Cape Fear、in JAPAN

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『Cape Fear』…恐怖の岬、の意。

沼地で生きる、信仰に生きる ~『沈黙』批評~

2017-01-22 06:42:23 | コラム
「(小松)菜奈ちゃんがいうように、俺もハッピーな映画が大好き。でもこの重い映画が、僕らを導くこともあると思います」
「マーティン・スコセッシも命をかけて戦い、この映画を世界中に届けています。その気持ちを汲んでもらえたら俺も嬉しいし、この映画を通してよりよい明日が来ることを、信じて疑いません」(窪塚洋介)

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『ギャング・オブ・ニューヨーク』(2002)だったと思う、甘糟りり子が「入魂の―、とか、執念の―、と前置きされる映画は、往々にして躓く傾向にある」という内容の批評を書いていたことがあり、悔しかったが、この映画の公開時「あぁ、たしかに…」と納得した記憶が残っている。

それが頭の片隅にあったからだろうか、期待の映画に「やっと」触れることが出来るというのに、公開前日からネガティブな緊張感に襲われた。
映画を前にして、こんな精神状態に陥るのは初めてのことである。

80年代後半―。
「人間」キリストを描いた労作『最後の誘惑』(88)を撮り終えたスコセッシは、黒澤の『夢』(90)に出演するため日本にやってきた。
滞在先のホテルで小説『沈黙』を読み終え、その時点で映画化を決意する。

権利関係で揉めることはなかったはず。
それに、当時からスコセッシは米映画を代表する巨匠だった。
西海岸のスピルバーグ、東海岸のスコセッシ―たとえが上手いとはいえないが、このひとが撮ると決めたら制作が難航することはないんじゃないか、、、そんな風に思った、だから「スコセッシが遠藤周作の小説を映画化する」というニュースを聞いて、高校生だった映画小僧は父親の書庫から初版本を盗み出し、一気に読み終えた。

来年か再来年の公開を見据えてのことだった。

だが10年が経過しても20年が経過しても、『沈黙』の制作が動き出すことはなかった。
脚本が完成したというニュースも聞かれず、キューブリックの『ナポレオン』のように、幻の企画として映画史で語り継がれるのではないか・・・などと思ったものである。

このあいだにスコセッシはデ・ニーロとのコンビを(一時的に)解消し、新たな相棒としてディカプリオを選んだ。
あらゆる映画技法を取り込む演出術はいよいよ神がかり、70歳を過ぎた現在でも第一線を疾走しつづけている。

ディカプリオの演技力が飛び抜けていることを前提としていうが、彼を起用した理由のひとつとして、興行面の保障があった。

撮りたいものを撮るためには、スタジオを信用させなければいけない―世界で屈指の巨匠でもその例外ではない。

映画制作の最も厄介な側面とは「小規模の映画でも大金を要する」こと。
じつは得意分野であるはずのギャング映画『ディパーテッド』(2006)だって、スコセッシは「撮りたくなかった」と発言している、だがスタジオを信用させ、『沈黙』の映画化に漕ぎ着けるために撮らなければならなかったのである。

『ディパーテッド』はオスカー作品賞に輝き、興行的にも成功を収めた。
こうして『沈黙』映画化のプロジェクトは、前進を始めるのだった。

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隠れキリシタンの受難と、宣教師たちの苦悩の物語―重くて暗くて地味な映画は、全米ではウケない。
だからこそスコセッシはノーギャラで映画を創り、俳優たちも通常では考えられない出演料しか受け取っていない。

ウケないタイプの映画は日本でも同じはずだが、本作ばかりは例外だろう、なぜなら日本の小説の映画化であり、長崎を舞台としており、数多くの日本の俳優が出演しているのだから。

その結果、342のスクリーンで公開されることになった。
もうこれだけで感慨深いが、筆者はきのう場所を移動しながら3度ほど触れてきた。

これから観るひとも多いであろうから、核心部分に触れないよう感想を記してみる。


本人も映画そのものも早口、常にカメラを動かしつづけるスコセッシだが、『沈黙』にかぎってはそのテクニックをほとんど封印している。
俯瞰ショットや素早いパンなど「お!」と思わせるカメラワークもあるにはある、だがそれらは最小限にとどめ、持ち味である音楽の垂れ流しさえNGとしている。

聞こえてくるのは、波の音と風の音、そして虫の鳴き声だけである。

この「音の強調」は、篠田正浩版の『沈黙』(71)でも印象的だった。

元祖・映画小僧のスコセッシは、当然のように篠田版を観ていることだろう。

原作者・遠藤周作自身が脚本を担当した篠田版は、力作ではあるものの、小説を読んでいないものには不親切というか、まるでATGが創ったかのような実験性に溢れていて、いや、そこが魅力的ではあるのだが、フェレイラ役に丹波哲郎を起用したり、岩下志麻や三田佳子などの女性キャラクターを大きく扱っていて、小説の完全映画化というよりは「小説の増補版」のように感じた。

翻ってスコセッシ版は、「拍子抜けするほど」小説に忠実である。

エピローグを除いて、改変部分がほとんどないといっていい。
このエピローグこそ核心部分、ただこれから観るひとに余計な情報を与えてしまうので内容は書かない。
書かないが、ここにカトリック信者としてのスコセッシの答えが刻まれていて、筆者はただただ感銘を受けた。
(しかし公開前に朝日新聞が内容を記しており、来るか! 来るのか!? と身構えてしまったではないか!!)

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それにしてもリーアム・ニーソンの存在感・説得力は圧倒的なものがある。

若き宣教師を演じたアンドリュー・ガーフィールドとアダム・ドライバーは、そういう役柄だからそれでいいのだが、どことなく頼りない感じがして、観ている観客でさえ不安になってしまう。
彼らの師に扮するニーソンは、出てきただけで、何も語らずとも、彼のほうが正しいのだ、、、と思わせてしまう力強さがあった。

日本の俳優では、誰もが褒めるイッセー尾形については敢えて触れず、通訳として英語を完全に自分のものにしている浅野忠信を評価したい。
小松菜奈の絶叫も素晴らしいし、映画監督SABUや片桐はいりの好演もうれしい。

キーパーソンとなる窪塚洋介は、熱演は称える。
けれども私見をいえば、篠田版のマコ岩松のほうが狡猾さがあったような気がする。

筆者がキャスティング・ディレクターであったとしたら、「若いころの柄本明」を起用したいが、キチジローに相応しい「現代の」若手俳優が思い浮かばない。


この映画が、ほかの監督のものであれば「たぶん、五つ星」を献上する。

実際、小説の映画化としては紛れもない成功作だと思うから。


だが。
日本でいちばんのスコセッシ・フリークを自負する筆者ゆえ、ふたつほど難癖? をつけておきたい。

(1)霧の立ち込めるなか、舟に乗せられて五島を目指すロドリゴ―小説では、この不安の描写が秀逸で読者にもそれがひしひしと伝わってきた。
泣く泣く編集したのだろうが、この不安感が強調される描写が短くて不満。

(2)クライマックス、「あの音」を「いびき」と解釈するロドリゴの描写は、スコセッシなら、もっと時間をかけて徹底的に残酷にやれたはず。


結論。
「スコセッシの最高傑作ではないが、スコセッシが最も情熱をかけた作品」と評している米映画誌があったが、筆者もそう思う。


映画監督の執念が躓かなくて、ほんとうによかった。

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フェレイラ「この国は沼地だ。やがてお前にもわかるだろうな。この国は考えていたよりもっと怖ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった」

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明日のコラムは・・・

『腑抜け状態、映画小僧』
コメント (3)
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