(散歩道のガーデンにて・・・ピンクの薔薇は磐之媛)
古事記の世界にタイムスリップしました。
奈良市にお住まいらしいhougetukaiさまのブログの中に書かれていた次のような一節がきっかけでした(掲載させて頂きます)。
・・・(前略)・・・
たどり着いたヒシアゲ古墳・仁徳天皇皇后『磐之姫陵』
磐之姫は、仁徳天皇の4人の皇后のうちのひとり、
仁徳天皇陵は堺、どうして皇后である磐之姫陵は
遠く離れた奈良なのでしょう?
と疑問に思いながら歩いた歩数は8251歩、目標達成!。
早速、「磐之媛陵」とされているヒシアゲ古墳を奈良市の地図で確認すると、法華寺の北方にある佐紀盾列古墳群の1つであることがわかりました。
田辺聖子著「わが愛の磐之媛」(お勧めです!)をもう一度読みたくなり、だいぶ前に処分した「田辺聖子 文車日記」(新潮文庫)をヤフオクで探し、購入しました。
さらに古事記や日本書紀、磐之媛や仁徳天皇を検索し、「わが愛の磐之媛」に書かれている古代へしばしタイムスリップ。なんせ時間だけはあるのですから、思う存分古代のロマンに浸ることができました・・・。
古事記や日本書紀によると、磐之媛は仁徳天皇の4人の皇后のうちのひとりで、仁徳天皇2年(314年)に立后。父は葛城襲津彦、武内宿禰の孫にあたり、皇族外から初めて皇后になったといわれている。仁徳天皇との間に男御子4人と女御子1人をもうけた。とても嫉妬深く、仁徳天皇30年に磐之媛が熊野に出かけた隙に仁徳天皇が八田皇女(仁徳の異母妹。磐之媛命崩御後、仁徳天皇の皇后となる)を宮中に入れたことに激怒し、山城の筒城宮(現在の京田辺市)に移り、仁徳35年6月に同地で没した。
(散歩道のガーデンにて・・・黄色の薔薇は仁徳天皇)
磐之媛は夫の仁徳天皇を深く愛していたので、留守中に八田皇女を宮中に入れたことをどうしても許せなかったのです。仁徳天皇も皇后であり、5人の子供の母である磐之媛を彼なりに深く愛していました。筒城宮にこもってしまった磐之媛、家臣を何度も迎えにいかせたり、気持ちをなだめる歌を持たせたりするのですが、磐之媛は戻ってきませんでした。
ついに仁徳天皇自ら筒城宮まで迎えに行きますが、磐之媛は頑として会おうとしません。その時の2人の胸中を察すると、男のメンツを捨てて皇后を迎えに来た仁徳帝がとてもステキで魅力的に思えます。
・・・帝に会ったら宮中に戻りたくなることでしょう。しかし、どうして八田皇女のことを許すことが出来ましょう。戻ったらまた仁徳帝の止むことのない浮気に悩まされることでしょう・・・帝への激しい愛で張り裂けそうになりながら、自らの命が尽きるまで帝を愛し続けたい、そのためには会わない方が良い・・・と磐之媛は決意します。
そのような形で、仁徳天皇への愛を貫いた磐之媛。 とても純粋で、強く、美しい女性に思えるのは私だけではないと思います。
5年間の別居後、筒城宮で仁徳35年6月に崩御しました。磐之媛陵として奈良市佐紀町のヒシアゲ古墳が比定されています。(調べると、ヒシアゲ古墳のすぐ近くのコナベ古墳が八田皇女陵とされていて不思議?です)
仁徳天皇は仁徳87年に崩御、堺市にある百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)・仁徳天皇陵古墳に葬られました。
(散歩道のガーデンにて・・・この薔薇は八田皇女かしら)
磐之媛の仁徳天皇への深い思いを伝える哀切な歌が4首、万葉集に収録されています。
皇后の天皇を思ばしてよみませる御歌四首
君が行き日 長くなりぬ 山たづね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ (万2-85)
かくばかり 恋ひつつあらずは 高山の 磐根し枕きて 死なましものを (万2-86)
ありつつも 君をば待たむ うち靡く 我が黒髪に 霜の置くまでに (万2-87)
秋の田の 穂の上に霧らふ 朝霞 いつへの方に 我が恋やまむ (万2-88)
今日ではこれら4首は当時の伝承歌であったと解されています。そして、万葉人は、激しくも純粋な愛を貫いた磐之媛を慕って、オマージュとしてこの4首を磐之媛の歌としたのだと・・・言われています。
今度奈良へ行ったら、ヒシアゲ古墳とコナベ古墳を是非訪れたい!と思います。