人気小説家の原田マハさんの単行本「たゆたえども沈まず」を読み終えました。
この単行本は2017年10月25日とだいぶ前に、幻冬舎が発行したものです。価格は1600円+消費税です。
この単行本を読み終えるのが大幅に遅れた理由はこの単行本が出張用の資料の中に、埋もれてしまい、一時行方不明だったからです。
この単行本の表紙は、画家フィンセント・ファン・ゴッホが描いた「星月夜」の絵です。現在は米国ニューヨーク市の近代美術館が所有する絵です。
この表紙が表わすように、この単行本は、まだパリ市内で売れない画家だったフィンセント・ファン・ゴッホの姿を描いています。確か、フィンセント・ファン・ゴッホは死ぬまで、絵が売れない画家でした。
この単行本の進行役は、1886年1月にフランスのパリ市に向かった日本人青年の加納重吉(かのうゆうきち)です。東京開成高校に通い、フランス語を学んで首席で卒業した加納は、日本政府が急に英語重視に切り替えたために、フランス語を活かす手立てがなくなりかけます。
その加納を、3年先輩の林忠正が、パリ市で営む日本絵画の画廊勤務を呼びかけます。パリ市に行きたかった加納はその誘いに乗って、パリ市に到着します。美術商の若井・林商会のパリ支店に就職します。この美術商は、パリ市の美術市場でジャポニズム旋風を巻き起こし始めていました。
フランスは1878年に第三回万国博覧会を開催します。普仏戦争などの困難な時期を乗り越え、第三共和政になったフランスが総力を挙げて開催した万博でした。当時のフランス・パリ市は空前の好景気でした。
このころは、絵画では印象派の画家が当時主流の芸術アカデミー派からは、正統派の絵ではないと「官展」(サロン)への出展が認められずに排除されていました。このため、当時、印象派と呼ばれた画家たちは「第一回印象派展」を自分たちで開催し、少しずつファンを増やしていきます。
この当時のパリなどでは、浮世絵などの日本美術が人気を集め始めていました。このる荒川支流の川岸を散策していると、タチアオイ(立葵)の花が咲き始めていました。
その若井・林商会のパリ支店は、加納と林の二人で、人気が出て来た浮世絵などの日本美術品を販売していました。
この小説の重要な主人公の一人は、オランダ人のテオドルス・ファン・ゴッホです。フィンセント・ファン・ゴッホの4歳年下の弟です。
テオドルスは、パリ市の名門の美術商のグービル商会に勤務し、新興の富裕層に芸術アカデミー派の絵画を高値で売っていました。テオドルス・ファン・ゴッホは、本音では印象派の絵に時代を感じ、また日本の浮世絵などの良さを感じていました。
浮世絵などの好みから、テオドルス・ファン・ゴッホは自然と加納重吉と友人になります。
この弟を頼って、パリ市にやって来たフィンセント・ファン・ゴッホは稼ぎもなくお金がないので、真面目な勤め人である弟テオドルスのアパートに転がり込みます。
このフィンセント・ファン・ゴッホはお金がないので、絵を描くための絵の具などの画材も買えず、お人好しのタンギー親父の画材店から借りで、絵を描いています。
そのタンギー親父の画材店への画材などの借金返済を目指して、フィンセント・ファン・ゴッホはタンギーの肖像画を描きます。
この“タンギー親父の肖像画”は有名な作品になります。たいぶ以前に東京都内で開催されたゴッホ展で、この“タンギー親父の肖像画”のハガキを購入しました。
“タンギー親父の肖像画”の背景には、当時のパリ市で人気が出始めていた浮世絵などが飾られています。日本の浮世絵師の歌川豊国、歌川広重などの風景画と美人画の作品6点が“タンギー親父の肖像画”の背後に描かれています。
そして、浮世絵などの日本美術が、パリ市などで活躍する印象派の画家などに大きな影響を与えていたころです。
この小説の中には、当時人気が出始めていた葛飾北斎の浮き世連作の「富嶽三十六景」と呼ばれる連作の話が出て来ます。この「富嶽三十六景」は次第に人気が高まり、江戸市民の評判が上がり「連作を」という声が出ました。この結果、北斎は十景を足して、四十六景になりましたというエピソードが書かれています。
この単行本は2017年10月25日とだいぶ前に、幻冬舎が発行したものです。価格は1600円+消費税です。
この単行本を読み終えるのが大幅に遅れた理由はこの単行本が出張用の資料の中に、埋もれてしまい、一時行方不明だったからです。
この単行本の表紙は、画家フィンセント・ファン・ゴッホが描いた「星月夜」の絵です。現在は米国ニューヨーク市の近代美術館が所有する絵です。
この表紙が表わすように、この単行本は、まだパリ市内で売れない画家だったフィンセント・ファン・ゴッホの姿を描いています。確か、フィンセント・ファン・ゴッホは死ぬまで、絵が売れない画家でした。
この単行本の進行役は、1886年1月にフランスのパリ市に向かった日本人青年の加納重吉(かのうゆうきち)です。東京開成高校に通い、フランス語を学んで首席で卒業した加納は、日本政府が急に英語重視に切り替えたために、フランス語を活かす手立てがなくなりかけます。
その加納を、3年先輩の林忠正が、パリ市で営む日本絵画の画廊勤務を呼びかけます。パリ市に行きたかった加納はその誘いに乗って、パリ市に到着します。美術商の若井・林商会のパリ支店に就職します。この美術商は、パリ市の美術市場でジャポニズム旋風を巻き起こし始めていました。
フランスは1878年に第三回万国博覧会を開催します。普仏戦争などの困難な時期を乗り越え、第三共和政になったフランスが総力を挙げて開催した万博でした。当時のフランス・パリ市は空前の好景気でした。
このころは、絵画では印象派の画家が当時主流の芸術アカデミー派からは、正統派の絵ではないと「官展」(サロン)への出展が認められずに排除されていました。このため、当時、印象派と呼ばれた画家たちは「第一回印象派展」を自分たちで開催し、少しずつファンを増やしていきます。
この当時のパリなどでは、浮世絵などの日本美術が人気を集め始めていました。このる荒川支流の川岸を散策していると、タチアオイ(立葵)の花が咲き始めていました。
その若井・林商会のパリ支店は、加納と林の二人で、人気が出て来た浮世絵などの日本美術品を販売していました。
この小説の重要な主人公の一人は、オランダ人のテオドルス・ファン・ゴッホです。フィンセント・ファン・ゴッホの4歳年下の弟です。
テオドルスは、パリ市の名門の美術商のグービル商会に勤務し、新興の富裕層に芸術アカデミー派の絵画を高値で売っていました。テオドルス・ファン・ゴッホは、本音では印象派の絵に時代を感じ、また日本の浮世絵などの良さを感じていました。
浮世絵などの好みから、テオドルス・ファン・ゴッホは自然と加納重吉と友人になります。
この弟を頼って、パリ市にやって来たフィンセント・ファン・ゴッホは稼ぎもなくお金がないので、真面目な勤め人である弟テオドルスのアパートに転がり込みます。
このフィンセント・ファン・ゴッホはお金がないので、絵を描くための絵の具などの画材も買えず、お人好しのタンギー親父の画材店から借りで、絵を描いています。
そのタンギー親父の画材店への画材などの借金返済を目指して、フィンセント・ファン・ゴッホはタンギーの肖像画を描きます。
この“タンギー親父の肖像画”は有名な作品になります。たいぶ以前に東京都内で開催されたゴッホ展で、この“タンギー親父の肖像画”のハガキを購入しました。
“タンギー親父の肖像画”の背景には、当時のパリ市で人気が出始めていた浮世絵などが飾られています。日本の浮世絵師の歌川豊国、歌川広重などの風景画と美人画の作品6点が“タンギー親父の肖像画”の背後に描かれています。
そして、浮世絵などの日本美術が、パリ市などで活躍する印象派の画家などに大きな影響を与えていたころです。
この小説の中には、当時人気が出始めていた葛飾北斎の浮き世連作の「富嶽三十六景」と呼ばれる連作の話が出て来ます。この「富嶽三十六景」は次第に人気が高まり、江戸市民の評判が上がり「連作を」という声が出ました。この結果、北斎は十景を足して、四十六景になりましたというエピソードが書かれています。