万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

社会の‘地雷’としての新興宗教団体

2024年06月07日 11時43分44秒 | 日本政治
 戦争にあっては、地雷という恐ろしい兵器があります。同兵器は、地中に爆発物が仕掛けられているために、埋設された場所を踏んでしまいますと、身体に損傷を受けてしまいます。地雷の恐ろしさの根源は、表面からでは分からない、あるいは、視覚、聴覚、臭覚といった感覚では感知し得ない危険性にあるとも言えましょう。今では非人道的な兵器として地雷禁止条約も制定されているのですが、地雷型の恐怖は、戦場のみならず社会にも存在するように思えます。

 新興宗教団体も、人々に地雷型恐怖を与える一つです。何故ならば、信仰心とは、基本的には個人の内面にあるからです。言い換えますと、他者は内面を知ることはできませんので、その人の外観だけでは信者であるのか否かを知ることは不可能なのです。しかも、新興宗教団体の特徴の一つは、その閉鎖性と秘密主義にありますので、信者の人々も、積極的に自らが入信していることを周囲に明かそうとはしません。このため、知らぬ間に新興宗教団体の信者の知人やお友達になったり、ビジネスや取引の相手となることもあり得るのです。事前に表面からは判別することが出来ないという側面が、地雷と共通しているのです。

 もっとも、‘地雷’という表現がそもそも物騒ですし、危険物のイメージは、新興宗教団体に対する差別として批判する声もあるかも知れません。しかしながら、元統一教会の詐欺まがいの霊感商法の危険性はよく知られていますし、創価学会が‘総体革命’という日本国の民主主義体制の転覆を謀る計画を温めていたことも事実です。新興宗教団体の危険性を象徴するのがオウム事件であり、テロによる国権の簒奪が試みられているのです。同事件に際しては、破壊活動防止法の適用や内乱罪による処罰も検討されました。仮に、こうした新興宗教団体の理想が実現した暁には、現行の日本国憲法が廃止され、全体主義的神政政治への体制転換が起きるのですから、非信者の一般の国民にとりましては、危険極まりない存在なのです。

 そして、新興宗教団体が危険である理由は、まさにこの‘団体’としての活動性にあります。解脱を目指すインドのバラモンの修業僧などは別としても、宗教や宗派の大半は、信仰の対象とする多数の信者が存在してこそ成立します。つまり、宗教は、得てして教団化、即ち、組織化を伴うのです。そして、何れの団体にもそれ独自の教義に基づく‘世界観’がありますので、これを実現しようとすれば、必然的に政治活動を行なわざるを得ないのです。信教宗教団体の場合、教団の組織形態として教祖をトップとする独裁体制が確立していますので、同教団の世界観に基づく国家体制が現実のものとなれば、国民の基本的自由や権利が制限される、宗教的権威が君臨する全体主義体制に移行することが当然に予測されるのです(独裁的な体制への指向性こそ、世界権力が新興宗教団体のバックに潜んでいる可能性を強く示唆している・・・)。

 このため、憲法にあっては、個人の自由と宗教団体の自由とは別次元として扱っています。実際に、日本国憲法の第20条1項でも、両者を明確に区別しています。「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」とあり、個人に対しては信仰の自由を基本的自由の一つとして厚く保障する一方で、団体に対してはその自由、特に政治的自由を厳しく制限し、特権の享受や政治権力の行使を禁止しているのです(政教分離の原則)。この区別に鑑みますと、例えば、公明党という政党を結成し、政権与党として政治権力を行使している創価学会は、明白に憲法に違反した存在と言わざるを得ませんし、元統一教会も与党自民党を介して政治に介入していますので、憲法に違反していると言えましょう。

 新興宗教団体が、その独善的で特異な宗教上の理想の実現のために、国家体制の転覆や権力の私物化を実際に行なっている以上、その存在が一般国民によって危険と認識されるのは当然のことです。‘地雷’という表現は、この危険がどこに潜んでいるか分からず、気がつかずに地雷を踏むと自らに危害が及びかねない状況を表しています。戦争と同様に、‘地雷’は限られた戦場のみならず広い範囲に埋められており、このため、一般の非信者の人々が、知らぬまに憲法違反の行為を行なう団体の協力者となったり、目的達成のために利用されたり、あるいは、身近で監視されることもあり得るのですから。否、自らの目的とって利用価値があるからこそ、非信者にアプローチしてくるとも言えましょう。

 新興宗教団体に属する信者の人々は、多くの非信者が抱いている上記の警戒心や恐怖心を理解しているのでしょうか。あるいは、‘アレルギー’とも称される一般的な忌避反応があるからこそ、信者の人々は、自らが教団の一員であることを隠そうとするのかも知れません。そして、それは、信者の人々が自らの内にのみ仲間意識を持ち、一般常識や外部情報との遮断性を伴う閉鎖性を強める要因であるとも言えましょう。新興宗教団体の問題は、その信者の個人的な信仰の問題ではなく団体の問題ですので、現実の政治に団体として介入している以上、地雷型の危険への対処を必要としていると言えましょう。社会的には、信者の人々は、社会的マナーとしても団体の構成員であることを明らかにすべきですし、宗教法人については、少なくとも照会があったときには、信者の所属については開示することを法的にも義務付けるべきではないかと思うのです。

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伝統宗教と新興宗教を区別する基準とは

2024年06月06日 12時30分56秒 | 社会
 先祖代々人々が信仰してきたり、氏子や檀家となってきた神道、仏教並びにキリスト教と言った伝統宗教団体と、近代に至って設立された新興宗教団は、今日、両者とも法的には宗教法人として一括りにされています。天理教が神道、創価学会が日蓮宗、元統一教会がプロテスタント、幸福の科学が仏教というように、後者の大半が、前者を母体として派生しているため、両者の間に教義や組織において共通性や連続性があるという事情にも起因しているのでしょう。このため、後者が信者からお布施や奉納金を集める集金マシーンと化し、また、神や仏を拝むのではなく、教祖を崇拝の対象とするパーソナル・カルト化しても、宗教法人として前者と等しく手厚い保護を受けてきたのです。

 宗教法人に対する最大の保護措置の最たるものが、納税義務の免除です。上述したように、集金マシーン化した新興宗教団体には、信者からの定期的なお布施や奉納金により、莫大な収入が転がり込んできます。こうした集金のみならず、元統一教会の霊感商法や創価ビジネスのように、幅広く利潤が生じる事業を展開している場合には、その資金力は膨大な額となります。創価学会の名誉会長であり、教祖の地位にあった故池田大作氏に至っては、個人資産が数兆円にも上るとの噂も絶えませんでした。母体となった宗教や宗派の多くが、心の安らぎや精神の豊かさに価値を置き、金銭欲や名誉欲を含め人間の欲の抑制を説いたのとは真逆に、これらの新興宗教団体は、非信者の人々の目からしますと、拝金主義を疑う程に世俗の欲にまみれているように映るのです。

 その一方で、伝統宗教の方を見てみますと、京都、奈良、鎌倉といった、拝観料の収入が期待できる観光地にある寺社仏閣を例外とすれば、財政難に苦しむ神社やお寺は少なくありません。人口規模の小さな集落や村落などでは、既に廃寺となったり、朽ちるに任せられているお宮も散見されます。氏子や檀家数の減少やお布施や寄進等の低額化なども影響しているのでしょうが(戒名を授かるにも相当額を要した時代も・・・)、金満体質に浸かっている新興宗教団体とは対照的に、伝統宗教に属する宗教法人の多くは、自らの存続さえ危ぶまれるほどの財務状況にあるのです。

 このように、法的には同じく‘宗教法人’であったとしても、新興宗教団体と伝統宗教の置かれている状況には雲泥の差があります。それにも拘わらず、一律に税免除の特権を受けられるというのでは、多くの国民が納得しないことでしょう。これでは、貧者救済を隠れ蓑とした富者優遇策となります。そこで、重要となるのは、両者の線引きの基準を何処に置くのか、という問題です。常々、両者は区別できないから一律に扱わざるを得ないと説明されてきたからです。しかしながら、フランスやベルギー等にあって反セクト法が制定されているように、両者の間の区別が不可能であるとは言えないはずです。

 そこで、先ずもって指摘されているのが、宗教施設の開放性です。寺社仏閣やキリスト教の教会にあっては、何れも、非信者の人々に施設が公開されています。氏子や檀家ではなくとも、誰もが自由に境内に入り、そこでお祀りされている神様や仏様を拝むことができます。その一方で、新興宗教団体の施設は、実に閉鎖的です。全国の街角で目にする新興宗教団体の施設は、その教団に属する信者しか立ち入ることができません。この閉鎖性が、新興宗教団体の秘密主義を象徴しており、現代における‘秘密結社’と言うダークなイメージを与えているのです。一般の非信者の人々が、‘隠すべきことがある’と推測する根拠を与えるからです。

 新興宗教団体の閉鎖的な秘密主義という特徴は、信者の秘匿性という第二の基準を導きます。神社であれ、お寺であれ、伝統宗教団体に属する人々は、自らが所属していることを隠したりはしません。ところが、新興宗教団体の信者の人々は、マスメディアにあって宣伝塔を務めている少数の芸能人等を除いて、自らが信者であることを隠すケースがほとんどです。いわば、現代における‘隠れ教徒’の如くであり、信者であることを他者に知られることなく、教団の指示に従って組織的に行動しているのです。この隠密的な信者達の組織的行動は、一般の人々から警戒されてしかるべき理由となりますし、伝統宗教から区別される固有の特徴となります。一般社会にあって、誰が新興宗教の信者であるのか分からない状態は、それが巨大組織であるだけに、一般の人々にとりましては、疑心暗鬼となり、どこにどのような罠が潜んでいるかわからない状態とも言えましょう。

 そして、第三に挙げるべき区別の基準は、新興宗教団体には‘聖職者’が存在していないことです。神社には神職がおりますし、お寺には、僧侶という職があります。キリスト教でも、教会には司祭や牧師さんがおり、何れであれ、各自が聖典や教義に照らしながら神や仏の教えを伝える役割を担っています。一方、新興宗教団体には、教祖の下に教団の組織運営に携わる‘職員’はいても、独立的な職としての聖職者が見当たらないのです。

 以上に主要な基準について述べてきましたが、こうした新興宗教を伝統宗教から区別する諸基準の設定は、今やマネー・パワーをもって政治にまで浸透する新興宗教法人に対する課税を可能とすることでしょう。そして、これらの特徴は、実のところ、新興宗教団体の真の設立目的に関する疑いをも投げかけます。特徴的に観察される閉鎖性、秘密主義、独裁的組織形態は、これらの団体が、動員要員のリクルートであり、世界権力による支配構造の一部であるとする疑いを、否が応でも強めるのです。暴力革命を起こした共産党と同様に、短期間に多数の信者を獲得するには、相当の資金を要するはずであるからです。新興宗教団体の問題は、信者のみならず、非信者、即ち、一般の国民にとりましても、今や、早急に対処すべき重要問題なのではないかと思うのです。

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民主的選挙における三頭作戦の問題

2024年06月05日 10時42分50秒 | 統治制度論
 次期大統領選挙のただ中にあるアメリカでは、目下、異変が起きています。二大政党制を背景として共和党と民主党の候補者が対峙する伝統的な対立構図が崩れ、第三候補への支持率が伸びるという現象です。共和党のトランプ前大統領と民主党の現職バイデン大統領との一騎打ちとなるとされた事前予測が覆され、無所属で出馬したロバート・ケネディJr氏の勢いが増していると報じられているのです。

 バイデン大統領には、ウクライナや中国にて家族ぐるみで利権を漁ったとする重大な疑惑があり、片やトランプ前大統領も、抽選で選ばれた一般市民で構成されるニューヨーク州地裁の陪審とはいえ、5月30日に有罪評決を受けています。二者択一を迫られても、何れも選択できないとする有権者は少なくなく、ロバート・ケネディJr候補の支持率上昇は、いわば、膨大な数に上りつつある‘浮動票’の受け皿となっているとも言えましょう。

 しかも、ロバート・ケネディJr候補は、謀略(陰謀)の存在を認めております。CIAの名を挙げての陰謀実在の主張は、‘ディープ・ステート’という表現でそれを抽象的に批判するトランプ大統領よりも、むしろ具体性を帯びてさえいます。同主張の背景には、伯父のジョン・F,・ケネディー大統領や自身の父親であるロバート・ケネディー司法長官が凶弾に斃れつつも、真相が有耶無耶にされたという苦い実体験があるからなのでしょう。ケネディー家がアメリカの暗部を浮かび上がらせる存在であったからこそ、その一員による発言には信憑性も説得力もあるのです。

 かくして、ロバート・ケネディJr候補は、民主・共和両党の候補者に対する批判票を集めることで次期大統領選挙の台風の目となりそうなのですが、同候補の出現によって、アメリカ市民は、有権者に二者択一を迫る二頭作戦から晴れて抜け出すことができるのでしょうか。仮に、ロバート・ケネディJr氏に世界権力の息が全くかかかっていないとすれば、あるいは、同氏は、アメリカを救う現代のヒーローとなるのかも知れません。しかしながら、二頭ならぬ、三頭作戦である可能性もないわけではありません。否、二頭であれ、三頭であれ、数は関係なく(八岐大蛇やメデューサ・・・)、民主的な選挙が、外部、あるいは、上部の勢力に仕切られてしまうリスクへの懸念は払拭できないのです。

 不安材料としてあげられるのは、三人の候補者のイスラエルに対する基本姿勢です。実のところ、三人の候補者全員が、イスラエル支持を表明しているからです。対イスラエル政策については、ロバート・ケネディJr候補も他の二人の候補者と変わりはありません。少なくとも3月の時点では、同候補はイスラエル支持を表明すると共に、休戦に対してもその必要性に疑問を投げかけているのです。しかも、ロイター通信社の記者とのインタヴューでは、イスラエルを「道徳的な国家」とまで述べています。

 三候補者揃ってのイスラエル支持は、アメリカの市民には、大統領選挙にあって反イスラエル(イスラエルによる国際法違反行為への批判や支援の停止・・・)あるいはパレスチナ支持(パレスチナ国の国家承認・・・)という選択肢が存在しないことを意味します。イスラエルによる蛮行に心を痛め、反対するアメリカ人は、抗議活動に参加した大学生のみではないはずです。それにも拘わらず、これらの声は、何れの候補者が当選したとしても、政治の舞台には届かないのです。アメリカ大統領の職権において対外政策は中心的な政策領域ですので、大統領選挙の結果には関係なく、アメリカの親イスラエル政策は既に決まっています。逆から見ますと、イスラエルを支持しなければ、アメリカでは大統領候補にはなれない、とも言えましょう。

 マネー・パワーをもって全世界を仕切ろうとしている世界権力の中枢がユダヤ系である点を考慮しますと、イスラエルを支持するロバート・ケネディJr候補もまた、既に世界権力の配下にある、あるいは、選挙資金等の提供などを介して同勢力からの要請に抗えない立場にある可能性も否定はできなくなります。イスラエル支持が世界権力への‘臣従’と凡そ同義ともなりますと、対外政策のみならず、他の領域にあっても世界権力の意向や利益に資する政策を実現させようとするかも知れません。となりますと、民主的選挙制度は、国民に対して‘自らが選んだ’という幻想を与え、世界権力による‘支配’を納得させるための茶番劇に過ぎなくなりましょう。

 そして、この問題は、世界権力の支配網が全世界に張り巡らされている可能性を踏まえますと、アメリカに限られたものでもなくなります。東京都知事選も例外ではなく、何れの国あるいは首都であれ、民主的選挙を取り巻く現状は、現代という時代が、民主的制度が巧妙に悪用され、形骸化されていることを知らせる警鐘のように思えるのです。

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東京都知事選における蓮舫氏起用を考える

2024年06月04日 11時43分46秒 | 日本政治
 戦後、日本国では、長らく「55年体制」と称された自民党一党優位体制が続いてきました。党利党略から社会党の村山富市氏に首相の椅子を譲ることはあっても、一貫して与党の座を自民党が独占してきたのです。しかしながら、自民党は、2009年8月において実施された総選挙にて大敗北を喫し、下野することとなります。翌9月に、70%を越えるとされた圧倒的な支持率を獲得した民主党政権が誕生し、悲願であった政権交代を実現させたのでした。

 国民の期待を一身に集め、華々しく登場した民主党政権ではあったのですが、政権発足後、ほどなくして同政権に対する失望感が国民の間で広がってゆきます。国民の多くは民主党政権に、旧態依然とした‘自民党政治’を刷新し、よりスマートで‘民主的’な政治の実現を思い描いていたのでしょう。しかしながら、現実には、時にして国民を犠牲に供する左派特有の独善的な理想主義や革新という名の破壊主義ばかりが目に付くようになり、期待感は一気に萎んでいったのです。かくして、政権交代とは、‘自民党にお灸を据えようとしたら火事になった’と揶揄されたように、国民にとりましては痛い教訓となったのです。

 もっとも、2009年に日本国内で起きた同政権交代が、世界権力が誘導した二頭作戦であった可能性を考慮しますと、最初からこの‘改悪シナリオ’は仕組まれていたのかも知れません。二項対立の構図の演出は、有権者の投票を、‘自らの自由意志に基づく自発的な選択’に見せかける常套手段です。如何なる悪しき政策が実行されても、‘選んだのは有権者であり、’全責任は、国民にある‘あるいは‘悪いのは選んだ国民’とする逃げ口上まで用意されているのですから、選挙全体を上部からコントロールし得る立場にある勢力にとりましては、民主主義の看板の下で外部から隠れた独裁的支配を実現できる、巧妙な手口であるとも言えましょう。

 さて、二頭作戦の視点から今般の都知事選挙を見ますと、マスメディアがアピールする小池百合子現知事vs.村田蓮舫氏の対立構図は、如何にも演出感が強く、今回も同作戦が実行されている様子が窺えます。しかしながら、過去の経験が現在の行動に影響を与えるとしますと、蓮舫氏の擁立は、二頭作戦の戦略的視点からしますと、必ずしも適切な判断ではなかったかもしれません。何故ならば、都民にあって過去の政権交代における失敗体験の記憶を呼び覚ましてしまうからです。

 蓮舫氏と言えば、民主党政権時代にあって、行政の無駄遣いをなくするとして鳴り物入りで始まった「事業仕分け」において、「二位じゃダメなんですか」の発言で知られています。結局、予算を削減されたにも拘わらず、仕分けの対象とされたスーパーコンミュータ-の「富岳」並びに小惑星探査機の「はやぶさ」が成果を挙げたことから、日本国の発展に尽くそうとする政治家としての姿勢や長期的な視点から評価する能力に疑問符が付くことになりました。また、2016年に二重国籍問題が発覚した際にも、国籍に関する自らの情報については積極的に開示しようとはしていませんでした。むしろ、蓮舫氏は、民主党への政権交代の負の部分を象徴する存在であったとも言えましょう。

 それでは、何故、マイナス要素を抱えていた蓮舫氏に白羽の矢が立ったのでしょうか。この点、ロンドンが参考となります。世界権力の拠点の一つであるイギリスの首都ロンドンでも、2016年からパキスタン系移民の子であるサディク・カーン氏が市長を務めているからです。先日の5月2日に実施された市長選においても当選を果たし、同氏の市長職は三期目に入りました。ロンドンの人口は、既に50%を越えて移民系に占められていますので、同氏の当選もあり得ないことではないのですが、グローバルな観点から各地の拠点を押さえるネットワーク型の支配を目指す世界権力としましては、国家や首都のトップには、移民系の人物を配置したいのでしょう(イギリスでは、インド系のスナク首相も誕生・・・)。

移民系の政治家をトップに就ける手段として、有権者を二者択一に追い込む二頭作戦は極めて効果的です。しかしながら、日本国の場合には、民主党への政権交代が悪夢であったために、蓮舫氏の起用は裏目に出るかも知れないと思うのです(つづく)。

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レプリコン型ワクチンが示唆するコロナ禍の虚偽性

2024年06月03日 12時11分29秒 | 国際政治
 他の人が二度目に同じ事をしようとした時に、初回時の虚偽に気がついてしまうことは、ままあることです。このため、科学の世界では、如何に画期的な発見や発明であっても、厳格に再現性が求められるのですが、レプリコン型ワクチンも、この事例に含まれるように思えます。もっとも、この場合、遺伝子工学のテクノロジーにおける‘二度目’ではなく、新型ワクチンの開発・製造・販売、すなわち、新技術を用いた製品の市場への投入に際しての‘二度目’です。

 中国武漢市にあって未知のウイルスであったCovid19による感染症の拡大が始まったのが2019年末であり、WHOのテドロス事務局長が全世界の諸国に向けてパンデミックを宣言したのが、2020年1月30日のことでした。その後、各国の製薬会社は、新型コロナウイルス感染症の拡大防止を目的として、ワクチンの開発を急ぐことになります。そして、ワクチン開発競争に製薬各社が鎬を削る中、‘救世主’の如くに登場してきたのが、mRNAワクチンという、最先端の遺伝子工学技術を用いた新しいタイプのワクチンであったのです。

 mRNAワクチンの開発に当たっては、他国他者に大きく水をあけて米英の製薬会社が先行しました。逸早く、イギリスのアストラゼネカ社やアメリカのファイザー社並びにモデルナ社等が、新型コロナウイルスに対する同ワクチンの開発に成功しています。その一方で、コロナ禍の拡大による感染者、重症者、死亡者の増加と医療崩壊への危機感から、各国政府は、正式な承認に先立ってmRNAの使用を緊急に許可したのです。例えば、2020年の12月11日には、アメリカのFDAがファイザー社に対して緊急使用許可を与えています(因みに、正式の承認は2021年8月24日・・・)。コロナ禍が始まってから僅か1年足らずで、新型ワクチンが実際に使用される運びとなったのです。

 通常、ワクチンの開発には、数年から数十年の月日が要するとされており、未知の感染症発生から1年を経ずして承認が下りたたことは、異例中の異例のことでした。ワクチンとは、医療行為として使用される医薬品とは異なり、健康な人々を対象としますので、安全性を十分すぎるほどに確認する必要があるからです。しかしながら、‘緊急事態’が早期のワクチン承認を正当化する一方で、医科学的な見地からも、mRNAワクチンについては、既にSARSやMARS等の感染防止、並びに、がん治療等の新たなアプローチとして研究が進んでいた点などが挙げられ、安全性に関する懸念はないと説明されたのです。日本国政府を含め、各国政府とも、この立場からワクチン接種プロジェクトを、強力に‘上から’強力に推進することとなったのです。

 公衆衛生を管掌する当局による早期承認については、確かに、一見、上記の説明は説得力があるようにも思えます。しかしながら、新種のテクノロジーの安全性とワクチンの製造・販売とは、別次元の問題です。冒頭で述べた‘二度目’とは、まさに、後者のプロセスに関するものです。日本国の厚生労働省によるレプリコン型のワクチンの最初の承認は、昨年2023年11月28日のことなのですが、実際に、同タイプのワクチンが製造され、販売に至るには、早くても今年、即ち2024年の秋頃に予定されているからです。たとえ当局からワクチンとして承認されたとしても(もちろん、承認が早すぎるとの批判がある)、実際の使用までに1年余りを要するのは、製造機械や工場を発注・建設したり、販路を確保するなどの作業を要するからです。承認の時期と使用の時期が同時となることは、本来、あり得ないことなのです。

 ところが、初回のmRNAワクチンのケースを見ますと、上述したように緊急使用の許可と凡そ同時に国民へのワクチン接種のみならず、海外諸国への輸出も始まっています。日本国でも、2021年2月には、厚労省の承認の下でワクチンの接種が開始されました。パニックに陥りますと、正常な認識も判断も難しくなるのですが、今に至り、冷静になって考えてみますと、製薬各社が、輸出を可能とするほどの大量のワクチンを緊急承認と同時に製造できたとしますと、これは、あまりにも不自然です。先ずもって、大量生産可能は製造機器からして設計し、一から組み立てなければならないのですから。細かな各部品の発注から納品までの時間を考えましても、これは、殆ど不可能に近いことです。

 となりますと、ここで推測されるのは、緊急承認、あるいは、コロナ禍の発生に先だって既にmRNAワクチンの大量生産体制、即ち、製造装置の設計から工場の建設至るまでの全ての工程が済んでおり、それ故に、承認と同時に大量に供給することができた、というものです。何処かの倉庫で秘密裏に保管されていたのかもしれませんし、あるいは、スイッチを入れた瞬間から膨大な数の製造機械が一斉に稼働し、mRNAワクチンを大量に生産したのかもしれません(なお、生物兵器の使用に備え、米軍が準備していた可能性も・・・)。‘世界に先駆けて’と銘打ちながら登場してきた日本国のレプリコン型ワクチンは、図らずも、mRNAワクチンに関する虚偽を明るみにしたようにも思えるのです。

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