まんぷ「く」→「く」ろさわあきら(黒澤明)
自宅でのブルーレイあるいはDVD鑑賞で、新作に触れることはない。
いつも決まって、すでに観たことのある作品ばかりを選ぶ。
つまり、2度目3度目の鑑賞に堪え得る作品だけを流していると。
スコセッシと黒澤とリンチとイマヘイと。
大体、この4人の監督たちで8割を占めている。
スコセッシなら『タクシードライバー』(76)と『グッドフェローズ』(90)、
リンチなら『ツイン・ピークス』(90~91)、
イマヘイなら『豚と軍艦』(61)と『復讐するは我にあり』(79)、
そして黒澤なら『酔いどれ天使』(48)と『悪い奴ほどよく眠る』(60)と『天国と地獄』(63)。
リンチとイマヘイに関していえば、何度観ても面白いから観ている―これに尽きる。
スコセッシと黒澤に関していえば、その技術に感心したり打ちのめされたり圧倒されるから観ている―もっといえば、羨望と畏怖の対象、、、みたいなところがあるのだと思う。
たとえばそれは、漱石の『それから』にも通ずるところがあって。
朝日新聞で「再」掲載中だが、まもなく最終回を迎える。
自分は1日の掲載分を繰り返し繰り返し読んでいるのだが、その度に、絶望にも似た深くて暗い感動を覚える。
漱石の表現が完璧に過ぎて、もうイヤになってしまうのである。
その感覚が、スコセッシと黒澤の映画にはある。
つまり自分にとっての優れた映画や小説というものは、自分のことを「ちっぽけ」で「しょーもない」凡人であることを気づかせてくれる「技巧を放つ」作品であるということ。
自分と黒澤の出会いは、『乱』(85)であった。
父親に連れられて、場末の劇場で鑑賞した。
小学生であったからか、物語はよく分からなかったが、なんけすげー! と思った。
つづく『夢』(90)と『八月の狂詩曲』(91)は、自分の意思で前橋の劇場まで観に行った。
『夢』はゴッホ役でスコセッシが出ているし、映像も美しく、飽きることはなかった。
しかし『八月の狂詩曲』は、リチャード・ギアがヘンな日本語を喋っているし、すでにビデオで中期の傑作『生きものの記録』(55)に触れていたこともあって、感心しなかった。
つまり自分が映画小僧になったとき、すでに黒澤は晩年のひとであった。
だから高校時代にレンタルビデオ店に通い、「黒澤が、熱かったころ」の作品に触れた。
ビデオでもそのすごさは感じられたが、上京後、ミニシアターで企画される黒澤特集で初めてフィルム版と対峙し、その熱さにやられ「運よく、絶望することが出来た」のであった。
黒澤がすごいと思うところは、ふたつ。
<映像のダイナミズム>
『天国と地獄』における、身代金「受け渡し」ではなく「放り投げ」のシーンだとか。
『蜘蛛巣城』(57)と『用心棒』(61)のクライマックスだとか。
<緻密な脚本>
井上ひさしがいうように、『悪い奴ほどよく眠る』は冒頭で人間関係を簡潔に紹介する構造を取っている。
のちの物語をスムーズに進行させるこの技術に感心したコッポラは、『ゴッドファーザー』(72)で同じスタイルを用いたのであった。
主人公が「前半で死んでしまう」意表をつく『生きる』(52)に顕著だが、黒澤の脚本至上主義は徹底していて、ひとりより複数の「ひらめき」に期待していた。
だからほとんどの脚本を、「ふたり以上」で仕上げた。
信用のおけるパートナーが、周りに居た―黒澤の絶頂期はだから熱く、逆にいえば思うように新作を撮れなかったり、自死を試みたりした晩年の不幸は、三船や菊島隆三の不在によるところが大きかったのかな・・・単なる黒澤信者の自分は、そんな風に思うのであった。
※アルトマンやヴァーホーベンが黒澤を語る
あすのしりとりは・・・
くろさわあき「ら」→「ら」いくーだー。
…………………………………………
明日のコラムは・・・
『シネマしりとり「薀蓄篇」(132)』
自宅でのブルーレイあるいはDVD鑑賞で、新作に触れることはない。
いつも決まって、すでに観たことのある作品ばかりを選ぶ。
つまり、2度目3度目の鑑賞に堪え得る作品だけを流していると。
スコセッシと黒澤とリンチとイマヘイと。
大体、この4人の監督たちで8割を占めている。
スコセッシなら『タクシードライバー』(76)と『グッドフェローズ』(90)、
リンチなら『ツイン・ピークス』(90~91)、
イマヘイなら『豚と軍艦』(61)と『復讐するは我にあり』(79)、
そして黒澤なら『酔いどれ天使』(48)と『悪い奴ほどよく眠る』(60)と『天国と地獄』(63)。
リンチとイマヘイに関していえば、何度観ても面白いから観ている―これに尽きる。
スコセッシと黒澤に関していえば、その技術に感心したり打ちのめされたり圧倒されるから観ている―もっといえば、羨望と畏怖の対象、、、みたいなところがあるのだと思う。
たとえばそれは、漱石の『それから』にも通ずるところがあって。
朝日新聞で「再」掲載中だが、まもなく最終回を迎える。
自分は1日の掲載分を繰り返し繰り返し読んでいるのだが、その度に、絶望にも似た深くて暗い感動を覚える。
漱石の表現が完璧に過ぎて、もうイヤになってしまうのである。
その感覚が、スコセッシと黒澤の映画にはある。
つまり自分にとっての優れた映画や小説というものは、自分のことを「ちっぽけ」で「しょーもない」凡人であることを気づかせてくれる「技巧を放つ」作品であるということ。
自分と黒澤の出会いは、『乱』(85)であった。
父親に連れられて、場末の劇場で鑑賞した。
小学生であったからか、物語はよく分からなかったが、なんけすげー! と思った。
つづく『夢』(90)と『八月の狂詩曲』(91)は、自分の意思で前橋の劇場まで観に行った。
『夢』はゴッホ役でスコセッシが出ているし、映像も美しく、飽きることはなかった。
しかし『八月の狂詩曲』は、リチャード・ギアがヘンな日本語を喋っているし、すでにビデオで中期の傑作『生きものの記録』(55)に触れていたこともあって、感心しなかった。
つまり自分が映画小僧になったとき、すでに黒澤は晩年のひとであった。
だから高校時代にレンタルビデオ店に通い、「黒澤が、熱かったころ」の作品に触れた。
ビデオでもそのすごさは感じられたが、上京後、ミニシアターで企画される黒澤特集で初めてフィルム版と対峙し、その熱さにやられ「運よく、絶望することが出来た」のであった。
黒澤がすごいと思うところは、ふたつ。
<映像のダイナミズム>
『天国と地獄』における、身代金「受け渡し」ではなく「放り投げ」のシーンだとか。
『蜘蛛巣城』(57)と『用心棒』(61)のクライマックスだとか。
<緻密な脚本>
井上ひさしがいうように、『悪い奴ほどよく眠る』は冒頭で人間関係を簡潔に紹介する構造を取っている。
のちの物語をスムーズに進行させるこの技術に感心したコッポラは、『ゴッドファーザー』(72)で同じスタイルを用いたのであった。
主人公が「前半で死んでしまう」意表をつく『生きる』(52)に顕著だが、黒澤の脚本至上主義は徹底していて、ひとりより複数の「ひらめき」に期待していた。
だからほとんどの脚本を、「ふたり以上」で仕上げた。
信用のおけるパートナーが、周りに居た―黒澤の絶頂期はだから熱く、逆にいえば思うように新作を撮れなかったり、自死を試みたりした晩年の不幸は、三船や菊島隆三の不在によるところが大きかったのかな・・・単なる黒澤信者の自分は、そんな風に思うのであった。
※アルトマンやヴァーホーベンが黒澤を語る
あすのしりとりは・・・
くろさわあき「ら」→「ら」いくーだー。
…………………………………………
明日のコラムは・・・
『シネマしりとり「薀蓄篇」(132)』