北野武がイマヘイの『うなぎ』(97)を観て、
「よくあんなベッドシーンを描けるよね。オイラには無理」
と評したことがある。
妻殺害シーンにつながる、浮気現場(後背位)を描いた冒頭を指してのことだろう。
暴力をストレートに描く監督が、そんなこといってる―面白いなって思った。
確かに、北野映画に際立ったベッドシーンはない。
からみがないわけではない、
川上麻衣子は犯され、武も「俳優たけし」としてカーセックスしてみせたり、京野ことみが頑張って脱いでいたりする。
するのだが、作品全体で捉えた場合、それらはけっして印象に残るものではない。
暴力描写のほうがはるかに鮮烈で、
あぁ暴力の監督だからといって、セックスの監督でもある、、、というわけではないのだなと思った。
暴力とセックスって究極的には同義語のような気がしていたので、そのことに気づいたときはちょっと驚いた。
ふたつの要素とも際立つ描写をみせる監督といえば、デヴィッド・リンチか。
暴力で流れる血、セックスで流れる血、そのどちらも鮮烈なのだもの。
石井隆もいいが、こういう「どっちもいけるよ」という監督、意外と少ない。
たとえばQTタランティーノ。
本人が脚本のみを担当し、演出をほかの監督(=トニー・スコット、オリバー・ストーン)に任せた場合、パトリシア・アークウェットやジュリエット・ルイスによる濡れ場が「ねっとり」描かれ、観客を楽しませてくれる。
だが本人が監督をした場合、ブリジッド・フォンダとデ・ニーロの「唐突なからみ」というのはあったが、濡れ場は「うまいこと」というか、わざと―きっと、わざとにちがいない―省かれている。
「わざと」と記したように、
QTの場合は得手不得手ではない気がするが、あきらかに不得手なのだろうな、、、と思わせる監督がひとり。
わが神、スコセッシだ。
神に信者がケチつけていいのかと思うが、
少なくとも国内における信仰度? は自分がいちばんのはず? なので、自分だけ特例とする。
あれだけ刺激的な暴力描写を展開出来る天才でも、セックスは苦手。
本人の私生活は知らんよ、そういう意味じゃなくて・・・
『グッドフェローズ』(90)にも『ケープフィアー』(91)にも『ギャング・オブ・ニューヨーク』(2002)にも濡れ場はあるのに、どうもパッとしない。
パッと、、、というか、繰り返しになるが、暴力描写の鮮烈さに比べると「あまりにもフツー」で、まったく印象に残らないのである。
QTのように、わざと?
いや、こればっかりはそうではなく、苦手なんだと信者は解釈した。
じゃあ描かなければいいのだが、物語の都合上そういうわけにもいかない。
デ・ニーロの指をしゃぶってみせるジュリエット・ルイス(=『ケープフィアー』)はよかったが、
あとデ・ニーロのズボンを下ろそうとするジョディもよかったが、
裸の男女がアンナコトコンナコトするシーンは、得意ではないのだね。
あくまでも信者による推測の話なのに、なんだか安心する自分。
あぁ天才でも、弱点くらいはあるんだと。
オオシマもいっている、「得手不得手があるんだから、それはしょうがない」。
弱点を克服する努力じゃなくって、「しょうがない」といってしまえるところが素敵でね、
今週、原稿ボツが多かった自分は励まされるのであった笑
※トップ画像のスコセッシとデ・ニーロは、テーマとは無関係だが、信頼を感じさせる、とてもいいショットだと思ったので。
動画は、自分のなかでは未だ北野映画の最高傑作だと思っているこれを。
…………………………………………
本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
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明日のコラムは・・・
『夏の終り』
「よくあんなベッドシーンを描けるよね。オイラには無理」
と評したことがある。
妻殺害シーンにつながる、浮気現場(後背位)を描いた冒頭を指してのことだろう。
暴力をストレートに描く監督が、そんなこといってる―面白いなって思った。
確かに、北野映画に際立ったベッドシーンはない。
からみがないわけではない、
川上麻衣子は犯され、武も「俳優たけし」としてカーセックスしてみせたり、京野ことみが頑張って脱いでいたりする。
するのだが、作品全体で捉えた場合、それらはけっして印象に残るものではない。
暴力描写のほうがはるかに鮮烈で、
あぁ暴力の監督だからといって、セックスの監督でもある、、、というわけではないのだなと思った。
暴力とセックスって究極的には同義語のような気がしていたので、そのことに気づいたときはちょっと驚いた。
ふたつの要素とも際立つ描写をみせる監督といえば、デヴィッド・リンチか。
暴力で流れる血、セックスで流れる血、そのどちらも鮮烈なのだもの。
石井隆もいいが、こういう「どっちもいけるよ」という監督、意外と少ない。
たとえばQTタランティーノ。
本人が脚本のみを担当し、演出をほかの監督(=トニー・スコット、オリバー・ストーン)に任せた場合、パトリシア・アークウェットやジュリエット・ルイスによる濡れ場が「ねっとり」描かれ、観客を楽しませてくれる。
だが本人が監督をした場合、ブリジッド・フォンダとデ・ニーロの「唐突なからみ」というのはあったが、濡れ場は「うまいこと」というか、わざと―きっと、わざとにちがいない―省かれている。
「わざと」と記したように、
QTの場合は得手不得手ではない気がするが、あきらかに不得手なのだろうな、、、と思わせる監督がひとり。
わが神、スコセッシだ。
神に信者がケチつけていいのかと思うが、
少なくとも国内における信仰度? は自分がいちばんのはず? なので、自分だけ特例とする。
あれだけ刺激的な暴力描写を展開出来る天才でも、セックスは苦手。
本人の私生活は知らんよ、そういう意味じゃなくて・・・
『グッドフェローズ』(90)にも『ケープフィアー』(91)にも『ギャング・オブ・ニューヨーク』(2002)にも濡れ場はあるのに、どうもパッとしない。
パッと、、、というか、繰り返しになるが、暴力描写の鮮烈さに比べると「あまりにもフツー」で、まったく印象に残らないのである。
QTのように、わざと?
いや、こればっかりはそうではなく、苦手なんだと信者は解釈した。
じゃあ描かなければいいのだが、物語の都合上そういうわけにもいかない。
デ・ニーロの指をしゃぶってみせるジュリエット・ルイス(=『ケープフィアー』)はよかったが、
あとデ・ニーロのズボンを下ろそうとするジョディもよかったが、
裸の男女がアンナコトコンナコトするシーンは、得意ではないのだね。
あくまでも信者による推測の話なのに、なんだか安心する自分。
あぁ天才でも、弱点くらいはあるんだと。
オオシマもいっている、「得手不得手があるんだから、それはしょうがない」。
弱点を克服する努力じゃなくって、「しょうがない」といってしまえるところが素敵でね、
今週、原稿ボツが多かった自分は励まされるのであった笑
※トップ画像のスコセッシとデ・ニーロは、テーマとは無関係だが、信頼を感じさせる、とてもいいショットだと思ったので。
動画は、自分のなかでは未だ北野映画の最高傑作だと思っているこれを。
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『夏の終り』