たそがれオヤジのクタクタ山ある記

主に北関東の山を方向音痴で歩いています。山行計画の参考にされても責任は負いかねます。深慮せず軽く読み流してください。

台風から逃げて北東北で紅葉三昧。その後はそうはならなかった。 その4<同窓会参加者有志で森吉山に行ったが、同時期なのに、何でまた四年前とこうも違うのだろう>

2019年10月26日 | 東北の山
◎2019年10月14日(月)

 森吉山の紅葉レポートの前に、自分のけじめとして少しは前日13日開催の同窓会当日のことを記しておこう。というのも、実はそれほどまでに特記する森吉山の紅葉ネタがないのである。「少しは」といいながら、むしろ同窓会話が長くなるかもしれない。森吉山の紅葉情報を知りたい方は、本記事読みは飛ばした方が無難かと思う。

 朝6時(以下、森吉山前日。つまり同窓会当日のこと)にK君に部屋のドアをノックされた。散歩に行こうとの誘い。すでに目は覚めていたのですぐに着替えて洗顔して外に出た。彼は毎日のように長時間の散歩をしてから仕事に出かけるらしい。こちらも犬の散歩はしているが、せいぜい数十分のもので、彼は二時間近くもうろつく。
 外に出ると陽が出ていた。台風は太平洋に抜けたようだ。起きぬけに見たテレビのニュースでは、どのチャンネルも台風19号の被害状況を流していた。泥だらけだった車はきれいに汚れが落ちていた。寝ている間に大雨が降ったようだ。
 まずは阿仁川を見に行った。川寄りの景色も一変していて、並んでいた製材所はなくなり、年一回、送り盆の行事として開催される花火大会見物がどこからでも楽しめるようにしたのか、公園化して整備され、川淵には新しい公共的な施設、建物も出来ている。かつての吊り橋は普通の橋になっている。あの花火大会、町の各寺の坊さんが読経をし、灯篭流しをする。そして花火大会となっていたが、今でもそんな形でやっているのだろうか。吊り橋が向かっていた先は対岸の向山というところで、一時、推理小説家の高木彬光が鉱石(銀だったか)探しに夢中になっていたという話を聞いたことがある。これはテレビのドキュメント番組にもなっていた。阿仁鉱山の廃坑が向山にもあったと記憶している。
 昨日の雨の中のドライブも含め、昔を懐かしむ風景はもう、夏休みになれば毎日のように泳ぎに行った川の風景や寺にしかなくなるが、子供心に描いていたままの風景もまた川にはなかった。今日は増水しているということもあるだろう。かろうじて飛び込みに使った岩の頭だけは見えている。水が引いたら、昔のような流れが見えるのだろうか。町にも学校にも幼児用以外のプールはなかった。川で泳ぐのは当たり前で、三か所の遊泳区があり、女の子も泳ぐし、監視人もいた。泳いだ休憩時に各自で焚火をして、ジャガイモを焼いて食べたりしたものだ。これを子供会単位のグループでやっていて、自分なんかは、形は模範生だったから、涼しい午前中はしっかりと勉強をして、暑くなる午後は川泳ぎだった。ただ、アブに毎日のように刺されたのには参った。あれから温暖化も進み、朝は涼しいといったイメージも消えつつある。こことてそうだろう。
 中学校のあるあたりに行ってみた。スキー部の連中が学校から上の山神様まで、毎日のようにウサギ跳びトレーニングしていたが(K君もまたそれをやらされていた)、山神様下の丘は桜がきれいな所だったが、その広場は消え、バイパスが通っている。K君と話をしながら歩いていると畑が目に入った。ふと、今となっては笑い話になるネタを思い出した。
 唐突だが、自分は子供の頃、肥溜めに二回落ちたことがある。肥溜めのことは田舎言葉で「ゲシオケ」、「ゲスオケ」と言ったものだが(あくまでもサ行の使い方は年配者になるほどにあやふやだ)、これは「下水桶」から転じたものなのかいまだにわからない。さておき、一回目は雪が積もった畑。小学五年だったか。遊びで3mほどの高台から畑に向かってジャンプしたら、着地したところの雪の下に見事に肥溜めがあった。あれは冬でも凍りつかないようだ。雪の下でも生きている。いっしょに遊んでいた同じ子供会の仲間三人ほどが関わりから逃げて行ったことを覚えている。最後まで付き合って、自分の家の外の蛇口から水を出して汚物を流すのを見届けてくれたのは一つ年下の幼なじみだけだった。そして二回目は中学生の時だ。これもまた畑。その時は一人だった。大雨の通学路の畑の中の道。道は消えていて泥水が流れている。うっかり外れて歩いてしまったらしい。片足が肥溜めにはまってしまった。二回ともに、履いていたズボンと長靴は洗っても臭いは消えずにダメにした。
 町内を歩いた。昨日、雨の中を車で回ったので、改めての新鮮味はなかったが、今日は姫ヶ嶽も見えている。二人して、ここはああだった、こうだった、こんなことがあった、あんなことがあったなどと話をしながら宿に戻る。小さな町だ。川を歩いても山側を歩いても、K君の期待する長時間歩きにはならなかった。
 宿に戻って朝食。朝からビールと熱燗を手酌で飲んだ。どうせ同窓会は一時からだ。
 部屋に引き上げてしばらくすると、N君が訪ねて来た。昨日、メールをしても返事のなかった冷たいN君。K君は駅で買ってきたスポーツ新聞を見ながら、甥に電話で馬券購入を依頼して忙しい。I君の墓参りに行こうと誘われた。N君とI君は自分の結婚式の際に呼んでいて、秋田から群馬まではるばるやって来てくれたが、I君はその後に胃ガンで亡くなった。まだ三十代だった。

 一時から開かれた同窓会。卒業生171名中、参加は52名、物故者は14名。もちろん、この数字の中に、自分を含めた転出生は含めていないから、名簿上の参加者は54名となる。台風がなかったらどれほど集まったろう。少なくとも宿をキャンセルした三名はプラスされる。
 同窓会の様子をダラダラと記しても意味はあるまい。どこの、何の宴会とて同じようなものだ。これに冒頭に恩師の挨拶やら物故者への黙祷、幹事代表の挨拶が加わる儀式があるだけのこと。長々とおしゃべりをしては飲み、点々と座も変えては周辺に座っている同窓生と脈絡のない話をし続けた。料理もそれなりにあったが、キリタンポと肉と何だかが個々に配膳だけはされていたので、キリタンポはしっかり食べた記憶はある。
 閉会は五時。恩師たちをお元気でと送り出す。この恩師の一人が、オレと年子の兄の名前をゴチャゴチャに覚えていて、何度も兄の名前で呼ばれたのには閉口した。兄の学年もまた去年に同窓会をやり、この先生と会っているはずだ。クラス担任だった先生には、D組の大方が個々に挨拶に行っていたが、もう年齢も八十を過ぎ、その都度にキョトンとした顔になり、自分もまた、誰だっけという顔をされてしまった。

 同窓会に参加した連中だが、ことに男に関しては、自分には三パターンに分けられると思うと笑える。あくまでも外見上のことだ。
 A.そのまま B.ハゲandデブ C.ハゲorデブ 比率としては4:3:3か。
 Aは面影が明瞭だが、B、Cよりも顔の老けが早いような気がする。後で名前を間違うことはない。Bはセット。これはさっぱりわからず、瞬間はそういえばと思うものの、時間を置けばすぐに誰だっけと胸の名札を見てしまう。さらにすっきりしないのがC。半端なのだ。どうしても勘違いが多くなって、別のヤツの名前で声をかけてしまう。自分はAとCの中間。ハゲの予備軍だ。そのうちに完璧なCになる。元から自分の存在感は薄い方だったから、結構、あれっ、だれだっけと聞かれることも多かった。
 女はどうかというと、不思議なことに、見るからにバアサンと呼ぶに相応しいのはいず、これは、同年齢ということ、自分の周囲に同年代の女が多いからといった視点で見るからに他ならず、年下の者から見れば、「何だババアだらけじゃねぇの」ということになるはずだが、男で例えればAパターンといったところだ。不思議にみんな面影を残していた。ただ、男の名前はしっかりと覚えていても、女の方になると、そんな名前の女、いたっけかなぁと思うことが多かった。それでも当時の面影がかなり残った顔だけは識別できた。

 さて、これで終わるわけがない。次は二次会。町に大人数で宴会ができるような飲み屋は一軒くらいしかない。みんな歩いて行く。せいぜい10分くらいだ。ここで人数は半分ほどに減った。一次会の時にも気づいたが、日本酒を飲むのが多い。ワインだのハイボールだのといったシャレたものを飲むのはいない。女も日本酒をザル飲みする。自分は日本酒の恐さを知っているだけに、自制して焼酎とビールに徹したから、悪酔いすることはなかった。ここでも座は乱れた。タバコやトイレから戻ると別のヤツが座っていて、空いている席に移動する。この繰り返しだ。
 この飲み屋にはカラオケルームがセットされている。そのうちにカラオケになり、歌うのは主に演歌。上手なのはマイクを離さない。自分も歌いはしたが、演歌ではなかったためか白けた雰囲気になった。
 もうこの時点の記憶は薄れているが、最後は六、七人くらいでカウンターで飲んだ。何でそんな話題になったのか知らないが、だれかが孫自慢でもしたのだろう。自分が家族というものに対する否定的な持論を吐くと、同席していたS子の口からすぐに反発が出た。彼女は中学生の頃からそういうところがあり、なぜかオレの言うことに対抗意識を露わにした。相変わらずだなと苦笑したが、中学卒業後、彼女とは短期間ながらも文通していたし、自分には初恋の女だった。すでに名字は変わっている。いまだに首を傾げる癖のあるS君がDNAがどうのこうのと割って入り、話は収まったが。
 一時過ぎまで飲んでいた。時間が惜しかった。旅館に泊まる連中は一緒に帰り、男女はそれぞれに別の宿に別れたが、S子とはついしばらく外で話し込んでしまった。自分はもっぱらに聞き役だったが、生きていく上での相当な苦労をしたようだ。このS子は見た目が陽気で勝気ながらも内面は繊細だった。そんなところに自分は魅かれていたのだろう。苦労したのはS子に限るまい。皆んな人生いろいろで生きてきたはずだ。
 ともあれ、昨日に続いて楽しい一日だった。こういう機会が今後あるのかどうか。万一でもあったら、当然に参加する。

 ここでようやく、翌日の森吉山の話題になる。参加したのは十五、六人だったか。
 宿の泊まりには新たに二人が加わったが、K君を含めた三人は仕事やら用事で帰宅せねばならず、森吉山には参加しない。朝食は四人で一緒にとったものの、朝からビールを飲んでいたのは自分だけで、食事を終えると、三人ともにさっさと宿を出て行った。

 おそらくそうだろうとは思ったが、ゴンドラに乗って、食事をして戻るだけのツアーで、森吉山に登ったどころか歩いたともいえまい。皆、スニーカーなりで参加し、中には登山靴もいたが、自分はスニーカーでは歩きづらかろうと、軽登山靴を車の中、あちこち探してが見つからず、仕方なく八甲田で履いて泥に汚れた地下タビにしたが、これがまた目立ち、格好だけは自分だけ浮いた感じになってしまい、地元の連中にも失笑を買う始末だった。
 ゴンドラ乗りだけとはいっても、そんなに捨てたものではない。四年前にこのゴンドラに乗った際、同行のK女は窓から見える黄金の輝きに終始歓声を上げていた。
 九時に阿仁合駅前で集合し、地元連中の運転する車の乗り合いでゴンドラ乗り場に向かう。同行しないY子が見送りに来た。
 ここで余談だが、同窓生、ことに地元で暮らす連中に「社長」が多いのには驚いた。社長とはいっても一人事業が大方で、地元ではないが、K君もまた社長のようなものだった。企業に勤めて定年退職を迎え、そして延長雇用で同じ企業に居続けるパターンが定着している。国の指導でもある。裏を返せば年金政策の破綻ということになる。そういう生き方スタイルを嫌い、しがらみにとらわれずに働けるまで働く。賢い生き方だ。
 ゴンドラに乗り、あの黄金色の世界をもう一度といった期待があったのに、上に行けども覗く下の稜線に色の変化は現れず、むしろくすんだ色の山並みが続いているだけだった。ここで、今年は冷え込みが無かったから紅葉がきれいではないと説明を受ける。
 これであきらめるのはシャクなので、終点駅から一人、しばらくハイキングコースを上がってみたが、ずっと背高のササが続いていて、展望は真上の空だけ。これでは、山頂に向かったとて紅葉は期待できまいと、皆のいる所に戻った。
 食事を終えてゴンドラで下る。これで一連の同窓会行事もおしまいかと思うと寂しさも出てくる。これが最後の別れにしたくはないが、その可能性はある。幹事役、世話役の仕事が大変なのだ。少なくとも、台風の影響で来られなかった連中は気の毒としか言いようがない。今回の希少な機会を失してしまったのだから。

 途中、鉱山の選鉱場跡に寄る。コンクリートの廃墟跡。これを見たのは初めてだ。父は採鉱の方だったから、連れられてよく坑道に入ったことはあったが、選鉱場がここにあったことすら知らなかった。見た目は足尾のそれよりもかなり小さい。この選鉱場に詳しいのが、歴史遺産に相応しいようなことを言っていて、大げさだなと思ったものだが、後で、廃坑跡が好きなのがドローンで撮影したビデオを見ると、かなり奥行きがあって、沈殿池もあった。確かに、このまま廃れたままにしておくにはもったいない。市側で、管理する古河機械金属と折衝すべきだろう。
 この時、近くにあるすでに廃坑になっていた稲荷坑を大学の油絵科の卒業制作として選んで描いたというT君の話を聞いたが、その絵の写真を後日、メール添付で送ってきてくれた。紅葉の中の稲荷坑だった。感情のこもったきれいな絵だった。稲荷坑そのものの名前は知ってはいたが、どこにあったのかも知らず、これでは、私は阿仁の生まれ、育ちですよと自信を持っては言えないなぁ。

 駅前で解散。旅館に置いた車に向かう。瞬間、この町に戻って来ようかなという思いがよぎった。だが、今の自分には無理だろう。今さら、豪雪の中の生活に耐えられるわけがないし、歩いて行けるコンビニが近くにあって当たり前といった生活を送っている自分には不便さを感じるだけだろう。

 宮城の娘の家に向かう。このまま群馬まで帰れる自信はないので、明日の火曜日は休暇をとっていた。今夜は娘の家に泊まる。そして、娘と孫を家に連れて行き、22日の祝日にでも送って来る予定でいる。腹積もりもあった。明日の火曜日は幼稚園の関係で出発は午後からとのことだったから、午前中に神室岳に行くつもりでいた。今日の森吉山の紅葉未消化気分を神室岳でカバーしよう。
 だが、そううまくはいかない。これから向かうと娘にメールを入れると、明日は幼稚園が休みになったから、朝から家に行こうと返信があった。がっかり。

 娘の家に着き、話しかけるとキョトンとした顔をされた。オレの顔に何か付いてでもいるのか。そのうちに気づいた。秋田弁のままに話かけていた。そうか、秋田の旅はもう終わりだったか。標準語に戻しはしたが、翌日、家に帰っても、妻に秋田弁で台風の様子を聞いてしまっていた。

(ゴンドラから1)


(ゴンドラから2)


(ゴンドラから3)


(ゴンドラから下りて少し登る。同行の仲間たちだ)


(一人で先に行ってみる)


(どうもすっきりせんわ)


(何だかなぁ…)


(ここで飼われているオスの秋田犬・北斗。めちゃかわいい)


(選鉱場跡)


(これも。自分一人だったら、おそらく、脇から入って上に出てみるところだが)


(これは四年前のゴンドラから1)


(同じく2)


(同じく3)


(同じく4)


(同じく5。以上、あくまでも四年前の紅葉で、今回のものではありません。こういう色づきは見あたらなかったのでフォローした)


(ついでに)
その時にゴンドラからの下りで撮ったビデオ⇒これ

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Unknown (ふみふみぃ)
2019-10-26 19:16:14
中学の同窓会、私は10年くらいさぼってますね。仲のいい連中とは年末に集まっているため特に行く理由もなく。後20年もすればまた感慨深くなるのかもしれませんが。
期待した紅葉は味わえなかったようで。台風でやられたのか今年は紅葉が遅れている影響を受けたのか。今日は足尾の地味尾根をぶらついてきたのですが遠目に見る社山の北東尾根は昨日の大雨の影響か微妙でした。利根倉沢の左岸斜面、足倉沢の左岸斜面が赤の他に黄色い鮮やかなのが目立ち悪くないように思えましたが。
未遂に終わったようですが栗駒山に続き神室岳もたそがれさんと考えが被りましたか(笑)。私はみー猫さんと日月で二口山塊を縦走する際に山形神室岳を通過してきました。高曇りなので映えませんでしたが晴れならあそこも中々紅葉が良さそうな場所ですね。
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ふみふみぃさん (たそがれオヤジ)
2019-10-26 21:37:20
ふみふみぃさん、こんばんは。
今日は足尾の地味尾根でしたか。今日の陽気からして尾根歩きなら行っても有りだったでしょう。
ようやく、重い腰を上げて、週末は雨降沢の予定でいたのですが、昨日の終日にわたる雨では沢も増水しているだろうと、今日は自重しました。代わりにやったのは庭の草取りでした。蚊も終わりかと安心していたのですが、生き返ったようで散々に刺されましたね。
雨降沢はいずれ年内には片づけなければならない課題としていますから、沢が冷たくならないうちに行くつもりでいます。
雨降沢に関しては、地図に水線も出ているし、沢から外れて左岸尾根やらを登ってごまかすのは後でもできるだろうと、どうせショボい沢なら、まずはそのまま沢沿いに歩いてみたいと思っています。
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こんばんは。 (阿仁の潤です)
2019-10-26 23:41:08
あなたの同級生のUさんとŞさんと今、お付き合いしております。Uさんとは、500歳野球でお世話になっています。Şさんは、下新町和合会で毎年、正月と銀山の祭典の時に獅子舞をしております。和合会の会長さんです。同級生だっだのですね。
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潤君 (たそがれオヤジ)
2019-10-28 09:11:30
潤君、こんにちは。
U君のことは特定できる。彼は中学生時代に野球部だったし。
S君のことだけど、この記事にあるS君とは荒瀬のS君で、東京周辺に住んでいる。おそらく、別の、館長のS君との勘違いかと思うけど、だとすれば、彼は今回の総幹事役で、一番大変だったみたい。まめにやれるのもいなかったしね。
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勘違いはしておりません. (阿仁の潤です)
2019-10-28 10:18:11
書いたのは、館長のSさんです。
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