうのです。しかも、下落局面で底値を待ち受けて買いを仕掛ける‘逆投機’もあるのですから、‘投機’とは人の抗し難い欲望が見え隠れし、何とも罪深いものです。

 近代以降のバブル崩壊がとりわけ悲惨な状況をもたらす理由は、経済の連鎖的メカニズムを通してその被害が、‘投機’行為を実際に行った人々に限定されるのではなく、一般の人々にまで広く深く及ぶところにあります。大恐慌後では、先に触れたように戦争の誘因となるほどの深刻な景気後退と失業問題を各国もたらしており、本人が意図せずとも‘自己責任’の枠を遥かに超える他害性が認められるのです。

 以上にスケッチしたように、‘投機’に伴うバブルの発生とその崩壊は、当事者以外の多数の人々に犠牲を強い、経済自体に破壊的な効果を及ぼすのですが、実のところ、今日に至るまで、それを有効に制御するシステムもなければ、‘投機’に対する評価さえ曖昧のままにされてきたのが現実です(もっとも、アダム・スミスは『富国論』において投機を批判している…)。そこで、まずは、‘投機’が‘悪’と見なされる理由を探求してみると、その利己的他害性に求めることができるのではないかと思うのです。

投資を含め経済とは、他者が必要としているモノやサービス等を相互に提供し、その労力に見合った報酬や対価を得ることにありますので、基本的には利他的行為です。一方、‘投機’において利得を得るのはそれを行った本人のみであり、他者を利するところがありません。利益は自らのみに還元されながら、‘投機’行為の果てにバブルが崩壊する事態に至れば、他者の生命や身体といった基本権、即ち、生存まで脅かしてしまうのです。この側面において、利己主義に留まらない利己的他害性=悪が見て取れるのです。

“投資は良くて投機は悪い”という言い方も、利己的他害性を基準にして考えれば、その評価がよく理解できます。投資には、企業の事業を育てたり、資金面で支援するという意味において利他性がありますが、‘投機’には、利他性が全く欠如しているからです。もっとも、投資であっても詐術的、あるいは、収奪的な高利貸しのみならず、返済能力を超える過剰な貸し付けによる融資先の債務不履行リスクといった問題については、グローバル化の時代にあって金融危機や通貨危機を招きかねない点において、その悪質性は‘投機’と共通しているかもしれません。

しばしば資本主義の欠点の一つとして‘投機’の容認が指摘されておりますが、甚大な被害リスクも含めて‘投機’が悪である理由が広く人々に理解され、皆が共有する一般常識となれば、バブルの制御も容易になることでしょう。リーマン・ショック以降の中央銀行の量的緩和政策により、世界的な‘カネ余り’に起因する金融危機の再発が懸念される今日、賢くこの危機を回避するのは、自己利益を最大化するようプログラミングされたAIではなく、他者を思いやる心を持つ人類の仕事であると思うのです。

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正気の沙汰ではないRCEP-中国は危険過ぎる国

2018年09月03日 15時11分39秒 | 国際政治
RCEP、11月首脳会議で大枠合意の可能性=シンガポール貿易相
中国や韓国が加盟しないTPP11でさえ、NAFTAを観察すれば一目瞭然であるように、域外国が賃金コストの低い加盟国に製造拠点を移し、日本市場を狙って輸出攻勢をかけるリスク等があり、必ずしも日本経済にとりましてプラスとなるとは限りません。両国がこぞって加わるRCEPに至れば言わずもがななのですが、アメリカの保護主義に対する対抗意識からか、年内での大筋合意を予測する発言も聞かれます。

 今月1日には、とりわけ歴史的に中国との関係が深い国であるシンガポールのチャン・チュンシン貿易産業相も、RCEPの大筋合意への期待を表明しておりますが、中国の現状からしますと、この試みは正気の沙汰とは思えません。

 その理由は、第一に、中国は、未だに共産党一党独裁体制を敷き、今では習近平国家主席が頂点に君臨する個人独裁国家であるからです。戦後の冷戦構造は、米ソのイデオロギー対立の様相を呈し、暴力革命を‘輸出’し、全世界に自国中心の全体主義体制を広げる野望に憑りつかれたソ連邦は、強大な軍事力と国際諜報・工作ネットワークを駆使し、その実現のために、国際社会における主権平等も民族自決の原則をも無視した行動を繰り返したのです。

当時、軍事的脅威であったソ連邦との共存共栄を目指して、自由貿易協定はおろか、通商協定を結ぼうと提案する西側諸国は一国たりともありませんでした。ソ連邦が自由貿易国ではなく、国家貿易国であったこともその一因ですが、今日、なおもイデオロギー、否、普遍的な価値や原則をめぐる対立が共産主義国家中国との間に横たわっていることを考慮しますと、ソ連邦と同様の覇権主義国家である中国と友好的な通商関係を構築する理由も見当たりません。今となりましては、天安門事件と云う民主主義も自由をも踏み躙った凄惨な事件を起こしながら、何故、自由主義諸国が、一時的に科していた制裁を早々と解除し、中国の改革開放路線をかくも無警戒に受け入れたのか、不思議でならないのです。喩え中国側が市場経済化を表明し、通商協定・条約の締結やWTO等への加盟を求めても、政治的理由を以って拒絶する選択肢もあったはずです。

そして、第二に、法の支配と云う国際秩序の根幹に関わる価値についても、南シナ海問題における仲裁判決の拒絶が示すように、中国は、横暴な破壊者の立場にあります。ロシアは現在、ウクライナ問題への介入やクリミア併合を咎められて経済制裁を受けていますが、国際法を歯牙にも掛けない中国もまた、国際社会から経済制裁を受けて然るべき国なのです。

このように考えますと、RCEPの成立は、冷戦期にあってヨーロッパ諸国が、勢力拡大の機会を虎視眈々と窺い、自国に核弾頭を向けているソ連邦と自由貿易圏を形成するに等しい行為となります。米中貿易戦争は自由貿易主義の擁護と云う共通の目的に位置付けられ、RCEPの促進要因と見なされがちですが、米中対立が先鋭化している今であればこそ、ここは慎重に徹し、危険に満ちたRCEPの成立は断念すべきではないかと思うのです。

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安倍首相の日中関係改善発言の不可解

2018年09月02日 14時27分14秒 | 国際政治
本日の産経新聞朝刊の第1面には、「首相 対中改善に自信」とする見出しで、自民党総裁選挙を前にした安倍伊首相のインタビュー記事が掲載されておりました。‘完全な正常軌道に戻った’とする小見出し付きで。

 この記事を読んで、不安に駆られた読者も少なくなかったのではないでしょうか。今日、無法国家としての中国の暴力性、並びに、侵略性が露わとなり、国際社会においては中国警戒論が高まっております。米中関係の緊張も増す一方であり、経済分野における貿易戦争は氷山の一角に過ぎず、中国の軍事的野心や人権問題等に対しても、アメリカは最早黙ってはいません。中国国内を見ても、習近平国家主席による独裁政権は、先端技術を駆使した情報統制と監視体制の徹底により中国国民を抑圧し、ソ連邦さながらの監獄国家へと歩を進めているのです。

こうした悪しき国家との関係改善が‘善’であると感じる国民は、果たしてどの程度存在するのでしょうか。むしろ、常識的な判断からすれば、‘距離を置くべき’と考える国民の方が圧倒的に多いはずです。中国と云う全体主義国家そのものが‘異常’なのですから、‘完全な正常軌道に戻った’のフレーズが意味するところは、‘日本国も異常軌道に同調する’いうことになりかねません。暴力団と一般人との関係に喩えれば、一般人が‘暴力団と仲直りした’と発言すれば、周囲の人々は、この人は‘暴力団の仲間入りをした’と解釈し、警戒心を以って接せられることでしょう。国際社会も同様であり、日本国が中国との関係改善に動けば、当然に、日本国は、中国の仲間、延いては、将来的には中国陣営への参加を意図しているのではないか、と疑われても致し方ありません。たとえ首相の真意が別のところにあったとしても…。

かくも重大なリスクがありながら、安倍首相が、この時期に、対中改善発言を行ったのは不可解です。同記事は、中国当局が記者の取材を拒否した産経新聞社の紙面上に掲載されていますので、なおさらもって謎が深まります。同事件は、中国による報道統制の強化を象徴しており、今日の中国の異常性を際立たせているからです。首相は、‘戻った’とも表現していますが、時間の経過によって、中国は過去よりも現在の方が遥かに危険な国家に変貌しております。

かつて、安倍首相は価値外交を提唱し、自由、民主主義、法の支配、基本的権利の尊重といった普遍的価値を掲げ、これらの諸価値を基準とした外交の展開を志向しておられました。しかしながら、今や、事実上の日本国の首相選出となる総裁選を目前として、日本国民の大半が危険視している中国政府との関係改善をアピールしています。おそらくこのアピールの対象は日本国民ではないのでしょうが、一体、日本国をどちらの方向に導こうとしているのでしょうか。

過去の二度の世界大戦が示すように、大国間の対立の激化は、一般的には陣営の形成を伴うものです。5Gにおける日中技術協力は中国陣営への参加疑惑を呼びましたが、日本国民の多くは、米中対立を前にして、現在アメリカと同盟関係にある日本国が、その同盟国を乗り換えて中国に与することなど望んでいません。朝鮮半島の両国は、既に中国陣営に組み込まれたとする指摘もありますが、安倍首相の発言の背後に中国等の諸国や国際組織、あるいは、国内の親中組織による積極的なロビー活動があったのでしょうか。仮に、何らかの工作活動、あるいは、内政干渉の結果としての発言であるならば、日本国は、既に、政経両面において混乱を極めた戦間期を髣髴させるような、いよいよ危ない局面にあるのかもしれません。ここで舵取りを誤りますと、日本国民にも、そして、全人類にも大参事が待ち受けているように思えるのです。

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日独伊三国同盟の不思議-第二次世界大戦とは何であったのか

2018年09月01日 15時42分59秒 | 国際政治
 第二次世界大戦の終結から70余年が過ぎ、今日、少しばかり離れた視点から同大戦を客観的に見直す機運が生まれてきております。真珠湾攻撃を機とした日本国の参戦につきましても、ステレオタイプの見方に対する疑問も提起されております。

 中国を筆頭とした共産主義国やその思想的影響下にある左派知識人からは、‘修正主義’との批判も受けるのですが、事実に即して歴史を見直すことは、人の自然な知的活動として間違っているとは思えません。否、‘修正主義’の反対語が、事実を無視し、如何なる修正をも絶対に許さない傲慢な‘無誤謬主義’であるならば、‘無誤謬主義’の方が、余程、反知性的であり、硬直した精神の檻に囚われております。

 お話を本筋に戻しますと、第二次世界大戦における日本国の参戦に関して、近年、極めて蓋然性が高い説として浮上しているのが、イギリスによる救国を目的とした工作説です。当時、ナチス・ドイツ軍の攻勢を受けて絶体絶命の危機にあったイギリスは、アメリカの参戦を誰よりも望んでおりました。ところが、アメリカ国内の世論は参戦反対一色であったため、この世論を逆方向に強引に変えるために、自国の国際ネットワークを介してイギリスが、日本国の真珠湾攻撃を誘導したと云うものです。イギリス誘導説には、状況証拠からすれば説得力があるのですが、日本国の参戦に際して、もう一つ、注目しておくべき点があるとすれば、それは、日独伊三国同盟の締結です。何故ならば、軍事戦略的な観点からすれば、その必然性は乏しいからです。

 時系列に簡単に整理すれば、…

1936年11月6日 日独防共協定の締結
1937年11月6日 日独伊三国防共協定の成立
1939年8月23日 独ソ不可侵条約締結
1939年9月1日 独ソのポーランド侵攻による第二次世界大戦の開戦
1940年9月27日 日独伊三国同盟の成立
1941年4月25日 日ソ中立条約の発効
1941年6月22日 ドイツによる対ソ攻撃開始

となります。軍事戦略の基本からすれば、日独伊の三国で軍事同盟を結ぶに際し、最も高い効果の発揮が期待できるのは、三国による包囲戦が可能となる場合です。乃ち、上に列挙した軍事同盟では、共産主義国であったソ連邦を東西の両面から挟み撃ちにできる日独防共協定、並びに、日独伊防共協定の成立がこのパターンに当たります。となりますと、1939年における独ソ不可侵条約の締結は、ナチス・ドイツが、他の同盟国に対して何らの相談も同意もなく、一方的に‘仮想敵国’を変更したことを意味します。同条約の締結の報に接し、平沼内閣が‘欧州の天地は複雑怪奇’という言葉を残して総辞職をしておりますので、日本国にとりましては青天の霹靂であったのです。

 その後、ソ連邦と手を結んだナチス・ドイツは、即、ポーランド侵攻を開始し、第二次世界大戦の火蓋が切って落とされるのですが、その後のヒトラーの判断と行動は不可解です。独ソ不可侵条約の締結に際して、ヒトラーは、ソ連邦との協力関係は仮初に過ぎず、時が来れば東方へと支配圏を拡大すべく、ソ連邦との開戦を構想していたとされます。実際にヒトラーはその通りに動いたのですが、この説が正しければ、同時期、共同してアメリカに対抗するために日独伊三国同盟を結成し、さらに、日独伊にソ連邦を加えた四国軍事同盟の結成に向け、日ソ中立条約を締結した日本国は、全く以って同盟国であるドイツの意向を知らなかった、あるいは、知らされていなかったことになります。かくして、ソ連邦挟撃作戦を展開することもなく、また、日独伊が軍事力を融通し合うこともなく(ただし、独伊間にはヨーロッパ戦線で軍事協力があった…)、日独伊三国同盟は、日米開戦がドイツの対米宣戦布告の口実とされたのみで、終戦の日を迎えます。しかも、ドイツが独ソ不可侵条約を破棄したにも拘わらず、日本国は、誠実に日ソ中立条約を最後まで遵守し続けたのです(ナチス・ドイツ側からの日本国に対する破棄要請もない…)。

 日独伊三国防共協定から日独伊三国同盟条約への移行は、最も重要となる共通の仮想敵国が、ソ連邦からアメリカに変更されていますので、直線上にあるように見えながら同一線上に位置づけることは困難です。日独伊三国同盟の成立において最も利益を受けた国がソ連邦であったことを考慮しますと、真珠湾攻撃においてはイギリスによる裏工作があったにせよ、コミンテルンを始めとした国際ネットワークを擁していたソ連邦、あるいは、その背後に控えていた国際勢力が、ソ連邦を連合国の一員に加える共に、枢軸国諸国を敵陣営へと巧妙に導いたとする説もあり得るシナリオです。

歴史の表舞台に現れていないこの間の、様々な国家や国際組織が入り乱れた陣営形成の経緯にこそ、第二次世界大戦の闇を払い、その実像を明らかにする鍵が隠されているのかもしれません。そして、今日なおも、情報収集の不足と水面下をも含む国際情勢の分析の不正確さが国家、並びに、国民の命運を左右することを、第二次世界大戦は、歴史の教訓として残しているように思えるのです。

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コメント (4)
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