そんぐふぉーゆーえす「えー」→「えー」あい(A.I.)
スピルバーグによるSF大作『A.I.』(2001)が「スカパー!」で放送されていて、久し振りにこの映画を観てみたが、やっぱりいいな、いろいろいわれた作品だけれど、このころのスピルバーグの映画って個人的には好きだ、と思った。
作品そのものへの感想は、初見当時と変わらない。
(1)やっぱりキューブリック版も観たかった
(2)スクラップ・ショウにおける、スピルバーグのサディズム演出が凄まじい
(3)人間を一切登場させないエンディングの異様さ
3項目とも映画好きのあいだでは話題になったことだが、とくに多くのものが口を揃えて発したのは(1)だろう。
元々『A.I.』は、巨匠スタンリー・キューブリックが温めていた企画だった。
原作の映画化が好き? なキューブリックは原作小説『スーパートイズ』を読んだ直後から映画化への準備を始めたとされている。
だがその時点では、水没するニューヨークなどの映像を表現するためのテクノロジーが追いついていなかった。
そこそこの映像ならば可能であったろう、けれどもそこは完璧主義で知られるキューブリックである、巨匠はテクノロジーの進歩を待つことにして、先に『フルメタル・ジャケット』(87)や『アイズ ワイド シャット』(99)を撮ることに決めた。
『アイズ ワイド シャット』完成以前から映画小僧のあいだでは「キューブリックが次に撮るのは、すごいSFらしい」という噂が流れていて、「『2001年』再び!」なんて盛り上がっていた(と記憶する)。
だからキューブリックの急死は、いろんな意味で堪えた。
訃報の直後に決定した「スピルバーグが代わりに撮る」という流れに、ファンは揺れた。
ネット社会の「完成前夜」だったと思う、だから、たとえばこれが現在のニュースであったとしたら、もっと大きな騒ぎになっていたかもしれない。
だがキューブリックの代打なんて、ほかに誰が務められるというのだろう。
スピルバーグしか、いねぇんじゃね? みたいな。
完成した映画は、けっして駄作ではない。
ないが、それでも敢えて映画小僧のほとんどが発したのだ、「やっぱりキューブリック版も観たかった」と。
近未来―。外見は人間と変わらないロボットが大量生産され、人間と共同生活を送っていた。
唯一の欠点は感情が欠けていることだが、共存とはいえ、人々をサポートするために造られたロボットに過ぎず、別段問題はなかった。だがある時、子供のロボットに、実験的に愛をプログラムする試みが初めて行われた。
不治の病を患う少年の代わりとして、ある夫婦に与えられたそのロボット少年は、次第に自らのアイデンティティに疑問を抱き始めるようになるが・・・というのが、『A.I.』(Artificial Intelligence=人工知能)の「おおよその」物語。
ただスピルバーグの興味がロボット少年の「母をたずねて……千里」的なところになかったのはあきらかで、
昔から一部で指摘されていた「人間嫌い」っぽい―あくまでも「っぽい」で、実際はどうか分からない―一面が強調されていて、そういう意味で自分は楽しめた、、、というか、スピルバーグを怖いと思った。
宣伝は「感動、感動!」を売りにしていたけれど、感動とは無縁。
それを痛感させられるのが(2)のスクラップ・ショウだろう。
感情のないロボットだから平気だ、という理屈でロボットを壊していくさまが娯楽として機能している歪みをこれでもかと描いている。
主人公の少年は助けられるが、そこでも感動は生まれない。
助けた人間たちは少年の見た目に「多少の」罪悪感を抱いただけであり、そのヒューマニズムはエセなのだ! とスピルバーグに突きつけられているように感じた。
極めつけは、(3)のエンディング。
異星人? とロボットと、ぬいぐるみ。
人間が、ひとりも登場しない。
キューブリックのほうが「ひとに優しい」エンディングを用意したのではないか・・・なんていうジョークをいうものが居たほど、このオチは容赦がないと思った。
「(これで感動させるなんて)スピルバーグは、やっぱりあざとい」なんて感想も聞かれたが、いやいや、コトはそう単純とは思えない、
スピルバーグに感動させようなんていう意図はなかったんじゃないか―このおぞましいSFを観る度にそう思うのだが、実際のところはどうなのだろうか。
あすのしりとりは・・・
えー「あい」→「あい」としゅくめいのいずみ。
…………………………………………
本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
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明日のコラムは・・・
『シネマしりとり「薀蓄篇」(54)』
スピルバーグによるSF大作『A.I.』(2001)が「スカパー!」で放送されていて、久し振りにこの映画を観てみたが、やっぱりいいな、いろいろいわれた作品だけれど、このころのスピルバーグの映画って個人的には好きだ、と思った。
作品そのものへの感想は、初見当時と変わらない。
(1)やっぱりキューブリック版も観たかった
(2)スクラップ・ショウにおける、スピルバーグのサディズム演出が凄まじい
(3)人間を一切登場させないエンディングの異様さ
3項目とも映画好きのあいだでは話題になったことだが、とくに多くのものが口を揃えて発したのは(1)だろう。
元々『A.I.』は、巨匠スタンリー・キューブリックが温めていた企画だった。
原作の映画化が好き? なキューブリックは原作小説『スーパートイズ』を読んだ直後から映画化への準備を始めたとされている。
だがその時点では、水没するニューヨークなどの映像を表現するためのテクノロジーが追いついていなかった。
そこそこの映像ならば可能であったろう、けれどもそこは完璧主義で知られるキューブリックである、巨匠はテクノロジーの進歩を待つことにして、先に『フルメタル・ジャケット』(87)や『アイズ ワイド シャット』(99)を撮ることに決めた。
『アイズ ワイド シャット』完成以前から映画小僧のあいだでは「キューブリックが次に撮るのは、すごいSFらしい」という噂が流れていて、「『2001年』再び!」なんて盛り上がっていた(と記憶する)。
だからキューブリックの急死は、いろんな意味で堪えた。
訃報の直後に決定した「スピルバーグが代わりに撮る」という流れに、ファンは揺れた。
ネット社会の「完成前夜」だったと思う、だから、たとえばこれが現在のニュースであったとしたら、もっと大きな騒ぎになっていたかもしれない。
だがキューブリックの代打なんて、ほかに誰が務められるというのだろう。
スピルバーグしか、いねぇんじゃね? みたいな。
完成した映画は、けっして駄作ではない。
ないが、それでも敢えて映画小僧のほとんどが発したのだ、「やっぱりキューブリック版も観たかった」と。
近未来―。外見は人間と変わらないロボットが大量生産され、人間と共同生活を送っていた。
唯一の欠点は感情が欠けていることだが、共存とはいえ、人々をサポートするために造られたロボットに過ぎず、別段問題はなかった。だがある時、子供のロボットに、実験的に愛をプログラムする試みが初めて行われた。
不治の病を患う少年の代わりとして、ある夫婦に与えられたそのロボット少年は、次第に自らのアイデンティティに疑問を抱き始めるようになるが・・・というのが、『A.I.』(Artificial Intelligence=人工知能)の「おおよその」物語。
ただスピルバーグの興味がロボット少年の「母をたずねて……千里」的なところになかったのはあきらかで、
昔から一部で指摘されていた「人間嫌い」っぽい―あくまでも「っぽい」で、実際はどうか分からない―一面が強調されていて、そういう意味で自分は楽しめた、、、というか、スピルバーグを怖いと思った。
宣伝は「感動、感動!」を売りにしていたけれど、感動とは無縁。
それを痛感させられるのが(2)のスクラップ・ショウだろう。
感情のないロボットだから平気だ、という理屈でロボットを壊していくさまが娯楽として機能している歪みをこれでもかと描いている。
主人公の少年は助けられるが、そこでも感動は生まれない。
助けた人間たちは少年の見た目に「多少の」罪悪感を抱いただけであり、そのヒューマニズムはエセなのだ! とスピルバーグに突きつけられているように感じた。
極めつけは、(3)のエンディング。
異星人? とロボットと、ぬいぐるみ。
人間が、ひとりも登場しない。
キューブリックのほうが「ひとに優しい」エンディングを用意したのではないか・・・なんていうジョークをいうものが居たほど、このオチは容赦がないと思った。
「(これで感動させるなんて)スピルバーグは、やっぱりあざとい」なんて感想も聞かれたが、いやいや、コトはそう単純とは思えない、
スピルバーグに感動させようなんていう意図はなかったんじゃないか―このおぞましいSFを観る度にそう思うのだが、実際のところはどうなのだろうか。
あすのしりとりは・・・
えー「あい」→「あい」としゅくめいのいずみ。
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明日のコラムは・・・
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