がーるずむー「びー」→「ひー」ろーえいが(ヒーロー映画)
ヒーロー(英雄)より、アンチヒーローを好むという自分の嗜好・体質は、性格が曲がり? 始めた中学生のころに出来上がったか。
それまでは、ほかの少年少女と同じく、完全無欠のスーパーヒーローが好きだったのだと思う。
とはいっても、最も好きな仮面ライダーは「ストロンガー」なのだけれども。
ひとついえるのは、『タクシードライバー』(76)や『キャリー』(76)が好きという「70年代症候群」のひとは、大抵がアンチヒーローを好む傾向にあるということ。
ヒーロー映画の歴史については、イマサラ自分が説明するまでもないのではないかと。
ただ近年の特徴は、「完全無欠」ではなく「闇」や「穴」のあるキャラクターこそ支持される―というもので、だからこそ今夏上陸の『ダークナイト ライジング』(=トップ画像。ただこのシリーズの一大特徴として、悪役こそ注目されるというのがある)の期待値が高いのだろう。
最初から強いのは確かに格好いいのかもしれないけれど、感情移入はし難い。
強いが孤独なバットマンや、恋がうまくいかないスパイダーマン、『キック・アス』(2010)や『ゼブラーマン』(2003)も変種で、これを現代社会の反映と結ぶことも出来そうだが、そんなエラソーな視点で論じるのは柄ではないか。
そんなわけだから。
ここでは、ちょっとふつうではないヒーロー映画をいくつか挙げてみたい。
たとえば世紀の愚作と評される『カブキマン』(90)は、どうか。
B・C級映画を量産していたトロマ社がギャガやナムコの協力を得て制作された日米合作映画だが、とにかくキャラクター造形がひどい・・・と思ったら、
このデザインを創造したのは、批評家の江戸木純だった。
下手な日本語で「カブキマン、参上~!」というこのキャラクターの武器は、割り箸や下駄。
国辱モノという批判もあったが、このユルさは90年代の風潮に合っていた、、、のかもしれない。
スーパーマンの「いとこ」という設定で「なんとなく」制作してしまった珍品が、『スーパーガール』(84)。
きのうのコラムではないが・・・
ミニスカートというコスチュームだったことから「パンチラ」を期待したものだが、うまいこと? 見えなかった。
そんなつもりはなかったのに変身させられた、してしまった―という意味での王様は『ロボコップ』(87)だろうが、
事故により誕生した『ダークマン』(90)も忘れてはいけない。
80年代ホラー映画の裏テーマのひとつが「人種差別」だったというのは有名な話だが、
ミュータント(突然変異体)がヒーローになる最近の映画も、そんな背景があるのかもしれない。彼ら彼女らは、大抵が差別されているし。
差別されず陽気に戦っていた亀さんたち(=いまとなっては、なぜヒットしたのか分からない『ミュータント・タートルズ』(90)のこと)が、懐かしい。
時代で論じるなど柄ではない―といったものの、上に挙げた作品たちは80~90年制作のものばかりで、これは自分がその時代のことをよく知っている、、、というだけでは説明がつかないかもしれない。
ユルくて陽気なヒーローの時代は終わり、ヒーローさえ傷ついている深刻な空気が漂う―それが現代ということか。
いずれにせよ「設定」と「キャラクター」、それと「デザイン」が重要で、
自分もヒーローを創作してみたいという気持ちはあるが、なかなか思いつかない。
ただアンチヒーローを愛すると公言しておいて、いま夢中になっているのは陽気な週末ヒロインたち(=ももクロね)なわけで、この一貫性のなさに我ながら呆れているのであった。
あすのしりとりは、
ひーろーえい「が」→「か」にばりずむ(カニバリズム)。
…………………………………………
本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
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明日のコラムは・・・
『シネマしりとり「薀蓄篇」(6)』
ヒーロー(英雄)より、アンチヒーローを好むという自分の嗜好・体質は、性格が曲がり? 始めた中学生のころに出来上がったか。
それまでは、ほかの少年少女と同じく、完全無欠のスーパーヒーローが好きだったのだと思う。
とはいっても、最も好きな仮面ライダーは「ストロンガー」なのだけれども。
ひとついえるのは、『タクシードライバー』(76)や『キャリー』(76)が好きという「70年代症候群」のひとは、大抵がアンチヒーローを好む傾向にあるということ。
ヒーロー映画の歴史については、イマサラ自分が説明するまでもないのではないかと。
ただ近年の特徴は、「完全無欠」ではなく「闇」や「穴」のあるキャラクターこそ支持される―というもので、だからこそ今夏上陸の『ダークナイト ライジング』(=トップ画像。ただこのシリーズの一大特徴として、悪役こそ注目されるというのがある)の期待値が高いのだろう。
最初から強いのは確かに格好いいのかもしれないけれど、感情移入はし難い。
強いが孤独なバットマンや、恋がうまくいかないスパイダーマン、『キック・アス』(2010)や『ゼブラーマン』(2003)も変種で、これを現代社会の反映と結ぶことも出来そうだが、そんなエラソーな視点で論じるのは柄ではないか。
そんなわけだから。
ここでは、ちょっとふつうではないヒーロー映画をいくつか挙げてみたい。
たとえば世紀の愚作と評される『カブキマン』(90)は、どうか。
B・C級映画を量産していたトロマ社がギャガやナムコの協力を得て制作された日米合作映画だが、とにかくキャラクター造形がひどい・・・と思ったら、
このデザインを創造したのは、批評家の江戸木純だった。
下手な日本語で「カブキマン、参上~!」というこのキャラクターの武器は、割り箸や下駄。
国辱モノという批判もあったが、このユルさは90年代の風潮に合っていた、、、のかもしれない。
スーパーマンの「いとこ」という設定で「なんとなく」制作してしまった珍品が、『スーパーガール』(84)。
きのうのコラムではないが・・・
ミニスカートというコスチュームだったことから「パンチラ」を期待したものだが、うまいこと? 見えなかった。
そんなつもりはなかったのに変身させられた、してしまった―という意味での王様は『ロボコップ』(87)だろうが、
事故により誕生した『ダークマン』(90)も忘れてはいけない。
80年代ホラー映画の裏テーマのひとつが「人種差別」だったというのは有名な話だが、
ミュータント(突然変異体)がヒーローになる最近の映画も、そんな背景があるのかもしれない。彼ら彼女らは、大抵が差別されているし。
差別されず陽気に戦っていた亀さんたち(=いまとなっては、なぜヒットしたのか分からない『ミュータント・タートルズ』(90)のこと)が、懐かしい。
時代で論じるなど柄ではない―といったものの、上に挙げた作品たちは80~90年制作のものばかりで、これは自分がその時代のことをよく知っている、、、というだけでは説明がつかないかもしれない。
ユルくて陽気なヒーローの時代は終わり、ヒーローさえ傷ついている深刻な空気が漂う―それが現代ということか。
いずれにせよ「設定」と「キャラクター」、それと「デザイン」が重要で、
自分もヒーローを創作してみたいという気持ちはあるが、なかなか思いつかない。
ただアンチヒーローを愛すると公言しておいて、いま夢中になっているのは陽気な週末ヒロインたち(=ももクロね)なわけで、この一貫性のなさに我ながら呆れているのであった。
あすのしりとりは、
ひーろーえい「が」→「か」にばりずむ(カニバリズム)。
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明日のコラムは・・・
『シネマしりとり「薀蓄篇」(6)』