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今日は原三溪翁のご命日です。 合掌・・・。
昭和14年(1939年)8月16日に亡くなられたとき、
棺のそばには遺言どおり白蓮が数本だけ供えられました。
横浜三溪園・蓮華院へ秋の茶会の下見に行きました。
7月終わりのことで、Kさん、Iさんとご一緒でした。
ピンクの蓮の花が見頃で、蕾、未敷(みふ)の蓮華(一度咲いて閉じた蕾)、
咲き切った蓮華、潔く散った台(うてな)が命の美しさを謳歌していました。
たった四日の命の蓮華ですが、
葉を茂らせ、根を縦横に張り、花を咲かせ、実をはぐくみ、子孫を残すことにかけては
逞しささえ感じます。
三溪翁は蓮の花をことのほか愛でたそうで、何枚も日本画に描いています。
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蓮華院は、大正6年(1917年)に三溪翁が自らこだわって建てた茶室で、
当初は現在の春草廬が建っている位置にありました。
仏教美術に造詣の深い三溪翁によって廃寺の荒れかけた一庵というような
イメージで建てられたため、今でも蓮華院跡地(現在の春草廬の場所)には
奈良海竜王寺付近で出土したという石棺や奈良東大寺の礎石、
鎌倉時代の四方仏の蹲などがあり、当時の様子を偲ぶことができます。
第二次世界大戦中、春草廬と蓮華院は解体保存されていましたが、
昭和33年(1958年)三溪園を委譲された横浜市によって、
先ず春草廬が蓮華院の旧位置へ移築され、
蓮華院は現在地に竹林の中の茶室という新しいコンセプトで再建されました。
これらの移築計画について三溪翁を敬愛している松永耳庵は異議を唱え、
「春草廬再築についての意見書」を横浜市へ提出しています。
一部抜粋します。
「蓮華院を旧形通り復興し、
墜落している延命鐘を引き揚げ鐘撞堂を再建し、
あの辺一体は旧寺院の遺跡の如くするを適当且つ
故人三溪園構造の趣旨に適応するものかと考へ候 しかし・・・」
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竹林のかげにひっそりと建っている蓮華院へ担当のNさんが案内してくれました。
華やかな茶会の時とは違い、しっとりと落ち着いていて、寂しいような佇まいです。
「どこか春草廬と似ている」ようにも思います。
先ず、茶会の折、待合に使う土間から拝見しました。
土間へ入ると、真ん中の太い柱と蓮華院の扁額が目に入りました。
この柱は宇治平等院・鳳凰堂の古材と伝えられていますが、実に堂々としていて、
繰り抜かれた柱穴が昔の栄華を物語っていました。
壁にはめ込まれた格子戸も同様に平等院・鳳凰堂の古材だそうですが、とてもモダンです。
太い円柱や格子戸が土間の空間を引き締めて、緊張感の或る雰囲気を醸し出しています。
蓮華院という扁額の由来をNさんにお尋ねすると
「調べてみます・・わかったらお知らせします」
もう一つ、太い柱の脇に石造物があり、木板が乗っていて台(テーブル?)に使えそうです。
石造物は塔の露台で、いつどのように使われたのか興味津々です。
これも三溪翁の好みを強く感じるものでした。
次に、土間に続く広間へ案内されました。
(その2へつづく)
昭和14年(1939年)8月16日に亡くなられたとき、
棺のそばには遺言どおり白蓮が数本だけ供えられました。
横浜三溪園・蓮華院へ秋の茶会の下見に行きました。
7月終わりのことで、Kさん、Iさんとご一緒でした。
ピンクの蓮の花が見頃で、蕾、未敷(みふ)の蓮華(一度咲いて閉じた蕾)、
咲き切った蓮華、潔く散った台(うてな)が命の美しさを謳歌していました。
たった四日の命の蓮華ですが、
葉を茂らせ、根を縦横に張り、花を咲かせ、実をはぐくみ、子孫を残すことにかけては
逞しささえ感じます。
三溪翁は蓮の花をことのほか愛でたそうで、何枚も日本画に描いています。
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蓮華院は、大正6年(1917年)に三溪翁が自らこだわって建てた茶室で、
当初は現在の春草廬が建っている位置にありました。
仏教美術に造詣の深い三溪翁によって廃寺の荒れかけた一庵というような
イメージで建てられたため、今でも蓮華院跡地(現在の春草廬の場所)には
奈良海竜王寺付近で出土したという石棺や奈良東大寺の礎石、
鎌倉時代の四方仏の蹲などがあり、当時の様子を偲ぶことができます。
第二次世界大戦中、春草廬と蓮華院は解体保存されていましたが、
昭和33年(1958年)三溪園を委譲された横浜市によって、
先ず春草廬が蓮華院の旧位置へ移築され、
蓮華院は現在地に竹林の中の茶室という新しいコンセプトで再建されました。
これらの移築計画について三溪翁を敬愛している松永耳庵は異議を唱え、
「春草廬再築についての意見書」を横浜市へ提出しています。
一部抜粋します。
「蓮華院を旧形通り復興し、
墜落している延命鐘を引き揚げ鐘撞堂を再建し、
あの辺一体は旧寺院の遺跡の如くするを適当且つ
故人三溪園構造の趣旨に適応するものかと考へ候 しかし・・・」
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竹林のかげにひっそりと建っている蓮華院へ担当のNさんが案内してくれました。
華やかな茶会の時とは違い、しっとりと落ち着いていて、寂しいような佇まいです。
「どこか春草廬と似ている」ようにも思います。
先ず、茶会の折、待合に使う土間から拝見しました。
土間へ入ると、真ん中の太い柱と蓮華院の扁額が目に入りました。
この柱は宇治平等院・鳳凰堂の古材と伝えられていますが、実に堂々としていて、
繰り抜かれた柱穴が昔の栄華を物語っていました。
壁にはめ込まれた格子戸も同様に平等院・鳳凰堂の古材だそうですが、とてもモダンです。
太い円柱や格子戸が土間の空間を引き締めて、緊張感の或る雰囲気を醸し出しています。
蓮華院という扁額の由来をNさんにお尋ねすると
「調べてみます・・わかったらお知らせします」
もう一つ、太い柱の脇に石造物があり、木板が乗っていて台(テーブル?)に使えそうです。
石造物は塔の露台で、いつどのように使われたのか興味津々です。
これも三溪翁の好みを強く感じるものでした。
次に、土間に続く広間へ案内されました。
(その2へつづく)
高橋箒庵東都茶会記「蓮華院初茶会」
『その入口の?間に古風の筆蹟を以て蓮華院の三字を題し、時代木彫蓮華の縁を環らしたる竪額あるを見て』
白崎秀雄「原三溪」
『蓮華院を造るにあたって、三溪が誰か茶席造りの先達に諮るやうなことがあっただろうか。どこにも、誰の話にも示唆するものはない。
扁額にも自ら揮毫したにちがひない。』
コメントを頂き、益々興味がつのります。
高橋箒庵東都茶会記「蓮華院初茶会」によると、
同じ蓮華院の額のようにも思いますが・・・どうでしょうか?
やっとやっとこんな形ですが、三溪翁のことを書き始めました。
人となりでも茶人としてもスケールが大きく、
かつ細やかな芸術家タイプのところに惹かれています。
又、高橋箒庵も白崎秀雄も同一の額を見ていると思うのですが、箒庵はその由来には触れず、白崎秀雄は一歩踏み込んで三溪筆と断定しているのが興味深いですね。
実物見てないのでなんですが、写真では蓮華の彫刻など古い時代のものに見えますので個人的には三溪筆はちょっと?です。
ブログの続き今後とも楽しみにしております。宜しくお願いします。
そうだとしても三溪筆ではないと思います。
字体からして禅宗の和尚さまではないでしょうか?
いずれにしても、興味深いことです。
蓮華院の扁額は、原三溪翁の直筆だそうです。
勝手に「?・・違うだろう」と思い込んでいましたが、
ますます「凄い方!」と思います。
確かな情報をお知らせできて良かったです。
川幡さま、ありがとうございました。