新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

英語の学び方(教えられ方) #2 零れ話

2019-04-02 16:47:47 | コラム
英語の不規則さを心得ておこう:

前回も触れたが、アルファベットの“a”の読み方一つを採り上げても、我が国に生まれ育って学校教育だけで英語を教えらえた方々にとっては、その不規則さには呆れるか驚くかの何れだろうと思う。要するに、ローマ字式やカタカナ英語にしてしまった読み方乃至は発音は、本家本元の英語とは似ても似つかないものになっているということ。とは言ったが、ここにはUKのLondon cockneyやオーストラリアとニュージーランド独特の訛りは含まれていないと思って頂いて良いだろう。

即ち、英語という言葉は至る所に「不規則さ」があって、動詞のように規則動詞よりも不規則動詞の方が多いという現象すら生じているのだ。ここで一寸脱線するが、不規則動詞は“irregular verb”とされているのだが、これは勿論“regular”の反対語として出来たものだと思う。そこを真似たのか、我が国の野球用語には「イレギュラー・バウンド」というのがある。私に言わせれば「では、規則正しいバウンドというのがあるのか」なのだが、アメリかではぶっきらぼうに“bad hop”と言われているようだが、あちらの中継放送でこういう表現があったのを聞いた記憶がない。

話を戻そう。“a”の読み方(または発音でも良いか)の不規則さの例を挙げてみよう。先ずは我が国独特の開発商品の如きローマ字読みはそのままというか、我が国で通用している読み方はされないということ。例えば、青木功という初めてアメリカのトーナメントで優勝したプロゴルファーは、勿論“Isao Aoki”と表記されていた。だが、アメリカには「エイオキ」という名字のプロゴルファーしか存在していなかった。私は寡聞にして“Isao”がどう読まれたか確認していないが、どう考えても「アイサオ」となるしかないと思っている。

“A”という字が入る人名がどう読まれるかと言えば、先ず「ア」となることは極めて希で、殆どの場合「エイ」にされてしまうのである。だから、テニス界の新女王・大坂なおみ(Naomi Osaka)さんはちゃんと「ネイオミ・オサカ」にされていた。何処かで聞いたことがある気がする「前田」もこちらから「マエダ」と読んでくれと予め通告しない限り、「メイダ」か「メイエダ」なることがあった。難儀なことなのである。

英語本来の発音でも単なる「ア」となっている例よりも発音記号で aとeをくっつけたような「エア」にも似た読み方になっている例が多い。例えば“cat”を「カット」とは言わず「キャット」言うし、カタカナ語では「カジュアル」にされてしまった“casual”は「キャジュアル」に近いのが本当の発音である。一寸捻った例だが、“caterpillar”だって「カタピラー」とはなっておらずに「キャタピラー」だし、何故かカタカナ語でも「キャタピラー」となっている。

カタカ
ナ語に「カオス」というのがあって、これは“chaos”のことだと思うが、この読み方は「ケイアス」とする方が原語に近いと思う。以前にも採り上げた「パトリオット」も先人は“patriot”という綴りを見てローマ字式に「パトリオット」にしてしまったようだが、言語は「ペイトウリアット」が近いと思う発音だ。従って「パトリオティズム」というのも、カタカナ語の分類するしかないのだ。

私はこういう英語の不規則性を無視したのか、あるいは知らなかったのか知らないが、ローマ字読み方等でカタカナ語を作って定着させてしまったことを、学校教育の何処かの時点でハッキリと教えて、私の持論でもある「こういう読み方や発音の仕方は通用しないことがあるから要注意と認識させておく必要がある」とあらためて主張したいのである。外国人の中には察しの良い人もいて、カタカナ語でもローマ字読み方でも「多分こういうことを言いたいのだろう」と理解されることも偶にはあるが、経験的には「???」となっていた例が多かったのである。

ここまででは年来の主張である「カタカナ語排斥論」を展開していると思われそうだが、狙いはそこにはない。言いたいことは「長い年月の学校教育における至らなさがあるから、我が国独特のカタカナ語が出来てしまったのだ」という点であり、英語教育改革論のほんの一頁のつもりなのである。


英語の学び方(教えられ方) #2 零れ話

2019-04-02 16:43:31 | コラム
英語の不規則さを心得ておこう:

前回も触れたが、アルファベットの“a”の読み方一つを採り上げても、我が国に生まれ育って学校教育だけで英語を教えらえた方々にとっては、その不規則さには呆れるか驚くかの何れだろうと思う。要するに、ローマ字式やカタカナ英語にしてしまった読み方乃至は発音は、本家本元の英語とは似ても似つかないものになっているということ。とは言ったが、ここにはUKのLondon cockneyやオーストラリアとニュージーランド独特の訛りは含まれていないと思って頂いて良いだろう。

即ち、英語という言葉は至る所に「不規則さ」があって、動詞のように規則動詞よりも不規則動詞の方が多いという現象すら生じているのだ。ここで一寸脱線するが、不規則動詞は“irregular verb”とされているのだが、これは勿論“regular”の反対語として出来たものだと思う。そこを真似たのか、我が国の野球用語には「イレギュラー・バウンド」というのがある。私に言わせれば「では、規則正しいバウンドというのがあるのか」なのだが、アメリかではぶっきらぼうに“bad hop”と言われているようだが、あちらの中継放送でこういう表現があったのを聞いた記憶がない。

話を戻そう。“a”の読み方(または発音でも良いか)の不規則さの例を挙げてみよう。先ずは我が国独特の開発商品の如きローマ字読みはそのままというか、我が国で通用している読み方はされないということ。例えば、青木功という初めてアメリカのトーナメントで優勝したプロゴルファーは、勿論“Isao Aoki”と表記されていた。だが、アメリカには「エイオキ」という名字のプロゴルファーしか存在していなかった。私は寡聞にして“Isao”がどう読まれたか確認していないが、どう考えても「アイサオ」となるしかないと思っている。

“A”という字が入る人名がどう読まれるかと言えば、先ず「ア」となることは極めて希で、殆どの場合「エイ」にされてしまうのである。だから、テニス界の新女王・大坂なおみ(Naomi Osaka)さんはちゃんと「ネイオミ・オサカ」にされていた。何処かで聞いたことがある気がする「前田」もこちらから「マエダ」と読んでくれと予め通告しない限り、「メイダ」か「メイエダ」なることがあった。難儀なことなのである。

英語本来の発音でも単なる「ア」となっている例よりも発音記号で aとeをくっつけたような「エア」にも似た読み方になっている例が多い。例えば“cat”を「カット」とは言わず「キャット」言うし、カタカナ語では「カジュアル」にされてしまった“casual”は「キャジュアル」に近いのが本当の発音である。一寸捻った例だが、“caterpillar”だって「カタピラー」とはなっておらずに「キャタピラー」だし、何故かカタカナ語でも「キャタピラー」となっている。

カタカ
ナ語に「カオス」というのがあって、これは“chaos”のことだと思うが、この読み方は「ケイアス」とする方が原語に近いと思う。以前にも採り上げた「パトリオット」も先人は“patriot”という綴りを見てローマ字式に「パトリオット」にしてしまったようだが、言語は「ペイトウリアット」が近いと思う発音だ。従って「パトリオティズム」というのも、カタカナ語の分類するしかないのだ。

私はこういう英語の不規則性を無視したのか、あるいは知らなかったのか知らないが、ローマ字読み方等でカタカナ語を作って定着させてしまったことを、学校教育の何処かの時点でハッキリと教えて、私の持論でもある「こういう読み方や発音の仕方は通用しないことがあるから要注意と認識させておく必要がある」とあらためて主張したいのである。外国人の中には察しの良い人もいて、カタカナ語でもローマ字読み方でも「多分こういうことを言いたいのだろう」と理解されることも偶にはあるが、経験的には「???」となっていた例が多かったのである。

ここまででは年来の主張である「カタカナ語排斥論」を展開していると思われそうだが、狙いはそこにはない。言いたいことは「長い年月の学校教育における至らなさがあるから、我が国独特のカタカナ語が出来てしまったのだ」という点であり、英語教育改革論のほんの一頁のつもりなのである。


5月1日からの新元号発表に思うこと

2019-04-02 08:11:12 | コラム
「平成」が発表された時には:

私にはあの故小渕恵三官房長官(当時)が額を掲げて「ヘイセイ」と読み上げられ、その後は一般的に発音されている「ヘーセー」ではなかったのが未だに記憶に残っている。特に群馬県出身の小渕氏が関西というか九州地方的な発音で「ヘイセイ」としたのは正確を期そうとされたのだろうが、その読み方が極めて印象的だった。

だが、あの頃を一生懸命に思い出そうとしても、昨日のような大騒ぎにはならなかったのは昭和天皇の崩御の後のことだったから当然だろうが、あの日本中を挙げてといえば大袈裟だろうが、マスコミの盛り上がり(というかお祭り騒ぎというか空騒ぎ)には些か辟易とならざるをえなかった。恐らく現在の我が国にいる人の全部がその生存中に事前に新元号が発表されるのは初めての経験だろうから、あれほどの活況を呈したのも仕方がないとは思う。だが、既に指摘したように「何とか48」の総選挙と同じような騒ぎにしたマスコミの軽さにはウンザリさせられている。

私が何となく怖れていることは「あれだけ盛り上げてしまえば、何処かにいるかも知れないそそっかしい人がもう新元号が有効になっている」と錯覚を起こしてしまいそうな危険性である。私は新元号は皇太子様が即位される5月1日からだと思っているのだが。

実は、高齢化現象が著しく進行したのだろうか、私は昨日国立国際医療研究センター病院の自動会計精算機で無事に支払いを終えた後で採血の為に抜いてきた朝食を早く取ろうと慌てていたので、全てのカード類と僅かな現金を入れた財布を機械の前に置き忘れて立ち去ったようだったのだ。そこから移動して地下の広場に降りて食事を終えて立ち上がり、ポケットを探ってもリュックサックの中にも何処にも入っていなかった。

誰かに持ち去られていたら、現金は兎も角カード類を無効にする手配だけでも大変なことになってしまうのだとばかりに、会計のカウンターに駆けつけても届け出はないと言われるし、正面の受付も知らないと言われた。ところが、会計の女性が「念の為に入院会計にもお聞きになれば」と言って貰えたので直ぐ隣のカウンターに駆けつけた。

すると「お名前は」と尋ねられたので急いで名乗れば「これですね。中身のご確認を」と手渡されたのがまさしく私の財布だった。中には現金等全てそのままだった。何処の方かも知らない患者さんの善意にも心から感謝したが、矢張り我が国の民度の高さというのか善意というのか正直さというのか夢中で解らなかったが、素晴らしいものだと感動していた。本当に有り難がった。しかし、次の予定である掛かりつけのクリニックに回る予定があったので、余韻に浸る間もなくまた慌てて病院を飛び出した。それが丁度新元号の発表の時刻が迫っている頃だったようだった。

クリニックでの診察も終えて帰宅すると家内に「レイワですって」と言われたのだが、暫くの間は何を言っているのか把握できなかった。恐らく生まれて初めてだった財布の置き忘れの衝撃で「心ここにあらず」状態が続いていたのだろう。落ち着いて理解できた後は「それに決まったのならばそれで結構じゃないか」とだけ考えていた。私には総理が談話を発表されたり、言うところの有識者たちが見解を述べられるのは良いと思うが、あの空騒ぎにも似た盛り上がりにはかえって反感を覚えるだけで、煩さ過ぎるとすら感じている。