第16部「デヴィッド・クローネンバーグの物語」~第4章~
前回までのあらすじ
「あのタイプライターが変身するものは、ある種万能の性的物件だ。想像可能なあらゆる性器がついているし、想像できないものもいくつか」(クローネンバーグ、『裸のランチ』のタイプライターについて語る)
「たとえば思春期、あるいは思春期以前に、同性愛に共鳴することはできましたか?」
「そう思う。ひどく女性的だった男に性的に魅きつけられたことが、一、二度あった。まるで女性に対してみたいだった」(デヴィッド・プレスキンの質問に答えるクローネンバーグ)
…………………………………………
92年の春―筆者は、夏の最高気温を出すことで知られる群馬県館林市から上京してきた。
東京への強い、強過ぎる憧憬。
それが裏切られることはなく、長渕の歌う「東京のバカヤロー」なんて意味は分からなかった。
都内の劇場そのすべてを制覇し、映画を浴びるように観た。
そうして、(当時)最先端の書物を揃えることで知られていた渋谷の『パルコブックセンター』に入り浸るようになる。
高校時代―父親の書庫から様々な書物を盗み、すべてとはいえないが、世界の名作と呼ばれるものの「おおよそ」を読破したと思い込んでいた筆者は、映画同様に「ふつうのものでは満足出来ない」ようになり、異端として名高い作品に触れることで「ひととはちがう」感をアピールしたかった、、、んだと思う。
その内訳は・・・
沼正三の『家畜人ヤプー』、
夢野久作の『ドグラマグラ』、
中井英夫の『虚無への供物』
マルケスの『百年の孤独』、
ジョイスの『ユリシーズ』、
そして、ウィリアム・バロウズによる『裸のランチ』。
サクサク読めたのは『ドグラマグラ』と『虚無への供物』くらいで、
『家畜人ヤプー』は自身の想像力が追いつかず読破までに1年ちかくを要し、
『ユリシーズ』はページは繰るには繰ったが内容が頭に入ってこず、
『裸のランチ』にいたっては、さっぱり意味が分からなかった。
文章を刻みに刻み、それをランダムに並べていくという「カットアップ」技法の先駆者である、
映画でいえばゴダールみたいなものだろう、
その日本語訳を読んだわけで、分からないの上塗りになってしまったのではないか―と、いまでは思う。
バロウズの作品はほかにもいくつか読んだが、なにひとつ共感出来るものはなかった―にも関わらず必死で読み込もうとしたのは、この「ちっともこころに引っかからない」小説をクローネンバーグが映画化し、その日本公開が迫っていたからであった。
映画『裸のランチ』(91…トップ画像)はしかし、小説の内容を映像化したものではなく、『裸のランチ』を執筆するバロウズを描いた作品だった。
なんとか小説版を読み終えた筆者は映画版を観て、あぁなるほど、小説の内容をそのまま映像化しても秩序のないイメージ映像をつなげたものにしかならない、クローネンバーグの判断は正しいのだなぁ、、、と感心したものだった。
…………………………………………
実際のバロウズは、ひととしては「最悪」だったとされる。
「ウィリアム・テルごっこ」によって妻を誤って射殺したり、ドラッグと同性愛に耽り日常は破綻、酩酊状態を引きずったままタイプライターに向かってモノを書いていた・・・から、あんな無秩序な文章スタイルになった―なんていう解釈までされるほどだった。
しかし、なぜか信奉者は多い。
数々のアーティストがバロウズについて言及、音楽ファンにとっては「カート・コバーンが絶賛しているから」名前だけは知っている日本人は多かったはずで、
映画ファンもバロウズ自身が『ドラッグストア・カウボーイ』(89)に出演したことなどから、「ヘンなジジイだけど、昔はすごかったみたい」なんていう認識はあった。
映画版でバロウズを演じるのは、なんとなく病んでいる感じがする―もちろん、褒めことばだ―ピーター・ウェラー、
その妻を、病んでいる感じがセクシーにも見えるジュディ・デイビスが演じている。
だがこの映画の真の主役は、喋るタイプライターだろう。
ホラーではなく、あくまでも幻覚描写。
だから怖さよりも、その自然な動きに感動さえしてしまうのである。
キューブリックはリンチに「あの奇形児は、どうやって創ったのか」と聞いたようだが、
筆者はクローネンバーグに「あのタイプライターは、どうやって動かしているのか」と聞きたい。
…………………………………………
結局、小説『裸のランチ』を読んでも、映画『裸のランチ』を観ても、得られるものはない。
ないが、表現の可能性という点において双方とも価値があるように思う。
読んで、観て時間を損したなんていう感想は抱かなかった。
むしろ攻めてるな、商業とは無縁のところで闘っているな、格好いいなと思った。
こんな映画ばかりになってしまうと、それはそれで厳しいが、「ひととはちがう」感をアピールしたい若造にとって、これは最適なテキストになるのではないか・・・なんていう風にも考えたりした。
全編を貫くのは、クローネンバーグによる「深いバロウズ愛」に尽きる。
そういう映画が、あってもいい。
一本くらいは―という条件はつけさせてもらうが。
93年―クローネンバーグはバロウズ愛を引きずったまま『エム・バタフライ』を発表、
簡単にいえばゲイの色恋モノだが、ジョン・ローンの女装姿が強烈で、そのインパクトに物語が負けてしまっているような気がした。
96年―J・G・バラードによる近未来「変態」小説『クラッシュ』を映画化。
交通事故によって性的快楽を得るひとびとを描き、その「世も末」感が抜群だった。
このころ、たしか『キネマ旬報』だったと思うが、ある識者が「クローネンバーグは、壊れていると思う」と書いていた。
確かに。
もう少し誤解なきようにいえば、
一貫して、正しく壊れている―のだと思う。
壊れたものから見れば、世界はそんな風に映っているのだろう。
つまり「世も末」に。
ただ悲観的ではないところが、この監督の面白いところではある。
…………………………………………
つづく。
次回は、9月上旬を予定。
…………………………………………
本シリーズでは、スコセッシのほか、デヴィッド・リンチ、スタンリー・キューブリック、ブライアン・デ・パルマ、塚本晋也など「怒りを原動力にして」映画表現を展開する格闘系映画監督の評伝をお送りします。
月1度の更新ですが、末永くお付き合いください。
参考文献は、監督の交代時にまとめて掲載します。
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本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
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明日のコラムは・・・
『毎日が、夏休み』
前回までのあらすじ
「あのタイプライターが変身するものは、ある種万能の性的物件だ。想像可能なあらゆる性器がついているし、想像できないものもいくつか」(クローネンバーグ、『裸のランチ』のタイプライターについて語る)
「たとえば思春期、あるいは思春期以前に、同性愛に共鳴することはできましたか?」
「そう思う。ひどく女性的だった男に性的に魅きつけられたことが、一、二度あった。まるで女性に対してみたいだった」(デヴィッド・プレスキンの質問に答えるクローネンバーグ)
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92年の春―筆者は、夏の最高気温を出すことで知られる群馬県館林市から上京してきた。
東京への強い、強過ぎる憧憬。
それが裏切られることはなく、長渕の歌う「東京のバカヤロー」なんて意味は分からなかった。
都内の劇場そのすべてを制覇し、映画を浴びるように観た。
そうして、(当時)最先端の書物を揃えることで知られていた渋谷の『パルコブックセンター』に入り浸るようになる。
高校時代―父親の書庫から様々な書物を盗み、すべてとはいえないが、世界の名作と呼ばれるものの「おおよそ」を読破したと思い込んでいた筆者は、映画同様に「ふつうのものでは満足出来ない」ようになり、異端として名高い作品に触れることで「ひととはちがう」感をアピールしたかった、、、んだと思う。
その内訳は・・・
沼正三の『家畜人ヤプー』、
夢野久作の『ドグラマグラ』、
中井英夫の『虚無への供物』
マルケスの『百年の孤独』、
ジョイスの『ユリシーズ』、
そして、ウィリアム・バロウズによる『裸のランチ』。
サクサク読めたのは『ドグラマグラ』と『虚無への供物』くらいで、
『家畜人ヤプー』は自身の想像力が追いつかず読破までに1年ちかくを要し、
『ユリシーズ』はページは繰るには繰ったが内容が頭に入ってこず、
『裸のランチ』にいたっては、さっぱり意味が分からなかった。
文章を刻みに刻み、それをランダムに並べていくという「カットアップ」技法の先駆者である、
映画でいえばゴダールみたいなものだろう、
その日本語訳を読んだわけで、分からないの上塗りになってしまったのではないか―と、いまでは思う。
バロウズの作品はほかにもいくつか読んだが、なにひとつ共感出来るものはなかった―にも関わらず必死で読み込もうとしたのは、この「ちっともこころに引っかからない」小説をクローネンバーグが映画化し、その日本公開が迫っていたからであった。
映画『裸のランチ』(91…トップ画像)はしかし、小説の内容を映像化したものではなく、『裸のランチ』を執筆するバロウズを描いた作品だった。
なんとか小説版を読み終えた筆者は映画版を観て、あぁなるほど、小説の内容をそのまま映像化しても秩序のないイメージ映像をつなげたものにしかならない、クローネンバーグの判断は正しいのだなぁ、、、と感心したものだった。
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実際のバロウズは、ひととしては「最悪」だったとされる。
「ウィリアム・テルごっこ」によって妻を誤って射殺したり、ドラッグと同性愛に耽り日常は破綻、酩酊状態を引きずったままタイプライターに向かってモノを書いていた・・・から、あんな無秩序な文章スタイルになった―なんていう解釈までされるほどだった。
しかし、なぜか信奉者は多い。
数々のアーティストがバロウズについて言及、音楽ファンにとっては「カート・コバーンが絶賛しているから」名前だけは知っている日本人は多かったはずで、
映画ファンもバロウズ自身が『ドラッグストア・カウボーイ』(89)に出演したことなどから、「ヘンなジジイだけど、昔はすごかったみたい」なんていう認識はあった。
映画版でバロウズを演じるのは、なんとなく病んでいる感じがする―もちろん、褒めことばだ―ピーター・ウェラー、
その妻を、病んでいる感じがセクシーにも見えるジュディ・デイビスが演じている。
だがこの映画の真の主役は、喋るタイプライターだろう。
ホラーではなく、あくまでも幻覚描写。
だから怖さよりも、その自然な動きに感動さえしてしまうのである。
キューブリックはリンチに「あの奇形児は、どうやって創ったのか」と聞いたようだが、
筆者はクローネンバーグに「あのタイプライターは、どうやって動かしているのか」と聞きたい。
…………………………………………
結局、小説『裸のランチ』を読んでも、映画『裸のランチ』を観ても、得られるものはない。
ないが、表現の可能性という点において双方とも価値があるように思う。
読んで、観て時間を損したなんていう感想は抱かなかった。
むしろ攻めてるな、商業とは無縁のところで闘っているな、格好いいなと思った。
こんな映画ばかりになってしまうと、それはそれで厳しいが、「ひととはちがう」感をアピールしたい若造にとって、これは最適なテキストになるのではないか・・・なんていう風にも考えたりした。
全編を貫くのは、クローネンバーグによる「深いバロウズ愛」に尽きる。
そういう映画が、あってもいい。
一本くらいは―という条件はつけさせてもらうが。
93年―クローネンバーグはバロウズ愛を引きずったまま『エム・バタフライ』を発表、
簡単にいえばゲイの色恋モノだが、ジョン・ローンの女装姿が強烈で、そのインパクトに物語が負けてしまっているような気がした。
96年―J・G・バラードによる近未来「変態」小説『クラッシュ』を映画化。
交通事故によって性的快楽を得るひとびとを描き、その「世も末」感が抜群だった。
このころ、たしか『キネマ旬報』だったと思うが、ある識者が「クローネンバーグは、壊れていると思う」と書いていた。
確かに。
もう少し誤解なきようにいえば、
一貫して、正しく壊れている―のだと思う。
壊れたものから見れば、世界はそんな風に映っているのだろう。
つまり「世も末」に。
ただ悲観的ではないところが、この監督の面白いところではある。
…………………………………………
つづく。
次回は、9月上旬を予定。
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本シリーズでは、スコセッシのほか、デヴィッド・リンチ、スタンリー・キューブリック、ブライアン・デ・パルマ、塚本晋也など「怒りを原動力にして」映画表現を展開する格闘系映画監督の評伝をお送りします。
月1度の更新ですが、末永くお付き合いください。
参考文献は、監督の交代時にまとめて掲載します。
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本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
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明日のコラムは・・・
『毎日が、夏休み』