Cape Fear、in JAPAN

ひとの襟首つかんで「読め!」という、映画偏愛家のサイト。

『Cape Fear』…恐怖の岬、の意。

カタギ

2017-01-26 00:10:00 | コラム
松方弘樹の追悼文、、、と見せかけて、きょうは、そうじゃないのだけれども。。。


当時の俳優さん、みんながすごかったのか、
あるいは、いま活躍する俳優さんがダメダメなのか、
いやいや、当時「たまたま」そういうツラの俳優さんが集まってしまった? のか。

そこいらへんは分からないが、『仁義なき戦い』(73)のシリーズとかに触れると、出てくるひと全員が「俳優ではなく、あっちの世界のホンモノ」にしか見えないっていう。

どう考えても、カタギじゃない。

映画としては理想の形、現場も迫力があったんじゃないだろうか。

とくに、松方弘樹と梅宮辰夫がすごかった。


じつは・・・と前置きするほどには深刻でも大きな話でもないのだが。

自分も、よく「カタギじゃないよね」と評される。


スーツを着ることが多くなって。

やや高めのものを新調したのだが、シュッとしたシングル主流の現代にあって、頑なにダブル仕様である。
自由業といえば自由業なので、シャツは黒系だし、ネクタイも突飛なデザイン。

そして、坊主とアゴヒゲ。

そりゃ、カタギじゃないわな。

カタギじゃないけど似合っているという評価もあるし、じゃあやめる必要もないだろうと。


この格好、ボディガードとしてのキャラクター性は完璧で、よく女子に「一緒に来てほしい」などと頼まれることはある。

そんなことでもないと若い女子と仲良く出来ないので、ぜったいに断らないしね。


そんな日常だからか、先日「普段着はどんな感じなんですか」と、きゃわいい女子に問われた。

で、撮った1枚がこれ。



そうか。
いままで、なんで若いモデルさんたちは鏡を駆使して自撮りしているのだろう・・・と思っていたのだが、そういうことねと合点がいった。

まぁこんなショットの撮りかた、柄じゃないので二度とやらんがね。

男子トイレでひとりになる瞬間を狙い、ソワソワしながらシャッターを切るなんて、えれービビリみたいじゃないか。


そうなんだ、ここいらへんは「もろ、カタギ」ってわけで。。。





…………………………………………

明日のコラムは・・・

『初体験 リッジモント・ハイ(209)』
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

俳優別10傑 海外「あ行」女優篇(2)

2017-01-25 00:10:00 | コラム
~オードリー・ヘプバーンのキャリア10傑~

このブログを長いこと読んでくれているひとには分かってもらえていると思うが、自分は、映画界のスターと呼ばれている俳優さんに「あんまりピンときていない」。

原節子しかり、オードリーしかり。

人気があるのは分かるし、その魅力も理解しているつもり。

もちろん嫌いじゃない。

かといって、好きでもない、、、という感じ。

完璧に過ぎるからかしら。

そこいらへんを書き出すと、理屈っぽくなるだけなので書かない。

ただキャリア全体を通して見た場合、良作に沢山顔を出していることは原節子もオードリーも同様で。

だから自分のようなヒネクレ映画小僧は、オードリーの映画を、映画史的な視点からしか臨めないという、なかなか面倒臭いイキモノなのです。


享年は63歳。
ハリウッド黄金期を支えた女優さんの、個人的10傑は以下のとおり。


(1)『ローマの休日』(53)



何度観ても楽しめるという点で、ディス・イズ・ハリウッド! な名作。

オードリーのチャーミングな魅力も炸裂しているが、映画小僧が注目すべきは、脚本が「あの」ダルトン・トランボである、、、というところでしょう。

(2)『暗くなるまで待って』(67)

盲目のヒロインが、弱点であるはずの「見えないこと」を武器として戦うサスペンス。

映画的アイデアに溢れていて、好みでいえばこれがベストワン。

(3)『昼下りの情事』(57)

ビリー・ワイルダーの演出術が冴えわたる、ロマンティック・コメディの快作。

「アリアーヌ巻き」が流行したというが、似合うひと、なかなか居ないのではないかな。



(4)『マイ・フェア・レディ』(64)

貧しい花売り娘がレディに変身するまでの物語。

これを下敷きにした『プリティ・ウーマン』(90)は大嫌いだが、こっちはふつうに観ることが出来ます笑




(5)『麗しのサブリナ』(54)

伊達男ハンフリー・ボガートがコメディしているっていうだけで、面白い。

(6)『ティファニーで朝食を』(61)



映画の内容以上に、主題歌が有名。

簡単そうに思うが、カラオケで歌ってみると、意外と難しい。




(7)『シャレード』(63)

テーマ曲も雰囲気抜群で格好いい、ハリウッドならではのサスペンス。

中学生のころに(クレジットなしの)テレビ放送で観たので、ヒッチコックの映画だと思っていた。

(8)『尼僧物語』(59)

修道院入りをしたヒロインの、数奇な半生。

『ローマの休日』でオスカー主演賞は取っていたけれど、オードリーが真に女優として評価を受けたのは、本作からだったのでは?

(9)『初恋』(52)

どうってことない内容かもしれないが、オードリーが初めて重要なキャラクターを演じた作品なので。

(10)『オールウェイズ』(89)

スピルバーグのファンタジー大作にして、オードリーの遺作。

彼女の出演には賛否が分かれたが、自分は悪くないと思った。

…………………………………………

明日のコラムは・・・

『カタギ』
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神の映画を、信徒がジャッジ ~スコセッシ映画10傑~

2017-01-24 00:10:00 | コラム
きょうは、最新作『沈黙』も含めた、わが神スコセッシの映画10傑を展開。

前にもやったことがあるけれど、『沈黙』を含めたうえなので、あしからず。。。

ではいくぜ!!


(1)『タクシードライバー』(76)

負け犬のあがきに、共感せずにはいられない。

この映画に出会わなかったら、映画小僧と自称することはなかったと思う。

(2)『レイジング・ブル』(80)

スコセッシは、ずっと、こういう男を描きつづけてきたんだ。

でも本人は、暴力は大嫌い。



(3)『グッドフェローズ』(90)

映画技術のすべてが詰まっている。

100回連続で観ろといわれても、ぜんぜん苦痛ではない。

(4)『ウルフ・オブ・ウォールストリート』(2013)

「スコセッシは死んだ」なんていう映画ファンにアッパーを喰らわせた。



(5)『沈黙』(2016)

なんもいえねぇ。

(6)『最後の誘惑』(88)

あらゆる映画話法を駆使してキリストを描く。

その世界に無知な自分でも、震えた。

(7)『エイジ・オブ・イノセンス』(93)

血も暴力もないのに、とてつもなく残酷な映画。



(8)『ディパーテッド』(2006)

いろいろいいたいことはあるが、「きっちりジャンル映画している」ところは職人監督としての資質もあるってこと。

(9)『キング・オブ・コメディ』(83)

静かな、しかしたしかな狂気。

それでも自分は、主人公を笑えない。

(10)『アリスの恋』(74)

愛すべき小品だが、スコセッシイズムが随所に。

観ていないひとも多いだろう、でもそれはもったいない。





…………………………………………

明日のコラムは・・・

『俳優別10傑 海外「あ行」女優篇(2)』
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

腑抜け状態、映画小僧

2017-01-23 00:10:00 | コラム
『沈黙』で完全に燃え尽きたので、きょう・あすのコラムは軽くいきます。

勘弁してくださいね。


きょうは、映画にまつわる話題をふたつほど。


(1)『ツイン・ピークス2017』にも出演する俳優、ミゲル・フェラー(トップ画像)が急死した。

享年61歳、自分と誕生日が3日しかちがわないので、もう少し頑張れば62歳だった。
(ちなみに、ジョージ・クルーニーは従兄にあたる)

ピーカー(=『ツイン・ピークス』カルトの総称)の自分なんかからすると、このドラマで演じたアルバート・ローゼンフィールドとしてのフェラーがいちばんなのだが、
『ロボコップ』(87)や『トラフィック』(2000)でも印象的な役柄を好演する性格俳優だった。

キャリー・フィッシャー同様、新作の撮影は終了しているので、『ツイン・ピークス2017』が遺作になるもよう。

ひたすら、寂しい・・・。





(2)雑誌『映画秘宝』の恒例企画、年間のベストテンとワーストテンが発表された。

以下が、ワーストテン。

面白いのは、ベストテン・ワーストテンの両方にランクインしている『シン・ゴジラ』だろう。


1位『バットマン VS スーパーマン ジャスティスの誕生』
2位『スーサイド・スクワッド』
3位『インデペンデンス・デイ:リサージェンス』
4位『テラフォーマーズ』
5位『ジェイソン・ボーン』
5位『シン・ゴジラ』
7位『セーラー服と機関銃 ?卒業?』
8位『10 クローバーフィールド・レーン』
9位『X-MEN:アポカリプス』
10位『X-ミッション』
10位『湯を沸かすほどの熱い愛』

個人的に同意なのが1位と3位と4位かな。
意外なのが10位のひとつ『湯を沸かすほどの熱い愛』で、投票したひとは、この映画にどんな期待を寄せていたのだろう? と思ってしまったのだが。。。

…………………………………………

明日のコラムは・・・

『神の映画を、信徒がジャッジ ~スコセッシ映画10傑~』
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沼地で生きる、信仰に生きる ~『沈黙』批評~

2017-01-22 06:42:23 | コラム
「(小松)菜奈ちゃんがいうように、俺もハッピーな映画が大好き。でもこの重い映画が、僕らを導くこともあると思います」
「マーティン・スコセッシも命をかけて戦い、この映画を世界中に届けています。その気持ちを汲んでもらえたら俺も嬉しいし、この映画を通してよりよい明日が来ることを、信じて疑いません」(窪塚洋介)

…………………………………………

『ギャング・オブ・ニューヨーク』(2002)だったと思う、甘糟りり子が「入魂の―、とか、執念の―、と前置きされる映画は、往々にして躓く傾向にある」という内容の批評を書いていたことがあり、悔しかったが、この映画の公開時「あぁ、たしかに…」と納得した記憶が残っている。

それが頭の片隅にあったからだろうか、期待の映画に「やっと」触れることが出来るというのに、公開前日からネガティブな緊張感に襲われた。
映画を前にして、こんな精神状態に陥るのは初めてのことである。

80年代後半―。
「人間」キリストを描いた労作『最後の誘惑』(88)を撮り終えたスコセッシは、黒澤の『夢』(90)に出演するため日本にやってきた。
滞在先のホテルで小説『沈黙』を読み終え、その時点で映画化を決意する。

権利関係で揉めることはなかったはず。
それに、当時からスコセッシは米映画を代表する巨匠だった。
西海岸のスピルバーグ、東海岸のスコセッシ―たとえが上手いとはいえないが、このひとが撮ると決めたら制作が難航することはないんじゃないか、、、そんな風に思った、だから「スコセッシが遠藤周作の小説を映画化する」というニュースを聞いて、高校生だった映画小僧は父親の書庫から初版本を盗み出し、一気に読み終えた。

来年か再来年の公開を見据えてのことだった。

だが10年が経過しても20年が経過しても、『沈黙』の制作が動き出すことはなかった。
脚本が完成したというニュースも聞かれず、キューブリックの『ナポレオン』のように、幻の企画として映画史で語り継がれるのではないか・・・などと思ったものである。

このあいだにスコセッシはデ・ニーロとのコンビを(一時的に)解消し、新たな相棒としてディカプリオを選んだ。
あらゆる映画技法を取り込む演出術はいよいよ神がかり、70歳を過ぎた現在でも第一線を疾走しつづけている。

ディカプリオの演技力が飛び抜けていることを前提としていうが、彼を起用した理由のひとつとして、興行面の保障があった。

撮りたいものを撮るためには、スタジオを信用させなければいけない―世界で屈指の巨匠でもその例外ではない。

映画制作の最も厄介な側面とは「小規模の映画でも大金を要する」こと。
じつは得意分野であるはずのギャング映画『ディパーテッド』(2006)だって、スコセッシは「撮りたくなかった」と発言している、だがスタジオを信用させ、『沈黙』の映画化に漕ぎ着けるために撮らなければならなかったのである。

『ディパーテッド』はオスカー作品賞に輝き、興行的にも成功を収めた。
こうして『沈黙』映画化のプロジェクトは、前進を始めるのだった。

…………………………………………

隠れキリシタンの受難と、宣教師たちの苦悩の物語―重くて暗くて地味な映画は、全米ではウケない。
だからこそスコセッシはノーギャラで映画を創り、俳優たちも通常では考えられない出演料しか受け取っていない。

ウケないタイプの映画は日本でも同じはずだが、本作ばかりは例外だろう、なぜなら日本の小説の映画化であり、長崎を舞台としており、数多くの日本の俳優が出演しているのだから。

その結果、342のスクリーンで公開されることになった。
もうこれだけで感慨深いが、筆者はきのう場所を移動しながら3度ほど触れてきた。

これから観るひとも多いであろうから、核心部分に触れないよう感想を記してみる。


本人も映画そのものも早口、常にカメラを動かしつづけるスコセッシだが、『沈黙』にかぎってはそのテクニックをほとんど封印している。
俯瞰ショットや素早いパンなど「お!」と思わせるカメラワークもあるにはある、だがそれらは最小限にとどめ、持ち味である音楽の垂れ流しさえNGとしている。

聞こえてくるのは、波の音と風の音、そして虫の鳴き声だけである。

この「音の強調」は、篠田正浩版の『沈黙』(71)でも印象的だった。

元祖・映画小僧のスコセッシは、当然のように篠田版を観ていることだろう。

原作者・遠藤周作自身が脚本を担当した篠田版は、力作ではあるものの、小説を読んでいないものには不親切というか、まるでATGが創ったかのような実験性に溢れていて、いや、そこが魅力的ではあるのだが、フェレイラ役に丹波哲郎を起用したり、岩下志麻や三田佳子などの女性キャラクターを大きく扱っていて、小説の完全映画化というよりは「小説の増補版」のように感じた。

翻ってスコセッシ版は、「拍子抜けするほど」小説に忠実である。

エピローグを除いて、改変部分がほとんどないといっていい。
このエピローグこそ核心部分、ただこれから観るひとに余計な情報を与えてしまうので内容は書かない。
書かないが、ここにカトリック信者としてのスコセッシの答えが刻まれていて、筆者はただただ感銘を受けた。
(しかし公開前に朝日新聞が内容を記しており、来るか! 来るのか!? と身構えてしまったではないか!!)

…………………………………………

それにしてもリーアム・ニーソンの存在感・説得力は圧倒的なものがある。

若き宣教師を演じたアンドリュー・ガーフィールドとアダム・ドライバーは、そういう役柄だからそれでいいのだが、どことなく頼りない感じがして、観ている観客でさえ不安になってしまう。
彼らの師に扮するニーソンは、出てきただけで、何も語らずとも、彼のほうが正しいのだ、、、と思わせてしまう力強さがあった。

日本の俳優では、誰もが褒めるイッセー尾形については敢えて触れず、通訳として英語を完全に自分のものにしている浅野忠信を評価したい。
小松菜奈の絶叫も素晴らしいし、映画監督SABUや片桐はいりの好演もうれしい。

キーパーソンとなる窪塚洋介は、熱演は称える。
けれども私見をいえば、篠田版のマコ岩松のほうが狡猾さがあったような気がする。

筆者がキャスティング・ディレクターであったとしたら、「若いころの柄本明」を起用したいが、キチジローに相応しい「現代の」若手俳優が思い浮かばない。


この映画が、ほかの監督のものであれば「たぶん、五つ星」を献上する。

実際、小説の映画化としては紛れもない成功作だと思うから。


だが。
日本でいちばんのスコセッシ・フリークを自負する筆者ゆえ、ふたつほど難癖? をつけておきたい。

(1)霧の立ち込めるなか、舟に乗せられて五島を目指すロドリゴ―小説では、この不安の描写が秀逸で読者にもそれがひしひしと伝わってきた。
泣く泣く編集したのだろうが、この不安感が強調される描写が短くて不満。

(2)クライマックス、「あの音」を「いびき」と解釈するロドリゴの描写は、スコセッシなら、もっと時間をかけて徹底的に残酷にやれたはず。


結論。
「スコセッシの最高傑作ではないが、スコセッシが最も情熱をかけた作品」と評している米映画誌があったが、筆者もそう思う。


映画監督の執念が躓かなくて、ほんとうによかった。

…………………………………………

フェレイラ「この国は沼地だ。やがてお前にもわかるだろうな。この国は考えていたよりもっと怖ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった」

…………………………………………

明日のコラムは・・・

『腑抜け状態、映画小僧』
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする