暁庵の茶事クロスロード

茶事が好きです。茶事の持つ無限の可能性に魅了されて楽しんでいます。2015年2月に京都から終の棲家の横浜へ戻りました。

三溪園・春のクロスロード茶会・・・(2)春草廬で濃茶を

2019年04月23日 | 茶事・茶会(2015年~自会記録)


 風が吹くと大きな声を発しながら、春の香りを届けてくれるかしら?


茶道口で一礼すると「どうぞお入りを」の声が・・・第4・浅黄席

(つづき)
第1席・曙席、第2席・萌黄席、第3席・若緑席、第4席・浅黄席、第5席・藤紫席、第6席・山吹席そして最後の第7席・牡丹席はスタッフ席で総勢48名様(スタッフ含む)をお迎えしました。

半東O氏のご挨拶から第1席・曙席がスタートしました。

三溪園・春のクロスロード茶会へお出まし頂き、誠にありがとうございます。
ブログ10周年を記念する茶会ですが、暁庵先生はこの伝統ある春草廬で濃茶をお点てして、お客さまと共に春の一日を楽しみたい・・・ということで茶会を開く決意をされたそうです。
朝一番の曙席では九つの窓から清々しい朝の陽光が差し込み、鳥のさえずりが聞こえてくるかもしれません・・・。
どうぞ春草廬で濃茶をごゆっくりお楽しみ下さい。



   O氏の稽古中の写真です・・・

曙席と牡丹席の濃茶は不肖暁庵がお点てしましたが、濃茶点前はO氏とT氏、半東や案内はスタッフ全員(O氏、T氏、池さん、稲さん)で交代でして頂きました。
皆、一生懸命のおもてなしで・・・それが何より嬉しかったですし、2席目の正客I氏のお言葉が印象に残っています。
「緊張感のあるお点前を拝見していると、若き日の自分を見ているようです・・・」と。

茶香がぷう~んと薫り立ち、
「お服加減は如何でしょうか?」
「まろやかで大変美味しゅうございます」
・・・・その度に自分がお点てしたように胸を撫で下ろしました。
主茶碗は一入作黒楽、藪ノ内流7代桂陰斎銘「不老門」、替の飴釉茶碗は6代大樋朔太郎作、10代認得斎銘「松山」です。


 「灑雪庵」(さいせつあん)の御軸と花・・・待合(広間)

席中の特等席(九つの窓が見える)に座り、茶道具や春草廬のことをお話しさせていただきました。
待合(広間)の軸は「灑雪庵」(泉奏筆)、かつて3年ほど住んでいた京都・町家の土間に掛けていた額を軸荘しました。
床にイチハツと山吹を天平瓦写の花入に生けました。我が家は板床なので敷板が無く、京都で購入したミャンマー古寺古材らしき板切れを敷きました。


   「點笑」(てんしょう)の御軸 (自宅にて撮影)

本席の御軸は、「點(点)笑」(てんしょう)、「笑いを絶やさないこと」という意味だそうです。東大寺別当であられた清水公照師の御筆です。
なんて素敵な言葉でしょう! 
クロスロード茶会も、そして皆さまも私もこれからの人生がかくありたいものです。

床に東大寺大仏殿修復古材で作られた「一蓮弁香合」を桜の紙折敷に載せて荘りました。
原三溪翁が好きだったという蓮の花・・・、三溪翁を敬愛しておりますので三溪園の茶会では迷わず「一蓮弁香合」を使うことにしています。

後ほど会記を掲載します。詳しくはそちらをご覧ください。



一席ごとにお客さまが違いますので、同じようなことをお話しているのですが微妙に反応や空気感が違い、それが興味深く面白かったです。
特に初めて茶会で御目文字する6名様、きっと胸をドキドキされているのではないかしら? よくぞ勇気を出して参加してくださいました・・・と感謝です。
お正客さま、連客の皆様が盛り上げてくださっての一座建立。
どの席ももうもう楽しくて、少しでも長く春草廬に居てほしい・・・と思うほどでした。



もう一つ、春草廬の中から眺める窓の景色が素敵でした。
春草廬は古くは九窓亭と呼ばれ、九つの窓がある桃山時代の茶室(重要文化財)です。
窓を2か所少し開けておきました。
木々の新緑が美しく、花もいっぱい咲いていますので、吹き抜ける風が季節の香りを届けてくれるかもしれません・・・。
刻々と窓からの光量や桟が生み出す陰影が美しく変化し、前にも書いたのですが、春草廬の息遣いのようなものを感じながら、茶会は進行していきました。(つづく)


参考に春草廬の概要を以前にブログに書いた記事から抜粋します

古くは九窓亭(くそうてい)と呼ばれ、大正7年(1918年)京都宇治の三室戸寺・金蔵院から譲渡されています。
桃山時代の建築と推定され、織田信長の弟・織田有楽の作と言われていますが、確証はないそうです。

三室戸寺にあった時は、伏見城遺構の客殿(現三渓園・月華殿)に付随する茶室でした。
原三渓はこれを切り離し、月華殿には茶室・金毛窟を建てました。
大正9年(1920年)三渓は、夫人と二人で住む白雲邸を建て、白雲邸に付随する形で春草廬を移築して、広間を新しく付け足しています。

大正11年(1922年)4月19日に春草廬披きの茶事を催しています。
客は益田鈍翁、益田夫人、田中親美、野崎幻庵、梅澤鶴曳。
その翌年、大正12年(1923年)9月1日に関東大震災がおこり、園内のたくさんの建築物が倒壊しました。

春草廬が再び茶会記に登場するのは昭和12年になってからです。
昭和14年(1939年)8月16日、原三渓翁が逝去(享年70歳)。

第二次世界大戦に際して解体保存されていた春草廬ですが、
戦後、三渓園を寄贈された横浜市は蓮華院を現在地へ移し、昭和33年(1958年)12月その跡地に春草廬が再築され、今に至っています。



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