たーる「まん」→「まん」・おん・ざ・むーん(マン・オン・ザ・ムーン)
「―この結末をひとびとは理解し難いかもしれないが、認めざるを得ないはずだ」
といったのは、映画『セブン』(95)の犯罪者ジョン・ドゥだった。
自分で犯した罪を俯瞰してのことばだが、
時代が追いつかないというか、
早過ぎたというか、
理解され難い表現者というのが、ごく「たまーに」出現する。
ひとびとはそれを見て「わけがわからん」とはいうが、凡庸と捉えているわけでもない。
すごいとは思うけれど、そのよさは分からない―といったような評価で、ドゥのいうとおり、認めていることは確かなのだった。(もちろん、犯罪と表現はちがうけど)
映画の世界でいえば、映画文法を壊してみせたゴダールとか、登場するのが「やや」早過ぎた天才なのだと思う。
ただ「やや」と強調したように、時代が「ぎりぎり」追いついたようなところがあって、だからこそゴダールは「神」扱いされたのである。
「やや」ではなかったため、「ぎりぎり」にもならなかった表現者―は、挙げ切れないくらいに存在する。
ややこしい感じに書かず、単に「才能がない」と書けばいいじゃないかって?
まぁそうなのだが、ひょっとしたら来年「火がつく」かもしれない。
再評価ではなく、初めて評価されるかもしれない、本人の死後だというのに・・・。
コメディアンのアンディ・カウフマンは、そのうちのひとり。
理解者・支持者が居なかったわけではないが、評価されたとまではいえない孤高のアーティストである。
彼は癌が見つかるが、攻撃的な芸風が変わることはなく、常に新しい笑いを求め続ける―そんなイキザマを描いた映画が、『マン・オン・ザ・ムーン』。
『アマデウス』(84)で有名なミロシュ・フォアマンが99年に放った、切ない伝記映画だ。
カウフマンを演じたのはジム・キャリーで、コメディ中心だったキャリーの映画キャリアが変わりつつあったころの代表作となった。
この映画を観ても、カウフマンがどう面白いのか、才能があったのかなかったのか、よく分からない。
それはそうで、120分のドラマで説明がつくようであれば、彼はもっと人気を得られたはず。そうはならなかったから映画として面白いというか、
ただそれでも、いいな、羨ましいな、、、と思えるのは、カウフマンには理解者が居たということ。
それがリン夫人。
リンを演じるのは、フォアマン監督の気に入り女優、コートニー・ラヴ。
フォアマンの前作『ラリー・フリント』(96)でもキュートな魅力を振りまいていたが、実生活でもカート・コバーン(=ニルヴァーナ)の理解者であったことから、カウフマンを信じ抜こうとする姿が嘘っぽくない。
キャリーもコートニーも、見事というほかないキャスティングだった。
90年代のミロシュ・フォアマンは、なにがあっても信念を曲げぬふたりの男―ラリー・フリントと、カウフマン―を描いた。
その代償としてフリントは銃弾を受け、代償ではなかったが、カウフマンは癌によって短い一生を終える。
信念を曲げないということの格好よさ以上に、「その過酷さ」のほうが印象に残る。
迎合「しちゃった」ほうが、楽なのに。売れるかもしれないのに。
そうしなかったというより、そう出来なかったものの物語は、異端であることの難しさと切なさを教えてくれて、胸に刺さるのだった。
あすのしりとりは・・・
まん・おん・ざ・「むーん」→「むーん」りっとないと。
…………………………………………
本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
…………………………………………
明日のコラムは・・・
『シネマしりとり「薀蓄篇」(32)』
「―この結末をひとびとは理解し難いかもしれないが、認めざるを得ないはずだ」
といったのは、映画『セブン』(95)の犯罪者ジョン・ドゥだった。
自分で犯した罪を俯瞰してのことばだが、
時代が追いつかないというか、
早過ぎたというか、
理解され難い表現者というのが、ごく「たまーに」出現する。
ひとびとはそれを見て「わけがわからん」とはいうが、凡庸と捉えているわけでもない。
すごいとは思うけれど、そのよさは分からない―といったような評価で、ドゥのいうとおり、認めていることは確かなのだった。(もちろん、犯罪と表現はちがうけど)
映画の世界でいえば、映画文法を壊してみせたゴダールとか、登場するのが「やや」早過ぎた天才なのだと思う。
ただ「やや」と強調したように、時代が「ぎりぎり」追いついたようなところがあって、だからこそゴダールは「神」扱いされたのである。
「やや」ではなかったため、「ぎりぎり」にもならなかった表現者―は、挙げ切れないくらいに存在する。
ややこしい感じに書かず、単に「才能がない」と書けばいいじゃないかって?
まぁそうなのだが、ひょっとしたら来年「火がつく」かもしれない。
再評価ではなく、初めて評価されるかもしれない、本人の死後だというのに・・・。
コメディアンのアンディ・カウフマンは、そのうちのひとり。
理解者・支持者が居なかったわけではないが、評価されたとまではいえない孤高のアーティストである。
彼は癌が見つかるが、攻撃的な芸風が変わることはなく、常に新しい笑いを求め続ける―そんなイキザマを描いた映画が、『マン・オン・ザ・ムーン』。
『アマデウス』(84)で有名なミロシュ・フォアマンが99年に放った、切ない伝記映画だ。
カウフマンを演じたのはジム・キャリーで、コメディ中心だったキャリーの映画キャリアが変わりつつあったころの代表作となった。
この映画を観ても、カウフマンがどう面白いのか、才能があったのかなかったのか、よく分からない。
それはそうで、120分のドラマで説明がつくようであれば、彼はもっと人気を得られたはず。そうはならなかったから映画として面白いというか、
ただそれでも、いいな、羨ましいな、、、と思えるのは、カウフマンには理解者が居たということ。
それがリン夫人。
リンを演じるのは、フォアマン監督の気に入り女優、コートニー・ラヴ。
フォアマンの前作『ラリー・フリント』(96)でもキュートな魅力を振りまいていたが、実生活でもカート・コバーン(=ニルヴァーナ)の理解者であったことから、カウフマンを信じ抜こうとする姿が嘘っぽくない。
キャリーもコートニーも、見事というほかないキャスティングだった。
90年代のミロシュ・フォアマンは、なにがあっても信念を曲げぬふたりの男―ラリー・フリントと、カウフマン―を描いた。
その代償としてフリントは銃弾を受け、代償ではなかったが、カウフマンは癌によって短い一生を終える。
信念を曲げないということの格好よさ以上に、「その過酷さ」のほうが印象に残る。
迎合「しちゃった」ほうが、楽なのに。売れるかもしれないのに。
そうしなかったというより、そう出来なかったものの物語は、異端であることの難しさと切なさを教えてくれて、胸に刺さるのだった。
あすのしりとりは・・・
まん・おん・ざ・「むーん」→「むーん」りっとないと。
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