第17部「フランシス・フォード・コッポラの物語」~第1章~
「息子の作品で賞がいただけるなんて、これほどの幸福はない。息子には感謝している。しかし、私なくしては息子は存在さえしないんだ」(カーマイン・コッポラ、オスカー作曲賞受賞時のスピーチ)
「映画創りのほとんどの楽しさは、最初の段階にするリサーチと脚本を書く作業にある」(フランシス・フォード・コッポラ)
…………………………………………
公開中の米映画『パッション』を観て、監督ブライアン・デ・パルマの「変わらなさ」に安心したというか、感銘を受けた。
いや、いろいろ訂正。
変わっていないということはない、むしろサム・ライミと同様、様々なジャンル映画や「あろうことか」大作映画まで手がけ、さらに「それなりの結果」を残している。
ライミはホラー、デ・パルマはサスペンスの監督だと捉えられていたのは前世紀の話で、現代の若い映画ファンのあいだでは巨匠で通じる存在だろう。
ただ本人は息苦しさ? も感じているようで、ときどき「俺の本質は、ここにあるぜ」とでも主張するかのような小品を発表する。
『パッション』は、だから「回帰」と解釈したほうがいい。
キャリアのあいだに「回帰作」を挟むことによって、巨匠はバランスを保っている。
なんだデ・パルマって、なかなかに器用なヤツじゃないかと。
変わるひと、変わらないひと。
以前は変わらないひとこそ格好いいと感じたものだが、生きているとそうはいかないことが分かってくる。
「魂を売った」なんて表現もあるが、これはそうとう殺傷力のあることばで、こういわれたものは立ち直れないんじゃないか。
批判されて当然―と感じるものも居るには居るが、変わらないほうがおかしい・・・まぁ、おかしいとまでいうと語弊があるかもしれないけれど、その変化もあわせて表現者が生み出すものを受け止めたい。
「あいつは変わった」「魂を売った」よりも非情なことばがある。
それが、「あいつは終わった」もっと分かり易くいえば、「才能が枯れた」。
昔ほど熱心には読まなくなった小林よしのりの漫画『ゴーマニズム宣言』に、ギャグ漫画家ならではの素晴らしいワンカットがある。
才能について述べた章で、必死に原稿を描いている「老いた漫画家」のデスクに飲み物が置いてあって、そこに「一番絞りカス」と記されてあったのだ。
一番絞りカス―才能が枯れたとは、つまりそういうことだろう。
現在、映画界で「あいつは終わった」「才能が枯れた」「一番絞りのカスだ」などといわれているのは、誰か。
かなりの確率で、コッポラの名前が挙がってくることだろう。
…………………………………………
コッポラは終わった、一番絞りの「カスのカスだ」・・・それは、ほんとうだろうか。
かつてコッポラは、怪物だった。
天才でも異能でも鬼才でもなく、怪物。
怪物の創る映画もまた、怪物だった。
生物のような映画を創ったのはコッポラだけではない、だが息をする映画でも、それが怪物のように見えたのはコッポラの映画だけだった。
誰もがコッポラを恐れ、崇めた。
その意味でキューブリックやゴダールのように神格化された存在であったが、ふたりが神のままであり続けるのに対し、コッポラだけはそうはならなかった。
なぜか。
『ゴッドファーザー』の二作(72、74)、『地獄の黙示録』(79)を観て、「好き嫌いを抜きにして」こころを動かされないものは少ないだろう。
動かされないものは感情純麻といっていいほど、映画として特別な「ある高み」に達している。
この3つの「映画の怪物」と対峙したあとに・・・
スコセッシ×アレン×コッポラによるオムニバス『ニューヨーク・ストーリー』(89)のコッポラ・パート『ゾイのいない人生』や、
愛娘ソフィアの大根演技が一斉攻撃を受けた『ゴッドファーザー』の完結篇(90)、
『レインメーカー』(97)などを「ノンクレジット」で観たとしたら、あるいは「コッポラによるもの」と思わないかもしれない。
そのくらい、映像の密度というか、熱量というか、怪物性というか、そういうものに差がある。
あり過ぎる。
いや、はっきりいえば『ゴッドファーザー』完結篇は怪物ではない。
一般的なハリウッドの映画監督が撮った、一般的な大作でしかなかった。
ほとんどの映画ファンはこの映画を観て以降、「あぁ、かつてのコッポラはもう居ないのだ…」と結論づけたのだった。
…………………………………………
フランシス・フォード・コッポラ、現在74歳。
妹のタリア・シャリアは女優で、『ロッキー』シリーズ(76~)のエイドリアンとして知られる。
娘のソフィア・コッポラは映画監督として以外に、原宿では人気デザイナーとしても有名。
息子のロマンも寡作ではあるが映画監督をしていて、甥のニコラス・ケイジも含め、ハリウッドで影響力を持つファミリーであり続けている。
そう、ナンダカンダアアダコウダいって、コッポラ・ブランドは強い。
最近はワイン作りに凝りワイナリー経営などもしているが、映画史のある項目はコッポラひとりだけで記述出来てしまうほど、映画の可能性を広げたことは誰もが認めるところだろう。
怪物は、生まれながらにして怪物だったのか―その謎に、ひかりを当ててみようじゃないか。
…………………………………………
つづく。
次回は、11月上旬を予定。
※今月、コッポラは東京国際映画祭に参加するため、愛娘ソフィアと来日予定。
ソフィアは新作『ブリングリング』を引っさげて登場。
動画は、その予告編。
『ハリポタ』エマ・ワトソンが出ていることで、既に話題になっている。
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本シリーズでは、スコセッシのほか、デヴィッド・リンチ、スタンリー・キューブリック、ブライアン・デ・パルマ、塚本晋也など「怒りを原動力にして」映画表現を展開する格闘系映画監督の評伝をお送りします。
月1度の更新ですが、末永くお付き合いください。
参考文献は、監督の交代時にまとめて掲載します。
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本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
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明日のコラムは・・・
『マイ、カレンダーガール』
「息子の作品で賞がいただけるなんて、これほどの幸福はない。息子には感謝している。しかし、私なくしては息子は存在さえしないんだ」(カーマイン・コッポラ、オスカー作曲賞受賞時のスピーチ)
「映画創りのほとんどの楽しさは、最初の段階にするリサーチと脚本を書く作業にある」(フランシス・フォード・コッポラ)
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公開中の米映画『パッション』を観て、監督ブライアン・デ・パルマの「変わらなさ」に安心したというか、感銘を受けた。
いや、いろいろ訂正。
変わっていないということはない、むしろサム・ライミと同様、様々なジャンル映画や「あろうことか」大作映画まで手がけ、さらに「それなりの結果」を残している。
ライミはホラー、デ・パルマはサスペンスの監督だと捉えられていたのは前世紀の話で、現代の若い映画ファンのあいだでは巨匠で通じる存在だろう。
ただ本人は息苦しさ? も感じているようで、ときどき「俺の本質は、ここにあるぜ」とでも主張するかのような小品を発表する。
『パッション』は、だから「回帰」と解釈したほうがいい。
キャリアのあいだに「回帰作」を挟むことによって、巨匠はバランスを保っている。
なんだデ・パルマって、なかなかに器用なヤツじゃないかと。
変わるひと、変わらないひと。
以前は変わらないひとこそ格好いいと感じたものだが、生きているとそうはいかないことが分かってくる。
「魂を売った」なんて表現もあるが、これはそうとう殺傷力のあることばで、こういわれたものは立ち直れないんじゃないか。
批判されて当然―と感じるものも居るには居るが、変わらないほうがおかしい・・・まぁ、おかしいとまでいうと語弊があるかもしれないけれど、その変化もあわせて表現者が生み出すものを受け止めたい。
「あいつは変わった」「魂を売った」よりも非情なことばがある。
それが、「あいつは終わった」もっと分かり易くいえば、「才能が枯れた」。
昔ほど熱心には読まなくなった小林よしのりの漫画『ゴーマニズム宣言』に、ギャグ漫画家ならではの素晴らしいワンカットがある。
才能について述べた章で、必死に原稿を描いている「老いた漫画家」のデスクに飲み物が置いてあって、そこに「一番絞りカス」と記されてあったのだ。
一番絞りカス―才能が枯れたとは、つまりそういうことだろう。
現在、映画界で「あいつは終わった」「才能が枯れた」「一番絞りのカスだ」などといわれているのは、誰か。
かなりの確率で、コッポラの名前が挙がってくることだろう。
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コッポラは終わった、一番絞りの「カスのカスだ」・・・それは、ほんとうだろうか。
かつてコッポラは、怪物だった。
天才でも異能でも鬼才でもなく、怪物。
怪物の創る映画もまた、怪物だった。
生物のような映画を創ったのはコッポラだけではない、だが息をする映画でも、それが怪物のように見えたのはコッポラの映画だけだった。
誰もがコッポラを恐れ、崇めた。
その意味でキューブリックやゴダールのように神格化された存在であったが、ふたりが神のままであり続けるのに対し、コッポラだけはそうはならなかった。
なぜか。
『ゴッドファーザー』の二作(72、74)、『地獄の黙示録』(79)を観て、「好き嫌いを抜きにして」こころを動かされないものは少ないだろう。
動かされないものは感情純麻といっていいほど、映画として特別な「ある高み」に達している。
この3つの「映画の怪物」と対峙したあとに・・・
スコセッシ×アレン×コッポラによるオムニバス『ニューヨーク・ストーリー』(89)のコッポラ・パート『ゾイのいない人生』や、
愛娘ソフィアの大根演技が一斉攻撃を受けた『ゴッドファーザー』の完結篇(90)、
『レインメーカー』(97)などを「ノンクレジット」で観たとしたら、あるいは「コッポラによるもの」と思わないかもしれない。
そのくらい、映像の密度というか、熱量というか、怪物性というか、そういうものに差がある。
あり過ぎる。
いや、はっきりいえば『ゴッドファーザー』完結篇は怪物ではない。
一般的なハリウッドの映画監督が撮った、一般的な大作でしかなかった。
ほとんどの映画ファンはこの映画を観て以降、「あぁ、かつてのコッポラはもう居ないのだ…」と結論づけたのだった。
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フランシス・フォード・コッポラ、現在74歳。
妹のタリア・シャリアは女優で、『ロッキー』シリーズ(76~)のエイドリアンとして知られる。
娘のソフィア・コッポラは映画監督として以外に、原宿では人気デザイナーとしても有名。
息子のロマンも寡作ではあるが映画監督をしていて、甥のニコラス・ケイジも含め、ハリウッドで影響力を持つファミリーであり続けている。
そう、ナンダカンダアアダコウダいって、コッポラ・ブランドは強い。
最近はワイン作りに凝りワイナリー経営などもしているが、映画史のある項目はコッポラひとりだけで記述出来てしまうほど、映画の可能性を広げたことは誰もが認めるところだろう。
怪物は、生まれながらにして怪物だったのか―その謎に、ひかりを当ててみようじゃないか。
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つづく。
次回は、11月上旬を予定。
※今月、コッポラは東京国際映画祭に参加するため、愛娘ソフィアと来日予定。
ソフィアは新作『ブリングリング』を引っさげて登場。
動画は、その予告編。
『ハリポタ』エマ・ワトソンが出ていることで、既に話題になっている。
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本シリーズでは、スコセッシのほか、デヴィッド・リンチ、スタンリー・キューブリック、ブライアン・デ・パルマ、塚本晋也など「怒りを原動力にして」映画表現を展開する格闘系映画監督の評伝をお送りします。
月1度の更新ですが、末永くお付き合いください。
参考文献は、監督の交代時にまとめて掲載します。
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本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
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明日のコラムは・・・
『マイ、カレンダーガール』