Cape Fear、in JAPAN

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『Cape Fear』…恐怖の岬、の意。

得手不得手

2013-08-30 00:30:00 | コラム
北野武がイマヘイの『うなぎ』(97)を観て、

「よくあんなベッドシーンを描けるよね。オイラには無理」

と評したことがある。

妻殺害シーンにつながる、浮気現場(後背位)を描いた冒頭を指してのことだろう。

暴力をストレートに描く監督が、そんなこといってる―面白いなって思った。

確かに、北野映画に際立ったベッドシーンはない。
からみがないわけではない、
川上麻衣子は犯され、武も「俳優たけし」としてカーセックスしてみせたり、京野ことみが頑張って脱いでいたりする。
するのだが、作品全体で捉えた場合、それらはけっして印象に残るものではない。
暴力描写のほうがはるかに鮮烈で、
あぁ暴力の監督だからといって、セックスの監督でもある、、、というわけではないのだなと思った。

暴力とセックスって究極的には同義語のような気がしていたので、そのことに気づいたときはちょっと驚いた。

ふたつの要素とも際立つ描写をみせる監督といえば、デヴィッド・リンチか。
暴力で流れる血、セックスで流れる血、そのどちらも鮮烈なのだもの。

石井隆もいいが、こういう「どっちもいけるよ」という監督、意外と少ない。

たとえばQTタランティーノ。

本人が脚本のみを担当し、演出をほかの監督(=トニー・スコット、オリバー・ストーン)に任せた場合、パトリシア・アークウェットやジュリエット・ルイスによる濡れ場が「ねっとり」描かれ、観客を楽しませてくれる。

だが本人が監督をした場合、ブリジッド・フォンダとデ・ニーロの「唐突なからみ」というのはあったが、濡れ場は「うまいこと」というか、わざと―きっと、わざとにちがいない―省かれている。

「わざと」と記したように、
QTの場合は得手不得手ではない気がするが、あきらかに不得手なのだろうな、、、と思わせる監督がひとり。

わが神、スコセッシだ。

神に信者がケチつけていいのかと思うが、
少なくとも国内における信仰度? は自分がいちばんのはず? なので、自分だけ特例とする。

あれだけ刺激的な暴力描写を展開出来る天才でも、セックスは苦手。
本人の私生活は知らんよ、そういう意味じゃなくて・・・

『グッドフェローズ』(90)にも『ケープフィアー』(91)にも『ギャング・オブ・ニューヨーク』(2002)にも濡れ場はあるのに、どうもパッとしない。

パッと、、、というか、繰り返しになるが、暴力描写の鮮烈さに比べると「あまりにもフツー」で、まったく印象に残らないのである。

QTのように、わざと?

いや、こればっかりはそうではなく、苦手なんだと信者は解釈した。

じゃあ描かなければいいのだが、物語の都合上そういうわけにもいかない。

デ・ニーロの指をしゃぶってみせるジュリエット・ルイス(=『ケープフィアー』)はよかったが、
あとデ・ニーロのズボンを下ろそうとするジョディもよかったが、
裸の男女がアンナコトコンナコトするシーンは、得意ではないのだね。

あくまでも信者による推測の話なのに、なんだか安心する自分。

あぁ天才でも、弱点くらいはあるんだと。


オオシマもいっている、「得手不得手があるんだから、それはしょうがない」。

弱点を克服する努力じゃなくって、「しょうがない」といってしまえるところが素敵でね、
今週、原稿ボツが多かった自分は励まされるのであった笑


※トップ画像のスコセッシとデ・ニーロは、テーマとは無関係だが、信頼を感じさせる、とてもいいショットだと思ったので。

動画は、自分のなかでは未だ北野映画の最高傑作だと思っているこれを。




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明日のコラムは・・・

『夏の終り』

コメント (1)
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