じーざす・くらいすと・すーぱーす「たー」→「たー」るまん(タールマン)
70年代症候群を自称する自分だけれど、もちろん現代の映画も愛しているし、ほんとうの青春時代だった80年代映画の「軽さ」も好き。
現代の映画にケチをつけるとするならば、「なんでもあり」感が「やや」薄れてきているところか。
ツクリモノを前提としている表現、しかし現実と無関係ではいられない―そこに映画の哀しき性というか宿命があるというのは理解しているつもりなのだが、ときどきムチャクチャな映画を観たくなる。
「時代」というのは、なかなかに厄介ですなぁ。
80年代の日本映画は「からっぽ」、米映画は「スピルバーグ印」と「ムチャクチャ映画」が量産されていた時代と評されている。
どうムチャクチャであったかは、ホラー映画を数本観れば納得出来るはず。
『バタリアン』(85)は、そんな一本である。
この映画のキャッチコピーのひとつが、「バイオSFX」というものだった。
なんだそれ、、、みたいな。
本編を観ても、どこがどうバイオなのかぜんぜん分からない。
流行語にしたかったのかもしれないが、この一作しか「バイオSFX」の煽り文句を使用していない―ということは、誰もこのことばを発しなかったと、そういうところが笑える。
笑えるのだが、この映画を生んだダン・オバノンが驚くほど、『バタリアン』は日本でスマッシュ・ヒットを記録したのだった。
同時上映はシュワ氏の『コマンドー』(85)で、(日本における)シュワ人気もこのあたりから着火する。
しかし当初は『バタリアン』目的で劇場に足を運んだ映画ファンのほうが「圧倒的に」多かったはず。
なぜこれほどまでに、『バタリアン』は当たったのか。
理由のひとつに挙げられるのは、日本の配給会社による「勝手なネーミング」である。
緑色のオバサン? だから、「オバンバ」。
コールタール漬けにされているクリーチャーだからと、「タールマン」。
なんと安易でゲスで、センスのかけらもないのだろう・・・と「現代では」思うが、当時はそれでよかった、、、というか、それ「が」よかった。
きょうの主人公は、そんな「タールマン」である。
このネーミングを「よし」としたのは前述したように「時代」だと思う、だってこのころ、日本では『キン肉マン』文化? が定着していたのだもの。
同じノリで「タールマン」と名づけてしまう配給会社のひとは「ヤケクソ」だったのかもしれないが、少年たちは新しい超人だと解釈し、スクリーンに向かって歓声を送ったというわけだ。
しかしこの「タールマン」、意外と弱い。
野球バットで首を吹っ飛ばされるという壮絶な最期を迎えるが、観客はそれでさえ「笑って受け止めた」のだった。
素敵に狂った、いい時代だったのだねぇ。。。(遠い目)
時代といえば、この映画のオチも「この時代だから許された」感がある。
核爆弾で一発、ドカン。
バタリアン(=これでさえ、日本が勝手に名づけている。なにがどうバタリアンなのか、ぜんっぜん分からない)だけでなく、まだ人間であり続けるキャラクターでさえも犠牲にしてしまうという大技。
シュワ氏の『トゥルーライズ』(94)における核爆弾は日本の一部観客に不快感を与えたとされているが、
『バタリアン』のダイナミックに過ぎるオチに文句をつけるひとは居なかった。
まぁ、あんな地獄絵図が展開されたとしたら、もうすべてを破壊するくらいしか解決策がないわけだから、大技ではあったけれど、けっして「技あり!」ではないんだよねー。
※これこれ、このテーマ曲ですよ。
次回のしりとりは・・・
たーる「まん」→「まん」・おん・ざ・むーん。
…………………………………………
本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
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明日のコラムは・・・
『キューティなQT』
70年代症候群を自称する自分だけれど、もちろん現代の映画も愛しているし、ほんとうの青春時代だった80年代映画の「軽さ」も好き。
現代の映画にケチをつけるとするならば、「なんでもあり」感が「やや」薄れてきているところか。
ツクリモノを前提としている表現、しかし現実と無関係ではいられない―そこに映画の哀しき性というか宿命があるというのは理解しているつもりなのだが、ときどきムチャクチャな映画を観たくなる。
「時代」というのは、なかなかに厄介ですなぁ。
80年代の日本映画は「からっぽ」、米映画は「スピルバーグ印」と「ムチャクチャ映画」が量産されていた時代と評されている。
どうムチャクチャであったかは、ホラー映画を数本観れば納得出来るはず。
『バタリアン』(85)は、そんな一本である。
この映画のキャッチコピーのひとつが、「バイオSFX」というものだった。
なんだそれ、、、みたいな。
本編を観ても、どこがどうバイオなのかぜんぜん分からない。
流行語にしたかったのかもしれないが、この一作しか「バイオSFX」の煽り文句を使用していない―ということは、誰もこのことばを発しなかったと、そういうところが笑える。
笑えるのだが、この映画を生んだダン・オバノンが驚くほど、『バタリアン』は日本でスマッシュ・ヒットを記録したのだった。
同時上映はシュワ氏の『コマンドー』(85)で、(日本における)シュワ人気もこのあたりから着火する。
しかし当初は『バタリアン』目的で劇場に足を運んだ映画ファンのほうが「圧倒的に」多かったはず。
なぜこれほどまでに、『バタリアン』は当たったのか。
理由のひとつに挙げられるのは、日本の配給会社による「勝手なネーミング」である。
緑色のオバサン? だから、「オバンバ」。
コールタール漬けにされているクリーチャーだからと、「タールマン」。
なんと安易でゲスで、センスのかけらもないのだろう・・・と「現代では」思うが、当時はそれでよかった、、、というか、それ「が」よかった。
きょうの主人公は、そんな「タールマン」である。
このネーミングを「よし」としたのは前述したように「時代」だと思う、だってこのころ、日本では『キン肉マン』文化? が定着していたのだもの。
同じノリで「タールマン」と名づけてしまう配給会社のひとは「ヤケクソ」だったのかもしれないが、少年たちは新しい超人だと解釈し、スクリーンに向かって歓声を送ったというわけだ。
しかしこの「タールマン」、意外と弱い。
野球バットで首を吹っ飛ばされるという壮絶な最期を迎えるが、観客はそれでさえ「笑って受け止めた」のだった。
素敵に狂った、いい時代だったのだねぇ。。。(遠い目)
時代といえば、この映画のオチも「この時代だから許された」感がある。
核爆弾で一発、ドカン。
バタリアン(=これでさえ、日本が勝手に名づけている。なにがどうバタリアンなのか、ぜんっぜん分からない)だけでなく、まだ人間であり続けるキャラクターでさえも犠牲にしてしまうという大技。
シュワ氏の『トゥルーライズ』(94)における核爆弾は日本の一部観客に不快感を与えたとされているが、
『バタリアン』のダイナミックに過ぎるオチに文句をつけるひとは居なかった。
まぁ、あんな地獄絵図が展開されたとしたら、もうすべてを破壊するくらいしか解決策がないわけだから、大技ではあったけれど、けっして「技あり!」ではないんだよねー。
※これこれ、このテーマ曲ですよ。
次回のしりとりは・・・
たーる「まん」→「まん」・おん・ざ・むーん。
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『キューティなQT』