新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

英語の学び方(教えられ方) #3

2019-04-03 08:50:48 | コラム
英語の学び方を語る:

音読・暗記・暗唱:


私は我が国の英語教育では「答えは一つである」というような数学の問題の解答にも似た教え方をするので、常に絶対的に正しいと思う表現なり話し方なりを選ぼうとしてしまうのだと見てきた。

この非常に厳格な縛りの中で「科学としての英語」を数学のように教えて試験の採点をして、尚且つ5段階で査定していくのが我が国の学校教育における英語の教え方であるのだから、「英語とは窮屈なものだ。解りにくいものだ」という嫌悪感が発生したのも無理はないと思っている。しかも、その行く手にはTOEICだのTOEFLなどが待っているのだから始末が悪い。

私は中学生の頃に何の理屈も理論的な裏付けなとなく、そういう勉強の仕方や教えられ方を避けて、学校で何を教えられようと関係なく自分勝手に最も楽な勉強の仕方であった「音読・暗記・暗唱」だけを続けてきた。その勝手なやり方でも何故か正しい言い方と表現を記憶できたし、表現の小引き出しが学校で教えられるやり方に真面目についていった者たちよりも増えていたという結果を生んでいたのだった。

念の為に確認しておけば、音読・暗記・暗唱の他には「単語帳も単語カードも一切作らない」、「教科書でも何でも知らない単語に出会ったらその都度辞書を引いて意味を理解しようとした」、「教科書には一切書き込みをしない」、「英文和訳をして理解しようとはしない」、「英作文というか、英語では何と言うかを、知っている限りの単語を記憶の小引き出しから採りだして書いてみる」を実践していた。

その結果としては、旧制中学から大学の教養課程までの間に、英語の試験で90点を切ったのが2回しかなかったというところに到達していたのだった。更に、高校1年の頃にはアメリカ人たちの中に入っても意思の疎通で何ら問題を感じたことがなかったほど、“I know how to express myself well enough.”と言っても良い次元にも達していた。

勿論、その間には大学受験を控えて佐々木高政氏の名作「英文構成法」で英作文の勉強を懸命にしていたのだった。この本で学んだことの効果は絶大で、W社の東京事務所の副社長補佐だった日系人でワシントン大学のMBAであるJ氏には有り難いことに「英文を書く基本は出来ている」と認めて貰えたのだった。

私は偉そうに「音読・暗記・暗唱」を推薦し「単語カード」だの「単語帳」だの、「英文和訳」だの「英作文」等々の勉強をしなかったというが、そこには何の理論的根拠はなかったのだ。正直に言えば「そんな面倒な事をしなくても英語だけは良い点数が取れた」というだけのことで、言うなれば「ずぼら」だったとでもなるだろう。

即ち、チャンと英語を指導要綱に従って教えておられた先生方から見れば、不真面目な生徒だったにも拘わらず、気が付けば高校の頃には「文法の達人」とも周囲にも認められるようにもなっていたのだった。そのような次元に達したのが、偶然だったのか、その「ずぼら」な勉強法が良かったのかなどは未だに不明だが、それでも当時の湘南中学(高校)に無数にいた秀才たちと英語だけは何とかついていける成績を残せたのだった。

しかし、大学に入って私などは到底及ばない凄い英語力を持った同級生に出会って、恐る恐る高校までの英語の勉強法を尋ねてみれば、何と私と全く同じだったのには感動した。彼は私とは違って全科目に優れていたので、3年になった時に大学の推薦で同じイエズス会系のアメリカの大学に留学に出て行った。ではあっても、私の勉強法が必ずしも誤りではなかったことが立証されたので、大いに意を強くしたのだった。

私には彼とも他の学生とも違っていた英語の勉強法に違いがあったことは認めておかねばなるまい。それは終戦後直ぐからGHQの日系人の秘書の方に「英語だけで考える事」と「英語だけで考えて英語を話す事」を言わば強制されたことが大きな力になっていたと言える点だろう。

私は大学の卒業を目の前にして「英語で仕事をする会社にだけは行きたくない」と固く心に決めていた。それは英語と日本語との違いを知っていただけに、仕事の面で英語を使う事がどれほど余計な負担になるだろうかと考えたからだった。また、新卒で採用して頂いた会社に勤務している間には、一度たりともアメリカの会社に転進することなど考えたことなどなかった。それが偶然の積み重ねで17年もお世話になった会社を離れて39歳にして現実のことになってしまったのだった。

断言したいことは、転進は英語が出来るからではなく「紙パルプ業界における私の能力が評価されたから」と確信している。念の為に確認しておけば「アメリカの会社に入ってしまえば、英語が出来るなどということは、何ら評価の対象にはならないのである」という点だ。