Cape Fear、in JAPAN

ひとの襟首つかんで「読め!」という、映画偏愛家のサイト。

『Cape Fear』…恐怖の岬、の意。

つまり奥行きなのですよ、奥行き。

2013-01-21 00:15:00 | コラム
新作映画やドラマ、小説については意識的に取り上げてこなかったが、ここのところ怒涛のごとくゲージツに触れているので、一気に紹介してみよう。


某日―。
つーか一昨日のことだが、テレビ朝日による黒澤のリメイクドラマ『野良犬』を観る。

あまりの酷さに終わらない拷問を受けている気分になった。

若い刑事が拳銃を盗まれた。
ベテラン刑事と組んで犯人を追う主人公はやがて、犯人もまた自分と同じ復員兵であることを知る―というのがオリジナルの筋。

「もはや戦後ではない」から復員兵同士という設定を同級生にした、、、ところまでは分かる。
でも理解出来るのはそこだけで、演者―江口洋介、永瀬正敏、ヒロスエ―が気の毒になるくらい安くてリアリティのない展開に、頭がくらくらしてきたのであった。

開局55周年だがなんだか知らないが、先にこっちを観て「オリジナルも、こんなもんなんだ」と思った若い映画小僧が現れたとしたら、どう責任取ってくれるんだ。


某日―。
ふだんは発表前に候補作すべてに触れておく芥川賞、今期だけは時間が取れず、ほぼ読んでいない状態だった。

というわけで、受賞作『abさんご』をソッコーで読んだ。

美しい!

受賞者が最高齢であったことから、そればかりが話題になってしまっているけれど、とりあえず本文にも触れてみないと。

横書きで平仮名多用の独特の文体は多少の違和感はあるが、慣れてくると気持ちよくなる。

読み終えた感想は、そりゃ、これは取るでしょう・・・だった。

商業作家をあきらめてコツコツ書いてきた受賞者には頭が下がるが、このひとを発掘した蓮實重彦はやっぱり凄いんだなと感心した。


某日―。
森美術館で開催されている会田誠の個展、『天才でごめんなさい』を鑑賞する。

エロと少女を描くことが多いひとなので気になってはいたものの、ちゃんと作品と対峙してみるのは初めてだった・・・が、ヤラレタのヒトコト。

残酷なファンタジーというか、この世界観は、やっぱり好きだ。


知らないひとのために代表作をリンクしておくが、公序良俗に反しているのかもしれないので、そういうものを見たくない・・・というひとは、クリックしてはダメよ。

これ


某日―。

テディベアと、いいトシこいた男が本気の殴り合いをする米産映画『テッド』を鑑賞する。

実際に上に記したシーンがハイライトではあるが、鍵はオタク的会話にあり、そういう意味ではこの映画も「タランティーノ以後」なのだと思う。

米産ポップカルチャーに造詣が深ければ深いほど楽しめる―そういう作品。


某日―。

日本産の3D映画『フラッシュバックメモリーズ 3D』を鑑賞する。

エポックメイキングな映画―というのは、たぶん、作品が発表されてから少し経過したあとに「あれがそうだったか」と気づくのが「ふつう」のような気がする。
ヒッチコックの名画やキューブリックの衝撃作はそんな風にして映画史に刻まれたはずだが、
この作品、触れた途端に「きっと、そうなる」という確信を持つことが出来た。

木管楽器ディジュリドゥを奏でるアーティスト、GOMA。
彼は交通事故により高次脳機能障害を患い、いま現在も記憶障害に苦しんでいる。
そんな彼のライヴ復活を追う、技ありのドキュメンタリーである。

「3D技術の特色を最も活かした映画」を挙げるとするならば、
この映画に出会うまではスコセッシの『ヒューゴ』(2011)であり、それはしばらく変わらないもの、、、だと勝手に決めつけていた。

の、だが。

GOMAの現在(前方)と過去(後方)を同一画面で表現してしまう手法は3Dならではで、そうか、こういうことも出来るのか! という大きな発見があった。

3Dというと、なんとなく「飛び出すもの」だと解釈しがちだが、じつは「奥行きを生み出すもの」であり、『フラッシュバックメモリーズ 3D』は、そこをうまく突く。


音楽好きは薦めなくても観にいくだろうが、
(ここ数年の)3D映画に「がっかりしたひと」も多いと聞くので、これを観ることを強く薦めておきたい。




…………………………………………

本館『「はったり」で、いこうぜ!!』

前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』

…………………………………………

明日のコラムは・・・

『にっぽん男優列伝(180)坂上忍』

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ときめきに死す

2013-01-20 04:51:17 | コラム
東京にも雪が積もった先週―自分は某所で6時間くらい雪かきをやっていた。

力仕事なら任せてくれい! という雰囲気? を年中漂わせている人間として気合は入るものの、慣れない作業であるからして、思う通りにコトは運ばない、悪戦苦闘していると、デリバリーヘルスのドライバーであろう、ケバイけどモノスゴ美人な女子を降ろした中年男性が自分の動きをじっとみている。

見せもんじゃねぇぞ。

・・・と少しイライラしたが、見られると火がつくところがあるので、ちょっとムキになってスコップを動かした。

男は5分経ってもじっと見ているまま。

おいおい、こっちも疲れちゃうよ。早く消えてくれないかな・・・と思っていると、ようやくどこかに歩き始めた。

・・・って、あれ、車には戻らずに歩き始めるの?

まぁいいや、とにかく視線がなくなったのだから。


数分後―男は再び現れる。
今度こそ車に戻るのかと思いきや、自分に近づいてきて「ひとりで、たいへんだねぇ」といいながら缶コーヒーを差し出した。

「・・・」
「どうぞ」
「あっ、すんません」
「こんな広いところ、ひとりでやんの?」
「まぁ、力しか取り柄がないもので」

男は笑って車に戻っていった。

なんだバカヤロウ、ちょっと感動するじゃないか。

真夜中の町田で起こった、「ちょっといい話」であった。


さて。
雪かきを終えたから、あとは自宅に帰還するだけ―なのだが、路面がたいへんなことになっていて、チャリの運転は出来ない。
無理すれば出来ないこともないが、自分の身体より愛車のほうが大切・・・そう考えて、チャリを押して帰ることにした。

ふつうに歩けば90分の距離、しかしきょうは120分くらいを要するだろうな。
憂鬱だな、でもしょうがない、早いとこ帰って自慰でもして温まろう。


町田街道に出ると、さすがにチャリを運転するものは居なかった。
皆が歩いている、滑りそうになりながら。

自分はランニングシューズを履いていた。
通気性はいい、、、かもしれないが、良過ぎて足は氷のよう。
靴底も雪対策を取ったモノではないから滑り易いはずなのだが、チャリが支えになってくれて、うまいこと前進出来た。

なるほどなるほど、これはありがたいじゃないかと。


前方に、通勤途中と思われる女子がひとり。
といっても、そこまで若くなく、たぶん、自分のふたつ下くらいのひと。

彼女は恐る恐る歩き、5分に1度くらい滑りそうになっていた。
だから歩く速度が、異常に遅い。

何度か信号で止まるため追いつき、それとなく彼女の顔を拝んでみる。

『ときめきに死す』(84)のころの、樋口可南子に似ている。

タイプではないが、こういうひともいいな、、、と思った。
エラソーに。

べつに急ぐ必要もないので、彼女を追い抜くことをせず、敢えて後方を歩く。

寒さ冷たさを忘れるため、くだらない想像をする。

彼女、滑らないだろうか。
で、転倒する直前に自分が抱きとめ、「ありがとうございます、助かりました」なんて展開にならないのだろうか。
そんな風にときめく展開があっても、いいのではないか。

とか、なんとか。


そうしたら15分後―。
彼女はほんとうに滑ってしまい、自分の居る後方へと倒れる・・・直前に抱きとめようとしたものの、
まずはチャリを寝かせ、そのあと彼女、、、とやったものだから、少しだけ間に合わず、自分が彼女に触れたのは、小さな身体を地面に強打したあとだった。

「大丈夫ですか」

こういうときって、痛さよりも恥ずかしさのほうが勝ってしまい、ひとは笑いがち。

だからだろう、彼女も笑いながら「はい大丈夫です、すいません、すいません」などという。


彼女を起こし、服についた雪を払ってあげ、あらためて「痛いとこ、ないですか」。

「・・・大丈夫、みたいです」
「よかった、お互い、気をつけましょうね」
「(笑顔)はい」

歩き出すふたり。

「どちらまで?」
「駅前です」
「じゃあ、もう少しですね。ふつうに歩ければ、、、の話ですけれど」
「そうですねー」
「大丈夫ですよ、今度はちゃんとキャッチしますから」

このヒトコトがいけなかったのだろうか、
彼女はそのあとは滑ることもなく、つまり、ときめきは生まれず、無事に駅前まで辿り着いた―という、ひとの不幸を期待した、しょーもない自分、、、という話である。


※なんか無情に、、、じゃなくて、無性に聴きたくなったので




…………………………………………

本館『「はったり」で、いこうぜ!!』

前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』

…………………………………………

明日のコラムは・・・

『つまり奥行きなのですよ、奥行き。』

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シネマしりとり「薀蓄篇」(28)

2013-01-19 00:15:00 | コラム
にこーるきっど「まん」→「まん」じ(卍)

大きな声でハーケンクロイツとはいえないが、卍固めとはいえる。

(「凸凹」と同様)記号みたいな漢字「卍」だが、(凸凹とはちがって)見た目の格好よさがあり、これをタトゥーにしているひとが居るのも「ちょっと」だけ分かるのであった。

文豪・谷崎潤一郎の小説である。

先日―谷崎が何度もノーベル文学賞の候補にあがっていたことを、新聞の報道で知った。
最終候補に残ったこともあり、ひょっとしたら川端康成より先に取っていたかもしれない・・・そう記事は結んでいて、あぁこのヘンタイオジサンでもよかったなぁ、、、なんて。

川端康成は乾いたヘンタイ、谷崎は湿ったヘンタイだと思う。
どちらも好きだが、友達になれそうなのは後者のほう。

『卍』は、そんな谷崎が28年に発表した同性愛の物語。

刺激的な内容ゆえ映像化を狙う表現者も多く、いままでに4度も制作されている。

64年、若尾文子と岸田今日子が共演したバージョン。
監督は増村保造で、脚本は新藤兼人。

83年、樋口可南子と高瀬春奈が共演したバージョン。
監督は横山博人。

98年、坂上香織と真弓倫子が共演したバージョン。
監督は服部光則。

2006年、秋桜子と不二子が主演したバージョン。
監督は井口昇。

ナボコフ小説の映画を例にあげるまでもなく、
フツーに考えれば「より現代にちかい」作品のほうが刺激的というか過激な描写が多用されるはず・・・なのだけれども、

過激さ=いやらしく見える

にはならないところが映像表現の面白さ・難しさであって、

樋口可南子も妖艶であったし、
秋桜子も悪くはなかったのだが、
よっつの作品でいちばん淫靡な感じがしたのは、最も古い64年のバージョンなのである。

若尾文子は想像がついたが、岸田今日子のいやらしさなんて、ちょっと想像の域を超えている。


さて。
ゲイの映画は数多く発表されているが、レズビアンの映画はひじょうに少ない。
AVの世界では、「定番」とされる一ジャンルにはなっているけれど。

数少ないレズビアン映画のなかからベストを選ぶとするならば、自分はリンチの『マルホランド・ドライブ』(2001)を挙げる。
ナオミ・ワッツとローラ・ハリング、ふたりとも美人であったし。ハダカもキレイだったし。

結局は美しさ?

断言はしないが、そういうところはあるのだと思う。
男でも女でも、やっぱり美しいものを見たいわけだし。

ウォシャウスキー兄弟の『バウンド』(96)と、シャーリーズ・セロン×クリスティーナ・リッチの『モンスター』(2003)も、よかったなぁ。

話を戻して。
ではなぜ、レズビアン映画は量産されないのか。

女性監督の絶対数が低過ぎる―ということに起因するのだろう。
もちろん男が描いていいわけだし、そもそも『卍』の原作者は、どこからどう見たってキッタネー男なのだった。

いや、こんな風に書いているけれど、もちろん谷崎のこと好きだよ。
同じ脚キチガイゆえ、仲間意識からキッタネーと評したわけ。


自分がプロデューサーであったら、
新鋭のタナダユキあたりに演出を任せ、松雪泰子と真木よう子を起用する―と考えるのだが、皆さんはどうだろうか。

ゾックゾクしねぇ?

自分は想像しただけでゾックゾクし、チンピクまでしちゃうのだが。


※いちばん新しいバージョンで





次回のしりとりは・・・まん「じ」→「じ」ーざす・くらいすと・すーぱーすたー。

…………………………………………

本館『「はったり」で、いこうぜ!!』

前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』

…………………………………………

明日のコラムは・・・

『ときめきに死す』

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シネマしりとり「薀蓄篇」(27)

2013-01-18 00:15:00 | コラム
にじのかなた「に」→「に」こーる・きっどまん(ニコール・キッドマン)

本年一発目のシネマしりとり、キレイどころでいってみよう。


ニコール・キッドマンは、現在45歳。

若いころより現在のほうが魅力的―というのは、ロリコン傾向にある自分のなかでは、まーーーーず、珍しいこと。

80年代後半―。
オーストラリアからやってきた若手の美形女優に触れたとき、お人形さんみたいだな、美人なのだろうけれど面白味がないな、トム・クルーズもつまらん女優に引っかかったものだ・・・なんて、高校生の映画小僧は思ったわけ。

佐々木希が「出たて」のころ、「なんか、よく出来たダッチワイフみたい」といったひとがいて「巧いこというなぁ!」と感心したが、その感覚に似ている。

演技そのものもブッキラボウというか、こころに響いてくるものがなかった。

しかし95年―お人形さんニコールは、唐突に化ける。

有名人になるためだったら、殺人だって厭わない―という『誘う女』は、そのくらいのインパクトがあった。

しかし、それでも。
べつにニコールが演技派に変身したわけではない、
この映画の成功はガス・ヴァン・サントの演出によるものであり、キャラクターにぴったりなニコールにオファーしたキャスティング・ディレクターのセンスによるものである・・・と、映画小僧はニコールの肢体に「勃起」しながら考えていた。

の、だが。

以降、ニコールの映画キャリアには、「基本的に」失敗作がなくなった。


大根ではなかったものの、上手とはいえなかった俳優が「ある日を境に」上手になったりする、、、そんなこと、あるのだろうか。

いやでも、ニコールのキャリアがそれを証明しているし。

だから、「ある」ということなのだろう。


97年―『ピースメーカー』でジョージ・クルーニーと共演、日本では「そこそこのヒット」で終わったが、個人的には好きなタイプの政治アクションだった。

99年―キューブリックの遺作となった『アイズ ワイド シャット』で、トムと共演。
賛否分かれた問題作だが、ニコールの最後の台詞「ファックしましょ」に納得した映画小僧も多かったにちがいない。

2001年―『ムーラン・ルージュ』で歌もいけることを証明する。
とにかく艶やかだった。

2002年―『めぐりあう時間たち』で、とうとうオスカーを手にする。
ヴァージニア・ウルフを演じたニコールに文句はなかったが、自分が協会員であれば共演したジュリアン・ムーアを推した・・・かもしれない。

飛躍して以降のキャリアを少しだけ書いたが、監督に恵まれていることが分かる。

もちろん本人の魅力あってこそ、、、だとは思うが、この美人女優にアンナコトコンナコトさせてみようという、野心的な監督が「持ちがちな」サディズムに火をつけるところがあるのかもしれない、ニコールというひとは。

その決定打が、ラース・フォン・トリアーによる『ドッグヴィル』(2003)だったのだと思う。

トリアーは「米国三部作」とかいっているが、なんのことはない、特殊な背景でニコールを「とことん」いじめてみる・・・そういう物語だった。
そうして、そんな物語にゾックゾクした映画小僧が沢山居た。

『オーストラリア』(2008)は「なんとなく」失敗してしまったものの、
近作『ラビット・ホール』(2010)で「きちんと」軌道修正し、哀しみにくれる主婦を好演している。


いい女優になったもんだ、ひとは変わるものだねぇと感慨を覚える映画小僧。

来日時に「一瞬だけ」見たことがあるが、「でけぇな!」と思った。
しかしスクリーンで対峙すると、それほど大きさを感じないのだよね。キャスリーン・ターナーとちがって笑

そこらへんも、日本人が好感を抱くところ、、、なのかもしれない。


※『ラビット・ホール』、音楽もえがった。





あすのしりとりは・・・
にこーる・きっど「まん」→「まん」じ。

…………………………………………

本館『「はったり」で、いこうぜ!!』

前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』

…………………………………………

明日のコラムは・・・

『シネマしりとり「薀蓄篇」(28)』

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オオシマとコヤマとアタシ

2013-01-17 00:15:00 | コラム
~追悼、大島渚~

20歳のころ、アルバイト先で彩子という女子大生と知り合いになった。

超のつく美人で活字好き、極端にエロな話でも付き合ってくれる理想の女子。

「いまパンツ見たでしょ?」
「見たというか、見えた。けっこう長い時間」
「何色だったか、分かった?」
「(頷く)」
「何色だった?」
「サーモンピンク」
「(笑う)正解、じゃあ今晩のオカズにしていいよ」

こんな具合である。

いまから思えば自分に訪れた(最初で最後だったかもしれない)モテ期で、彼女ともうひとりの女子ふたりによる「ダブル膝枕」を提供されたことがある。
しかもバイトの休憩中に。

なんて幸福な男なんだ自分は―と感動しつつチンピク100状態で膝枕を享受していたのだが、どうやっても4本の脚を同時に愛でることは出来ず、なんとなくもうひとりの女子の脚ばかりを攻めて? いた。
すると彩子は少し不機嫌になり、「あー、そう。いいんだ、あたしは」などという。
焦った自分は咄嗟に彼女の脚をぺろりと舐め、彼女はくすぐったいと笑った。

そんな「素敵な」彩子は坂口安吾と梶井基次郎を愛していて、もうそれだけでモノを見る目は信用出来たが、自分の書くシナリオにも深い興味を示してくれて、執筆した作品を全部読んでもらっていた。

彩子の批評は手厳しかったが、指摘することのすべてが的を得ていた。
自分は感心し、新作が出来上がるとまず最初に彼女に読んでもらうことにした。

彩子は鵠沼に住んでいた。

「―近くにね、大島渚が住んでるの」
「マジで?」
「うん、でもね、映画監督って儲からないのかな・・・って思っちゃうほど、小さな家だよ」
「まぁ、、、儲かるような映画は撮ってないしね」
「いい映画監督?」
「そりゃあ、もう」
「じつは一本も観てないんだ」
「あれ珍しい、彩ちゃんとしたことが」
「そうだよねー、ちょっと食わず嫌いなところがあるのかも」
「観たほうがいいと思う。とくに『愛のコリーダ』は、彩ちゃんなら分かる世界かと」
「『戦場のメリークリスマス』じゃないんだ?」
「一般的には代表作なんだろうけど、あれは大島さんじゃなくて、坂本龍一の代表作」
「ふーん。エッチなやつなんでしょ」
「まあね。それを神話にまで高めた映画」

「とりあえず行って、会ってみたいな」
「会って、どうするの?」
「そりゃ、持ち込むんだよシナリオを」
「・・・案内してあげようか?」

その数ヵ月後、彩子を案内人にして鵠沼までやってきた。

「あたしは部外者だから、ここまででいいよね?」
「オッケー、さんきゅう。こんど、飯奢るから」
「うなぎがいい!!」
「(苦笑)分かった分かった」


ハッとするほどの美人が、玄関に立っていた。

女優、小山明子である。

「―昔は沢山の映画青年が尋ねてきたけど、いまは珍しいのよ」
「そうですか」
「ニコニコしていて、あなた、得する顔してるのね」
「(苦笑)そうでしょうか」
「ごめんね、多摩からだと、2時間くらいはかかったんじゃない?」
「・・・まぁ、そのくらいでしょうか」
「いま主人ね、ちょっと体調が優れないので・・・」

97年4月の出来事だった。
オオシマはその1年前に脳出血で倒れ、闘病中だったのである。

見舞いの花束と、完成したばかりのシナリオと。
病人にシナリオはどうなのか・・・と思ったが、戦闘的な映画監督とともに戦ってきた夫人は「きっとよくなるから、シナリオは預かっておく」と笑って応えてくれた。

99年―3年にわたるリハビリを経て、オオシマは『御法度』で復活した。

かつてのような「吠える映画」ではなかったが、同性愛の視点から新撰組を切り取ってみせるところが、いかにもオオシマだなぁと感動したことを覚えている。
結局、これが遺作となった。


先日、新聞で『監督 大島渚&女優 小山明子』展が鎌倉で企画される―というニュースを読んだばかりで、「これは行かなきゃ」と思った矢先の訃報である。

衝撃というより、「結局、会えずに死んでしまった」という寂しさのほうが強い。


ラジオでは坂本龍一による映画音楽が流れている。
テレビニュースでも、代表作は『戦場のメリークリスマス』(83)といっている。

べつに否定するつもりはないが、なんとなく「こんなもんじゃ、ないんだけれどな・・・」と思ったり。


すぐに怒鳴り、しかし、よく笑うひと。
前者の印象が一般的だろうが、テレビのバラエティ番組でパイレーツ―だっちゅ~の―の存在に喜ぶ姿を見ると、単なる助平なオッサンじゃないかと親近感を抱いた。


多くのメディアが経歴などを載せるであろうから、敢えてここには記さない。

ただ、ひとつだけ。

自分の生涯ベストテンには、オオシマによる『絞死刑』(68)が入っている。
小松川女子高校生殺しを材に取ったブラック・コメディだが、「国家がすべて悪い、俺たちはなにがあっても、ゼッタイに無罪なんだ」といい切ってしまうオオシマはどうかしている。

この「どうかしている」がポイントで、自分だけであろうか、闇雲なエネルギーだけで撮られた映画というものに、こころを動かされてしまうのである。

だが最も繰り返し観たオオシマ映画は『絞死刑』ではなく、『愛のコリーダ』(76)のほう。

若松孝二の追悼文にも書いたが、阿部定事件を神話にまで高めた・・・だけでなく、なんというか、演者を含めた全員が戦っている―そこに打たれ、そうして羨ましくなったから。

映画制作は「本気の遊び」といわれるが、もちろんどんな映画の制作者も本気で作品と対峙しているであろうし、そう思いたい。
思いたいが、その本気度がこれほど伝わってくる映画もないのではないか、、、『愛のコリーダ』を観返す度に、強くそう思う。

オオシマはスタッフやキャストを「ゲバラたち」と呼ぶ。
同胞や同志、戦友ではなく「ゲバラ」と。

戦う映画監督は沢山のゲバラたちを得て、戦う映画を沢山創ってきた―ほとんど戦友と同じ意味だが、えらく格好いい。えらく羨ましい。

だから自分はオオシマ映画を観ると、まず「その絆」に感動するのだった。

ハッとするほど美しい夫人が、ともに戦っていた。
野坂昭如と殴りあったときも、倒れたときも、彼女は常に寄り添っていた。

オオシマのことを考えると、同時にコヤマのことも頭に浮かぶ。
男子として映画小僧として、やっぱりこれほど羨ましい関係性はない。


ところで彩ちゃん、『愛のコリーダ』は観たのかな?

いい奥さん、やってますか。


大島渚、2013年1月15日死去、享年80歳。
合掌。


※愛の亡霊




…………………………………………

本館『「はったり」で、いこうぜ!!』

前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』

…………………………………………

明日のコラムは・・・

『シネマしりとり「薀蓄篇」(27)』

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする