Cape Fear、in JAPAN

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『Cape Fear』…恐怖の岬、の意。

『沈黙』全力応援コラム、その六

2017-01-12 00:10:00 | コラム
公開まで、あと10日・・・。

10日しかないじゃん!

もういちど原作を読んでおかなきゃ!!

体調を整えておかなきゃ!!!


とりあえず、20日・21日と連休をもらっている。

これで体調は万全だろう。


この映画は世界でも屈指の名監督の手によるものだが、内容的に地味なため全米では小規模で公開されている。

その割に日本での宣伝規模が大きい、、、のは、原作が日本の小説である、日本を舞台にしている、日本の俳優が沢山出演している、、、からだろう。

喜ばしいことだ。
ひょっとしたら、そこそこのヒットを見込めるかもしれない。

重くて、暗い話だけれども。。。


先日―。
朝日の別紙に、日本における最速レビューが載っていた。(トップ画像)

じつはこの数日前、イマジカで仕事をしている友人から「先行で観られるけど、来る?」と誘いを受け、24時間ちかく悩んだ挙句、断った。

いまでも後悔しているが、神様の映画だけは、仕事の役得に頼ることなく、初日の初回に観るべきなんだ! と自分にいい聞かせて強引に納得してみる。
そんな自分のいじらしさに、自分で泣けてきた新春なのである。


存命の映画監督で、『沈黙』を創るに相応しい映画監督って誰だろうと考えたとき、贔屓目ではなく、最初に出てくるのがスコセッシだと思う。

べつにキリスト教徒である必要はない、
「神」の映画を扱ったことがあるラース・フォン・トリアーとか、ミロシュ・フォアマンだって悪くない、
ないが、いちばんの適任者となると、それはやっぱりスコセッシになる。

少年のころ―司祭に憧れたスコセッシは勉学に励むが、それが叶わず挫折を経験する。

これが核にあるので、スコセッシの映画では、キリストや教会への言及、聖書関係からの引用などが散見されるのだ。


「俺たちは通りや家で罪を償う、それ以外はまやかしである」=『ミーン・ストリート』(73)


「そこでパリサイ人たちは盲人であったひとを、もう一度呼んでいった。

“神に栄光を帰するがよい。あのひとが罪人であることは私たちには分かっている”

すると彼はいった。

“あの方が罪人であるかどうか私は知りません。ただひとつのことだけ知っています。私は盲であったが今は見えるということです“」=『レイジング・ブル』(80)


『ギャング・オブ・ニューヨーク』(2002)では、主人公が聖書を海に投げ捨てる。


磔にされたキリストの、復活する直前の「迷い?」を描いた『最後の誘惑』(88)。

最後の主人公の姿が、磔にされたキリストにも見える『明日に処刑を…』(72)。




ちなみにこの映画でヒロインを演じたバーバラ・ハーシーが、スコセッシに小説『最後の誘惑』を薦め、これを映画化する際には「あたしがマグダラのマリアを演じる」と宣言し、実際にそうなった。


挙げていったら切りがないが、『沈黙』を映画化するに相応しい監督だと結論づけるには、これだけで充分だろう。


きょうは、ほんとうは改めてスコセッシの紹介を展開しようと思ったが、この部分だけを強調しておけばいいと思い直し、こういう風な内容のコラムになった。


※スコセッシ映画より、「頭上からのショット」だけを集めたモンタージュ動画。

『沈黙』も、少しだけ出てきます。




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明日のコラムは・・・

『シネマしりとり「薀蓄篇」(193)』
コメント (3)
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